第九話「境に立つもの」
森口家へ戻る道で、三樹はラングラーの運転席から、何度も助手席の包みに目をやっていた。
助手席には、母が持たせてくれたおにぎりがある。
一つではない。
三樹用に、少し大きめのものが二つ。
「三樹」
助手席の六樹が言った。
「運転中」
「見てるだけだろ」
「見る回数が多い」
後部座席で、四葉がぽり、とみどり豆を噛んだ。
「三樹、おにぎりに意識を持っていかれてる」
「持っていかれてねえよ」
「じゃあ、前を見て」
「見てる」
六樹が淡々と言う。
「視線移動、過多」
「記録すんな」
「安全管理」
三樹は小さく舌打ちした。
「家着いたら食う」
「それがいい」
「二つ食う」
「知ってる」
「なんでだよ」
「三樹だから」
「理由になってるようでなってねえ」
四葉がもう一粒、みどり豆を噛む。
「なってる」
「四葉まで」
ラングラーの前を走るRAV4では、一樹がバックミラーで後ろの車を確認していた。
「三樹、やたら車間が安定してるな」
助手席の二葉が言う。
「おにぎり食べたいから、早く帰りたいんじゃない?」
後部座席の五樹が笑った。
「でも六樹が乗ってるから、運転中は食べさせてもらえないね」
「それは助かる」
一樹は前を見たまま答えた。
「空腹の三樹は面倒だが、運転中に食う三樹はもっと危ない」
二葉は少しだけ笑った。
「帰ったらすぐ食べさせよう」
「そうしてくれ」
二葉が助手席で栗まんじゅうの包みを見つめていた。
「今食べる?」
後部座席から五樹が聞く。
「帰ってから」
「疲れてるなら糖分」
「五樹が食べたいだけでしょ」
「二葉が食べるなら食べる」
「便乗」
「半分こなら?」
二葉は少しだけ振り返った。
「半分こ?」
「うん。二葉が全部食べられないなら、俺が半分食べる」
「それ、普通に五樹が食べたいだけじゃない?」
「二葉の負担軽減」
運転席の一樹が、前を見たまま言った。
「栗まんじゅうで負担軽減とか言うな」
五樹は笑った。
「兄貴も食べる?」
「帰ってからでいい」
「一樹も疲れてるでしょ」
二葉が言うと、一樹は少しだけ黙った。
「……まあな」
「全部背負うなって、おじいちゃんに言われたばかりだよ」
「二葉に言われると複雑だな」
「私も言われる側だから」
後部座席の五樹が、少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ帰ったら、みんなで食べよ」
「三樹に見つかったら一瞬でなくなる」
「隠そう」
「隠さない」
一樹がため息をつく。
「お前ら、朝から栗まんじゅうの配分で揉めるな」
けれど、その声には少しだけ安心が混じっていた。
大溜井で聞いた水音は、まだ耳の奥に残っている。
黒は消えていない。
底にあるものも眠ったままだ。
それでも、車の中におにぎりの匂いがあり、みどり豆を噛む音があり、栗まんじゅうをいつ食べるかで揉める声がある。
それが、森口家だった。
普通に戻る力。
黒が一番嫌うもの。
森口家に着くと、母の葉澄が玄関を開けて待っていた。
「おかえり」
その一言で、二葉は少しだけ息を吐いた。
「ただいま」
続いて、五樹が言う。
「ただいま。ばあちゃんの栗まんじゅう、無事持ち帰ったよ」
奥の台所から、祖母の声がする。
「よかったねぇ」
玄関に、朝の冷えが少しだけ残っていた。
けれど、家の中には味噌汁の匂いがある。
それだけで、外から持ち帰った黒の気配が少し薄まる。
六樹は玄関に入るなり、スマホを見ていた。
「豆と菊、オフィスで待機中。異常なし」
母が笑う。
「それなら安心ね」
六樹は短く頷いた。
「うん」
その声が、ほんの少し柔らかかった。
その横で、三樹は手を除菌して、おにぎりの包みを開いた。
一つ目が消えるまで、早かった。
「三樹」
一樹が靴を脱ぎながら言う。
「もう少し味わえ」
「味わってる」
「飲んでるように見える」
「米は飲み物じゃない」
「その速度で食べる人間が言うな」
六樹が横から見ている。
「大溜井直後の摂取速度として異常」
「飯食ってるだけだろ」
四葉がぽり、とみどり豆を噛んだ。
「三樹は燃費が悪い」
「四葉、お前も食ってるだろ」
「これは精神安定」
「俺のも精神安定」
「三樹の場合は胃袋安定」
「似たようなもんだろ」
「違う」
居間に入ると、神棚の水が目に入った。
昨日、黒く濁っていた水。
今朝、出発前にはまだ薄く濁っていた。
二葉は足を止めた。
水は、透明に戻りきってはいなかった。
けれど、黒ではない。
底に、ほんの少しだけ灰色が残っている。
一樹も気づいた。
「……まだ残ってるな」
四葉が近づきすぎない距離で見る。
「昨日よりは薄い」
六樹が記録する。
「黒から灰色へ変化。濁り、減少」
三樹が腕を組む。
「じゃあ、勝ったってことでいいのか?」
「一時的には」
四葉が言う。
三樹は顔をしかめた。
「またそれか」
「事実」
五樹は二葉の横に立った。
「二葉、触らないでね」
「触らない」
「本当に」
「本当に」
五樹は一拍置いた。
「今のは信じる」
一樹が神棚を見上げる。
「完全には戻ってない。でも、家の中への線は切れた」
六樹が頷く。
「大溜井から家方向への黒い線は消えた」
四葉が静かに言う。
「でも、境はまだ揺れてる」
二葉は神棚の水を見た。
灰色の底。
透明に戻ろうとしている水。
戻りきれないもの。
流れ損ねたもの。
一樹が言った。
「今日は、境を見る」
三樹が顔を上げる。
「どこの」
「家と外の境。神社と土地の境。水が入ってこようとした場所」
五樹が少し眉を寄せた。
「また現場?」
「大溜井ほど危険じゃない。けど、放っておけない」
六樹がiPadを開く。
「昨日の音源移動記録と、今朝の黒い線の消失位置を重ねる」
四葉が続ける。
「境が弱い場所が出る」
二葉は静かに頷いた。
「家の中に入口を作らせないために」
一樹は全員を見る。
「そうだ」
三樹が、残りのおにぎりを守るように持ちながら言った。
「じゃあ、飯食ってからだな」
一樹は一瞬黙った。
「……それはそう」
五樹が笑う。
「兄貴、そこは否定しないんだ」
「空腹の三樹を連れて境を見る方が危険だ」
六樹が頷く。
「合理的」
四葉も言う。
「三樹の燃費問題は現場リスク」
「お前ら、俺を何だと思ってんだ」
二葉が台所へ向かいながら言った。
「よく食べる前衛」
三樹は少し考えたあと、頷いた。
「合ってる」
一樹は、また少しだけため息をついた。
けれど、そのため息は昨日より軽かった。




