第八話「流れの先」
夜は、浅くしか眠れなかった。
森口家の中は静かだった。
けれど、静かすぎた。
いつもなら、誰かの足音がする。
三樹が夜中に台所へ行く足音。
五樹がスマホを見ながら廊下を歩く気配。
六樹が豆と菊のカメラを確認する小さな音。
一樹が祖父の部屋の前で足を止める気配。
四葉が寝返りを打ち、二葉の方へ少し近づく布団の音。
そういう、家の中の生活音がある。
だが、その夜は違った。
みんな、起きていた。
眠っているふりをして、耳だけが家の外を向いていた。
ぴちゃ。
もう家の中ではない。
けれど、遠くで水音がする。
竜地の奥の方から。
大溜井の方から。
呼んでいるように。
二葉は布団の中で目を開けていた。
隣では、四葉が静かに寝息を立てている。
いや、寝息に聞こえるだけだ。
「起きてるでしょ」
二葉が小さく言う。
四葉はすぐに答えた。
「起きてる」
「だと思った」
「二葉も」
「うん」
天井は暗い。
障子の向こうも、まだ夜だ。
四葉が布団の中で少し動いた。
「怖い?」
二葉は少し黙った。
前なら、すぐに大丈夫と言っていた。
そう言えば、みんな安心すると思っていた。
自分が怖がると、場が揺れると思っていた。
でも、昨夜、言った。
ちょっと怖い、と。
そう言っても、家は崩れなかった。
五樹は支えた。
一樹は止めなかった。
三樹は目をそらしたけれど、逃げなかった。
四葉は良い傾向と言った。
六樹は記録した。
だから二葉は、今も小さく言った。
「怖い」
四葉は、すぐには何も言わなかった。
それから、いつもの平坦な声で言う。
「正常」
「そう?」
「怖いものを怖いと思えるのは、判断材料として正しい」
「四葉らしいね」
「二葉は、怖いのに行くから危ない」
「……うん」
「だから、今日は一人で前に出ないで」
二葉は天井を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「分かった」
四葉がすぐに言う。
「二葉の分かったも、信用度は高くない」
「みんな、それ言うね」
「実績」
二葉は、少しだけ笑った。
その笑いが、暗い部屋に小さく落ちた。
廊下の向こうで、物音がした。
一樹だ。
起こしに来るには、まだ少し早い。
けれど、一樹はもう起きている。
二葉は布団から起き上がった。
「行こう」
四葉も、静かに起きた。
森口家の朝は、まだ始まっていない。
台所には、明かりがついていた。
母の葉澄が、おにぎりを握っていた。
白い湯気が、炊飯器から上がっている。
唐揚げではない。
甘納豆赤飯でもない。
ただの塩むすび。
けれど、その匂いだけで少し落ち着いた。
「おはよう」
母が言う。
二葉は少し驚いた。
「母さん、早い」
「あなたたちが行くなら、これくらいはね」
食卓の上には、竹皮風の包みに入ったおにぎりが並んでいた。
水筒もある。
温かいお茶。
三樹用には、少し大きめのおにぎりが別に置かれている。
すでに三樹がそれを見つめていた。
スウェット姿のまま、真剣な顔をしている。
「これは俺の?」
母が笑う。
「そう」
「今食べていい?」
二葉が即座に言う。
「現地用」
「一個だけ」
「現地用」
「腹減ってる」
「知ってる」
一樹が甚平ではなく、外へ出る服に着替えて台所へ入ってきた。
「三樹、出発前に食べると現地でまた腹減ったって言うだろ」
「食べなくても言う」
「余計だめだ」
五樹は、Tシャツにデニムの上から薄い上着を羽織っていた。
いつもより少しだけ表情が硬い。
「二葉、食べられる?」
「うん」
「無理なら半分」
「大丈夫」
五樹は少しだけ眉を寄せた。
「大丈夫じゃなくて、食べられるか」
二葉は小さく笑った。
「食べられる」
「ならよし」
六樹はすでにiPadとモバイルバッテリーを確認している。
豆と菊は今日は連れて行かない。
大溜井は危険すぎる。
それでも六樹は、豆と菊のペットカメラを何度も確認していた。
「六樹」
一樹が声をかける。
「豆と菊はオフィス?」
「うん。環境正常。水、餌、ドギードア、カメラ、全部確認済み」
「なら大丈夫だ」
「大丈夫」
六樹はそう言いながら、もう一度だけ画面を見た。
五樹が横から覗く。
「豆、寝てる?」
「寝てる」
「菊は?」
「起きてる。たぶん僕が出るのを察知してる」
「かわいいねぇ」
「かわいい」
「即答」
四葉はロンTにレギンスではなく、動きやすい外出着に着替えていた。
それでもポケットには、みどり豆の小袋が入っている。
二葉が見る。
「四葉、それ持っていくの?」
「緊急用」
「何の?」
「精神安定」
一樹がため息をついた。
「現場でぽりぽりするなよ」
「状況による」
「するな」
「努力する」
「四葉の努力するも信用できないな」
三樹が笑った。
「みんな信用低いな」
一樹が見る。
「お前が一番低い」
「俺?」
六樹が淡々と言う。
「三樹の“分かった”は十六回記録済み」
「まだ引っ張るのかよ」
母が、くすりと笑った。
その笑い声で、少しだけ朝が来た気がした。
玄関には、祖父の樹蔵が立っていた。
「おじいちゃん」
二葉が言う。
樹蔵は、いつものように重い目で六人を見た。
「日が上がる直前に着くように行け」
一樹が頷く。
「はい」
「夜明け前は、向こうが強い。日が上がりきれば、人の目が増える。狭間がいい」
四葉が言う。
「境が変わる瞬間」
「そうだ」
六樹がiPadにメモする。
「現地到着予定、日の出二十分前」
「よし」
樹蔵は二葉を見た。
「二葉」
「うん」
「見るなとは言わん。だが、見たものに引かれるな」
「分かった」
「五樹」
「はい」
「二葉を見るな。二葉の周りを見ろ」
五樹の表情が少し変わった。
「……分かった」
二葉が五樹を見る。
五樹はいつもの軽い顔には戻らなかった。
樹蔵は続ける。
「三樹」
「おう」
「水際に出るな」
「……分かった」
一樹がすぐに見る。
三樹が眉を寄せる。
「今回は本当に分かってる」
六樹が口を開きかけた。
三樹が指差す。
「数えるな」
六樹は一拍置いて言った。
「未記録」
「それでいい」
「四葉」
樹蔵が呼ぶ。
四葉は顔を上げる。
「何を見るか分かるな」
「人が見落とす違和感」
「そうだ」
「六樹」
「はい」
「記録は大事だ。だが、記録に追われるな。言葉は、場を定める」
六樹の指が止まる。
「……分かった」
「一樹」
最後に、樹蔵は一樹を見た。
「全部を背負うな」
一樹は、一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ苦笑した。
「それが一番難しいですね」
「難しいから言っている」
祖母の葉月が、奥から小さな包みを持ってきた。
「これも持っておいき」
二葉が受け取る。
「なに?」
「甘いもの」
「おばあちゃん」
「怖い場所へ行くなら、帰りに甘いものがいるでしょう」
包みの中には、小さな栗まんじゅうが入っていた。
三樹の目が輝く。
「俺も?」
祖母は笑った。
「もちろん」
一樹が小さく言う。
「完全に遠足だな」
五樹が返す。
「遠足にしては行き先が最悪だけどね」
その軽口で、ようやく少しだけ空気が緩んだ。
六人は、玄関を出た。
朝の空気は冷たかった。
まだ夜の名残がある。
空の下の方だけが、少し白い。
車は二台だった。
一樹の運転するRAV4に、一樹、二葉、五樹。
三樹の運転するラングラーに、三樹、四葉、六樹。
ランドクルーザーを使わなかったのは、現地周辺の道が細いからだ。
それと、一台が足止めされた時のため。
一樹が車の前で言う。
「三樹、飛ばすな」
「分かってる」
六樹がラングラーの助手席で言う。
「一回目」
三樹がハンドルを握りながら叫ぶ。
「出発前から数えるな!」
四葉が後部座席でシートベルトを締める。
「妥当」
「四葉まで!」
五樹がRAV4の後部座席で笑った。
二葉は助手席に座る。
五樹は迷わず二葉の後ろに座った。
一樹がミラー越しにそれを見る。
「五樹」
「なに?」
「近い」
「後部座席だから普通」
「お前の普通は当てにならない」
二葉がシートベルトを締めながら言う。
「一樹、時間」
「はいはい」
車が動き出した。
森口家を出て、北へ向かう。
下宿。
中宿。
上宿。
古い地名を、まだ暗い道の上で通り過ぎていく。
家々は眠っている。
畑は薄い霧をかぶっている。
道端の用水路は、細く光っている。
三樹のラングラーが、後ろからついてくる。
一樹は前を見たまま言った。
「二葉、何か聞こえるか」
二葉は窓の外を見る。
「まだ」
「見えるものは?」
「普通の朝」
「普通ならいい」
五樹が後ろから言う。
「普通の朝って、今すごくありがたい言葉だね」
一樹は前を見たまま頷いた。
「普通は強い」
「じいちゃんも言ってたね。生活がある場所は強いって」
二葉は、昨日の台所を思い出す。
黒い水滴。
シンクの下からした音。
床にできた小さな水の跡。
咲耶浄花でほどいた濁り。
受け石へ流した黒。
怖かった。
でも、流せた。
「一樹」
「ん?」
「止めるんじゃなくて、流すんだよね」
「ああ」
「でも、流した先が間違ってたら?」
一樹はすぐには答えなかった。
車は静かな道を進む。
五樹も黙っている。
やがて、一樹が言った。
「だから道を見る」
「道」
「水の道。人の道。昔の道。今の道。どこへ流せば腐らず、どこへ流せば壊さないか」
二葉は、小さく頷いた。
五樹が言う。
「それ、二葉だけで決めないでね」
二葉が振り返る。
五樹は笑っていなかった。
「二葉、すぐ自分で引き受けるから」
「……うん」
「今日は、みんなで道を作る」
二葉は少しだけ目を伏せた。
「分かった」
五樹は一拍置いた。
「今のは信じる」
一樹がミラー越しに二人を見る。
「朝から二人の空気を作るな」
「兄貴、嫉妬?」
「違う」
「じゃあ回収係の職業病?」
「そっちだ」
五樹が少し笑った。
後ろのラングラーでは、三樹が窓を少し開けていた。
冷たい朝の空気が入る。
六樹がすぐに言う。
「寒い」
「匂い見るだけ」
「匂いは見るものではない」
「細かいな」
四葉が後ろから言う。
「三樹の感覚語彙は独特」
「悪口?」
「分析」
三樹は鼻を利かせた。
土。
朝露。
草。
古い水。
石。
少しだけ、泥。
そして、その奥。
「……黒い」
六樹が反応する。
「匂い?」
「いや、感じ」
四葉がタブレットを見る。
「この先、竜地の端」
三樹の手が、ハンドルを握り直す。
「近い」
六樹はiPadを開いた。
「地図上では、大溜井まであと三分」
「三分もある感じじゃない」
「どういう意味」
「もう、そこにある」
四葉が顔を上げる。
「空気が先に来てる?」
三樹は頷いた。
「そう」
六樹は短く記録した。
「現地到着前から感知。距離感のずれ」
三樹が少し笑う。
「お前、そういうとこちゃんとしてるな」
「記録担当だから」
「頼りにしてる」
六樹の指が少し止まった。
「……そう」
四葉がそれを見て、小さく言う。
「六樹、照れた」
「照れてない」
「記録」
「しなくていい」
車は、大溜井への道に入った。
空が白み始めている。
東の空が、少しだけ淡い。
まだ日は出ていない。
けれど、夜はもう後退し始めていた。
大溜井は、住宅地から少し外れたところにあった。
今はコンクリートの壁が作られている。
昔の石積みではない。
だが、その場所に近づくにつれて、空気が重くなる。
水の気配がある。
見えないのに、足元が湿るような感覚。
背中に冷たいものが乗るような感覚。
一樹が車を停めた。
三樹のラングラーも、その後ろに停まる。
六人は、ほぼ同時に車を降りた。
誰もすぐには話さなかった。
目の前に、大溜井があった。
コンクリートの壁。
その内側にある水。
朝の薄い光を受けて、表面は静かに見える。
ただ、静かすぎた。
水なのに、息をしていない。
二葉は、無意識に一歩近づきかけた。
五樹の手が、すぐに腕に触れる。
「二葉」
二葉は止まった。
「ごめん」
「謝らなくていい。止まればいい」
三樹が前に出た。
一樹が言う。
「三樹」
「水際には出ない」
「よし」
「でも見る」
「見ろ。触るな」
三樹は頷いた。
四葉は周囲を見回す。
「虫の声が少ない」
六樹が時計を見る。
「日の出前だから通常より少ない可能性もある」
「でも、鳥も少ない」
「記録する」
五樹が周囲の家を見た。
「人の気配はまだ薄い。近所には広がってなさそう」
一樹が頷く。
「ありがたいな」
「今のところはね」
二葉は、大溜井を見た。
水面は暗い。
夜がまだ残っているからではない。
底に何かがある。
昨日、器の水面に映ったものと同じだった。
広い溜まり。
月のない空。
底に沈んだ黒。
二葉の喉が鳴る。
「……ここだ」
六樹がiPadに地図を重ねる。
「昨日の画面の滲み、中心はここ」
四葉が近くの地面を見る。
「水が届かなかった場所」
一樹が答える。
「竜地まで水が届かないことがあった。だから大溜井が作られた」
五樹が言う。
「水を届けるための場所なのに、今は溜まりすぎてる?」
四葉が頷く。
「届かなかった水と、溜めた水。両方の記憶がある」
三樹が水面を睨む。
「あと、落ちた人の記憶」
空気が止まった。
二葉が三樹を見る。
三樹は水面から目を離さない。
「いる」
一樹が静かに問う。
「人か」
「人の形じゃない。でも、落ちた感じがする」
六樹が低く言う。
「事故の記憶」
四葉が補足する。
「場所に残ったもの」
五樹の声が少し低くなる。
「それが黒に混じってる?」
一樹は水面を見る。
「たぶんな」
その時、水面が揺れた。
風はない。
だが、中心から小さな波紋が広がった。
ぴちゃ。
水音がした。
全員が動きを止める。
その音は、昨日のHomePodの音と同じだった。
台所の床下からした音とも同じだった。
けれど、今は本物の水面から聞こえた。
二葉が一歩前に出る。
五樹が止める前に、一樹が言った。
「二葉、そこまで」
二葉は止まる。
「うん」
六樹が水面を記録する。
「波紋、中心から外へ。風なし。音と同期」
四葉が水面を見ながら言う。
「呼んでる」
三樹が低く言う。
「引っ張ってる」
五樹が、二葉の横に立った。
「二葉、見すぎないで」
「うん」
「本当に」
「うん」
二葉は、意識してまばたきをした。
水面を見すぎない。
でも、見ないと分からない。
その境目が難しい。
一樹が、手をかざした。
「天照御垣」
淡い光の線が、六人の足元に走る。
大溜井の縁に沿うのではなく、六人の立つ場所を囲う。
守るための囲い。
同時に、踏み越えないための線。
一樹が言う。
「ここから先には出るな」
三樹が小さく舌打ちする。
「分かってる」
六樹が見る。
三樹が先に言った。
「数えるな」
「まだ何も」
「顔が数える顔だった」
「顔で判断しないで」
四葉が言う。
「顔に出てた」
「四葉」
緊張の中で、わずかに空気が緩む。
だが、その瞬間、水面がまた揺れた。
ぴちゃ。
今度は、音が二つ重なった。
ひとつは大溜井。
もうひとつは、六樹のiPadからだった。
六樹の指が止まる。
画面が黒く滲む。
五樹が言う。
「また機械?」
六樹は表情を変えない。
「オフライン。通信なし。なのに音が出た」
「最悪」
「昨日と同じ」
四葉が画面を覗く。
「でも、昨日より近い」
iPadの地図上で、大溜井の位置から黒が広がっている。
その広がりは、昨日より薄い。
しかし、線のようなものが見えた。
細い黒い線。
大溜井から、どこかへ伸びようとしている。
二葉が息を止めた。
「流れようとしてる」
一樹が見る。
「どこへ」
六樹が地図を拡大する。
「現在の排水経路ではない」
四葉が重ねる。
「古い水筋」
五樹が眉を寄せる。
「家に来たのも、その線?」
六樹は頷いた。
「可能性が高い」
三樹が言う。
「じゃあ、道を間違えてるんだな」
一樹が三樹を見る。
三樹は水面を睨んでいる。
「流れたいんだろ。でも行き先がない。だから、変なとこ探ってる」
四葉が静かに言う。
「家の中の入口を探した」
「そう」
三樹は短く答えた。
「道が分かんねえから、手当たり次第」
二葉の手が、少し震えた。
五樹が気づく。
「二葉」
「大丈夫」
五樹は黙った。
二葉はすぐに言い直す。
「怖い。でも、大丈夫。五樹、横にいて」
五樹の顔が変わる。
「いる」
その一言は、軽くなかった。
一樹が二人を見て、それから水面に目を戻す。
「道を作るには、行き先が必要だ」
四葉が言う。
「受ける場所」
六樹が頷く。
「昨日は受け石」
「大溜井の黒を、森口家の受け石に流すのは危険すぎる」
一樹が言う。
「家が受けきれない」
三樹が腕を組む。
「じゃあ、どこに流す」
沈黙。
水面だけが揺れている。
二葉は周囲を見た。
コンクリートの壁。
薄い朝。
古い土地。
水が届かず、溜めるために作られた場所。
落ちた人の記憶。
届かなかった水。
溜まった黒。
止めれば腐る。
暴れれば壊す。
道を作れば流れる。
樹蔵の声が、頭の中で響く。
二葉は小さく言った。
「流すんじゃなくて、戻す」
一樹が見る。
「戻す?」
「本来の流れに」
四葉の目が動いた。
「楯無堰」
六樹がすぐに地図を切り替える。
「古い水路の方向。ここから直接ではないけど、記憶としては繋がる」
五樹が言う。
「人が作った水の道」
一樹が頷く。
「そうか。自然の川じゃない。人が通した水の道」
三樹が水面を見る。
「なら、人が道を思い出させればいい」
四葉が低く言う。
「でも、今ここで全部は無理」
六樹も頷く。
「黒の全量は不明。底は動いていない。今見えているのは端」
一樹が言う。
「今日は道の入口だけ作る」
二葉が頷いた。
「うん。全部じゃない。昨日、家に来た分と、今こぼれかけてる分だけ」
五樹が不安そうに見る。
「二葉が受けるんじゃないよね」
「受けない」
「本当に?」
「受けない。道を示すだけ」
六樹が言う。
「言葉で定める必要がある」
四葉が六樹を見る。
「六樹の出番」
六樹は少しだけ黙った。
それから、iPadを閉じた。
「記録はあと」
三樹がにやっと笑う。
「いいじゃん」
六樹は水面を見る。
「名前を呼ぶ。場所を定める。道を指定する」
一樹が結界を広げる。
「俺が外に漏れないように囲う」
三樹が前へ出ようとする。
一樹が見る。
三樹は止まった。
「水際には出ない。けど、黒が跳ねたら逸らす」
「よし」
四葉が周囲を見る。
「光が変わる。あと少しで日が上がる」
五樹が二葉の横に立つ。
「二葉は咲耶浄花?」
「うん。でも、消さない」
「ほどく?」
「ほどいて、道に乗せる」
五樹は頷いた。
「横にいる」
六人が位置につく。
一樹が中心を見て、結界を組む。
二葉が水面に向き合う。
三樹が一歩前で、身体を低くする。
四葉が周囲の影と水面の変化を追う。
五樹が二葉の横で、二葉と周囲の両方を見る。
六樹が一歩後ろで、声を整える。
水面が揺れた。
黒が、中心から浮かぶ。
ぷくり。
昨日の器と同じ泡。
だが、今回は大きい。
二葉の指が震える。
五樹の手が、二葉の肩に触れた。
「二葉」
「うん」
「今、怖い?」
「怖い」
「よし」
「よしなの?」
「言えたから」
二葉は少しだけ笑った。
「五樹、変なの」
「知ってる」
水面から、黒い泡が弾けた。
ぴちゃ。
音が、足元で鳴った。
結界の外側に、黒い水滴が落ちる。
一樹の光がすぐに囲う。
「天照御垣」
黒い水滴は広がれない。
三樹が低く言う。
「跳ねる」
次の瞬間、黒い水滴が細く伸びた。
蛇のように、二葉の方へ。
三樹が踏み出す。
「おら」
触れない。
だが、足元の砂利を蹴った。
砂利が黒い筋の前に散る。
黒は一瞬、流れを乱す。
一樹の結界が、その乱れた黒を囲い直す。
六樹が声を出した。
「竜地の大溜井」
その声は静かだった。
けれど、地面に落ちるように重かった。
「水を溜めた場所。届かなかった水を受けた場所」
水面が揺れる。
「ここは入口ではない。ここは終点でもない」
黒い水が震える。
六樹は続ける。
「人が作った水の道を、思い出せ」
四葉が低く言う。
「北西、古い水筋に反応」
六樹がそちらを見ずに続ける。
「楯無堰。宗貞堰。立石堰」
名前が出た瞬間、空気が変わった。
水面に、細い線が浮かぶ。
見えるはずのない水路。
地図ではなく、土地の記憶に残る線。
一樹が手を広げる。
「道を開くんじゃない。道を示す」
二葉が手をかざした。
「咲耶浄花」
淡い光が、黒い水滴の周囲に落ちる。
消すのではない。
壊すのでもない。
濁りを、ほどく。
黒の中に混じっていたものが、少しずつ分かれていく。
水。
泥。
声。
落ちた記憶。
届かなかった悔しさ。
溜められたまま動けない重さ。
——みずを。
声がした。
二葉の指が震える。
——みずを。
「水が欲しかったんだね」
二葉が言った。
五樹の表情が硬くなる。
「二葉、引っ張られないで」
「うん」
——みずを。
「でも、ここから家には行かせない」
二葉の声が、少し強くなる。
「森口家は入口じゃない」
黒が揺れる。
「あなたたちの行き先でもない」
一樹の結界が、細い道を作る。
水面から浮かんだ黒が、二葉の光に沿ってほどける。
そして、六樹が呼んだ古い水筋の方へ、細く向きを変えた。
四葉が言う。
「動いた」
三樹が続ける。
「まだ暴れる」
黒い水が、急に膨らんだ。
水面の中心が盛り上がる。
まるで、底から何かが押し上げてくるように。
一樹が低く言う。
「底は動かすな」
六樹が声を強くする。
「底ではない。端だ」
水面が一瞬止まった。
「今、呼ばれたのは端。底はまだ眠れ」
その言葉に、水の奥が震えた。
三樹が歯を食いしばる。
「やべえのがいるな」
四葉が顔をこわばらせる。
「底、かなり深い」
五樹が二葉の肩を支える手に力を込める。
「二葉、今日はそこまで見なくていい」
「うん。見ない」
二葉は、意識して水面の中心から目を外した。
黒の端だけを見る。
今、流せるものだけを見る。
全部を助けようとしない。
全部を受けようとしない。
二葉の光が、細くなる。
水筋も細くなる。
一樹の結界がそれを支える。
六樹の言葉が道を定める。
三樹が跳ねる黒を砂利と足運びで逸らす。
四葉が危険な影を見つける。
五樹が二葉の呼吸を見ている。
六人で、道を作っている。
やがて、黒い水滴は薄くなった。
水面の波紋が小さくなる。
東の空が、白から金に変わる。
日が上がる。
その光が、大溜井の水面に差した瞬間。
黒い線が、ふっと切れた。
ぴちゃ。
最後の水音がした。
けれど、それは昨日の音とは違った。
落ちる音ではない。
流れる音だった。
細い水が、どこかへ通った音。
二葉は、ゆっくり手を下ろした。
五樹がすぐに支える。
「二葉」
「大丈夫」
五樹が眉を寄せる。
二葉は言い直した。
「疲れた。でも、大丈夫」
「よし」
三樹がその場に座り込んだ。
「腹減った」
一樹が力を抜いた。
「お前、本当にぶれないな」
「動いたから」
「ほとんど動いてない」
「緊張した」
六樹が頷く。
「三樹は燃費が悪い」
「お前も言うようになったな」
四葉がポケットからみどり豆を出しかけた。
一樹が見る。
「四葉」
四葉は動きを止めた。
「今?」
「今じゃない」
「じゃあ、車」
「車ならいい」
「許可された」
五樹が笑った。
「基準ゆるくない?」
「現場で食べないならいい」
水面は静かだった。
まだ黒はある。
消えてはいない。
底には、もっと深いものがある。
だが、昨日より薄い。
少なくとも、家へ伸びようとしていた線は切れていた。
六樹がiPadを確認する。
「黒の滲み、縮小。家方向への線、消失」
一樹が頷く。
「成功か」
四葉が水面を見る。
「一時的には」
三樹が立ち上がる。
「じゃあ、また来るのか」
「たぶん」
二葉が言う。
「でも、次は家の中じゃない」
五樹がすぐに返す。
「それだけで十分」
一樹は大溜井を見た。
「本丸は底だな」
六樹が頷く。
「底にあるものは、まだ動いていない」
四葉が静かに言う。
「底を動かすには、土地の記憶が足りない」
「楯無堰だけじゃない」
一樹が続けた。
「信玄堤、身曽岐神社、昇仙峡。水の道と、祓いの道と、石の道」
二葉が顔を上げる。
「水晶」
五樹が二葉を見る。
「昇仙峡?」
「うん。水と石」
三樹が言う。
「じゃあ次は山か」
六樹が記録する。
「関連候補、昇仙峡、金櫻神社、水晶」
四葉が少し目を細める。
「二葉と五樹の下見が必要かも」
五樹が一瞬で反応した。
「俺?」
一樹が見る。
「何で嬉しそうなんだ」
「いや、別に」
「顔」
三樹が笑う。
「五樹、デート気分出てる」
「出てない」
六樹が淡々と言う。
「出ている」
四葉も頷く。
「かなり」
二葉が首を傾げる。
「下見でしょ?」
五樹は少し遠い目をした。
「二葉、そういうとこ」
一樹は額を押さえた。
「大溜井の前で恋愛未満の空気を出すな」
「兄貴、恋愛未満って言った?」
「言ってない」
「言った」
「忘れろ」
四葉が小さく言う。
「記録した」
「四葉」
六樹が追加する。
「僕も」
「六樹まで」
二葉がようやく笑った。
朝日が、水面に広がる。
大溜井は、普通の水場に見えた。
コンクリートの壁。
静かな水。
朝の光。
だが、六人はもう知っている。
ここは、ただの水の溜まりではない。
届かなかった水。
溜められた水。
落ちた人の記憶。
黒。
底に眠るもの。
そして、流れ損ねたものが、まだいる。
一樹が全員を見る。
「帰るぞ」
三樹がすぐに言う。
「おにぎり」
「車で食べろ」
「やった」
二葉が言う。
「手、除菌してから」
「分かってる」
六樹が口を開く。
三樹が先に言う。
「二回目な」
六樹は少し黙った。
「自己申告は初」
「そこまで数えるな!」
五樹が笑った。
四葉も少し笑った。
一樹はため息をつきながら、車へ向かう。
二葉は、最後に一度だけ大溜井を振り返った。
水面は、もう揺れていない。
けれど、二葉の耳には、まだかすかな音が残っていた。
ぴちゃ。
それはもう、家の中の音ではない。
床下からでも、HomePodからでもない。
遠くの水が、細く流れ始める音だった。
完全ではない。
まだ、ほんの少し。
でも、道はできた。
森口家は、道を作る。
二葉は息を吸って、車へ戻った。
五樹がドアを開けて待っている。
「二葉、おにぎり食べられる?」
「食べられる」
「栗まんじゅうは?」
「帰ってから」
「じゃあ俺も帰ってから」
「五樹は今食べてもいいよ」
「二葉と食べる」
「……そう」
二葉は少しだけ笑って、車に乗った。
五樹がその表情を見て、満足そうにドアを閉める。
一樹が運転席で言った。
「帰るぞ」
後ろのラングラーから、三樹の声が聞こえた。
「おにぎり食っていいか!」
一樹は窓を開けて答えた。
「手を除菌してから!」
「分かってる!」
六樹の声が続く。
「三回目」
「六樹!」
朝日が、竜地の道を照らしていた。
車が動き出す。
下宿。
中宿。
上宿。
そして、森口家へ。
流れの先は、まだ遠い。
けれど、六人はもう、そこへ向かっている。




