第八十一話「閉じない場所」
〖前書き〗
前回まで:
村人たちが築いた土手は、一つの畑を水から守っていた。
しかし、押し返された水は消えず、別の低い土地へ向かっていた。
人が引いた一本の線は、水の道を変える。
だからこそ、線を引く者は、その先にある土地まで見なければならない。
信玄たちは、土手の先へ歩き始めた。
土手の切れ目を越えると、地面は緩やかに下っていた。
先ほど見た畑とは違う。
家はない。
畑もない。
背の低い草と、丸い石だけが広がっている。
三那兜が足元を見た。
「ここも、水が通ったな」
白い石の間に、細い枝や枯れ草が引っかかっている。
四糸乃がしゃがみ込む。
「ですが、向こうほど荒れていません」
六嗣が周囲を見回した。
「何もないから?」
「それもあるでしょう」
勘助が答えた。
土手の切れ目から続く低地は、やがて広い河原へつながっている。
水が来ても、壊す家がない。
埋める畑もない。
一鶴が土手を振り返った。
「ここへ流れた水もあったのか」
老人が頷く。
「昔から、ここには家を建てるなと言われてる」
「なぜです?」
六嗣が尋ねる。
老人は肩をすくめた。
「理由なんぞ知らん。爺さんも、その爺さんも、そう言ってただけだ」
五風が低地の向こうへ歩く。
しばらくして振り返った。
「こっちは、水が戻れる」
その先には、今も水の流れる川筋が見えていた。
四糸乃が立ち上がる。
「押し返された水のすべてが、家のある方へ向かったわけではないのですね」
「低い方へ広がって、その一部は河原へ戻った」
三那兜が言う。
信玄は、土手の切れ目に立った。
右には守られた畑。
左には被害を受けた低地。
そして目の前には、何も作られていない土地。
同じ切れ目から流れた水でも、その先に何があるかで、結果が変わっていた。
「ここを塞いだら?」
六嗣の問いに、一鶴が答える。
「水は、別の場所へ行く」
「では、土手を長くすれば?」
今度は三那兜が腕を組んだ。
「もっと先へ押し返すだけか」
勘助が土手を見つめる。
「守るために線を引く。されど、すべてを閉じれば、水の行き場まで閉じることになる」
信玄は何も言わなかった。
土手を高くする。
長くする。
強くする。
それだけなら、人は考えつく。
だが。
水より高い壁を、どこまでも作り続けることなどできない。
二羽花が何もない土地の中央へ立った。
風が草を揺らしている。
「ここ、怖くない」
五風が彼女を見る。
「声がない?」
「ううん」
二羽花は首を横へ振った。
「水が来た声はある。でも、人が流された声がない」
四糸乃が、はっと低地を見た。
何もない。
だから、失われなかった。
畑にしなかった。
家を建てなかった。
水が来る場所を、人が使わずに残していた。
樹玄が静かに口を開く。
「守るとは、すべてを人の土地にすることではありません」
信玄が振り返る。
「水のために、残す土地もあるということか」
「人が使わないからこそ、人を守る場所もあります」
風が河原から吹き上がった。
六嗣は、その言葉を紙へ記す。
四糸乃が土手と低地を見比べた。
「ならば、閉じない方がいい場所もある」
一鶴が頷く。
「水を押し返すための線と、水を逃がすための切れ目か」
勘助の目が細くなる。
「線だけを見るのではない」
土手。
切れ目。
低地。
河原。
その先の川。
「閉じた場所と、開けておく場所。その両方で一つ、と考えるべきなのでしょうな」
信玄は長い間、何も言わなかった。
やがて、土手の切れ目から河原へ続く土地を歩き始める。
水を止めるのではない。
押し返すだけでもない。
水が来ることを前提に、
行く場所を残しておく。
龍地で見つけた、
受ける。
分ける。
逃がす。
その「逃がす」は、
溝一本の話ではなくなっていた。
大きな水には、
大きな水が通れる場所が要る。
人を守るために、
あえて閉じない場所が必要だった。
〖後書き〗
今回のまとめ:
・土手の切れ目の先には、家も畑もない低地が残されていた
・そこへ入った水の一部は、広がりながら河原へ戻っていた
・土地の人々は理由を詳しく知らなくても、水が来る場所へ家を建てない知恵を受け継いでいた
・信玄たちは、守るためには線を引くだけでなく、水のために「閉じない場所」を残す必要があると気づく
作者ノート:
第八十話では、人が作った一本の土手が水の流れを変えることを描きました。
今回はその先です。
すべてを塞いで水を閉じ込めるのではなく、水が来ることを前提として、その流れを受け入れる場所を残す。
龍地で学んだ「逃がす」という小さな理が、甲斐の大きな土地へ広がり始めます。
キーワード:
甲斐盆地/武田信玄/山本勘助/森口樹玄/六人/土手/河原/低地/水の逃げ道/閉じない場所/治水の理




