第七十七話「手を離す時」
〖前書き〗
前回まで:
日暮れとともに、龍地の坂道は再び閉じられた。
六人は宿の男と少年へ、板の下の土や水の浮き方など、道を見るための知恵を伝える。
形を残すだけでは、守り続けることはできない。
受け取った者が自ら使って初めて、理はその土地のものになる。
翌朝。
空が白み始めるより先に、宿の男は坂道へ出ていた。
その後ろを、少年が細い棒を抱えてついていく。
板の上には、夜露が薄く残っていた。
男は縄を開けず、まず板の端へしゃがみ込む。
「隙間は……ないな」
少年も隣へ膝をついた。
「水は?」
男が板の端を踏む。
湿った土の間から、わずかに水が浮いた。
「出た」
少年が声を上げる。
男は表情を引き締めた。
「まだ通せない」
宿の軒下では、六人がその様子を見ていた。
三那兜が一歩出ようとする。
だが、一鶴が腕を伸ばして止めた。
「待て」
「でも、水が浮いたぞ」
「見えている」
一鶴は道から目を離さなかった。
「今は、あの人たちが決める番だ」
四糸乃も静かに頷く。
昨日なら、自分たちが土を確かめ、通せるかを決めていた。
けれど今朝、縄を握っているのは宿の男だった。
男は板を一枚持ち上げた。
土の一部が、夜露を吸って柔らかくなっている。
「乾いた土を足すだけじゃ駄目だな」
少年が首を傾げる。
「どうするの?」
男は道の脇を見渡した。
水路。
坂の傾き。
板の下へ入り込んだ細い流れ。
昨日、六人が見ていたものを、一つずつ思い返す。
「水を先に逃がす」
男は宿へ向かって声を上げた。
「鍬と藁を持ってきてくれ!」
宿の者たちが動き始める。
男は板の山側に浅い溝を作り、溜まった水を水路へ導いた。
少年は浮いた水を布へ吸わせ、濡れた藁を取り除いていく。
新しい藁を敷き、その上から板を戻す。
男はもう一度、板へ足を載せた。
一歩。
二歩。
水は浮かない。
だが、男はすぐには縄を開かなかった。
細い棒を土へ差し込む。
昨日、三那兜が示した深さより浅いところで止まった。
「これなら、人は通せる」
少年が縄へ手を伸ばす。
「開ける?」
男は首を横へ振った。
「まだだ」
少年が目を瞬く。
「宿の者を一人、先に歩かせる。俺は板を見る。お前は向こう側で足元を見ろ」
少年は大きく頷いた。
試す者。
板を見る者。
渡った先を見る者。
一人だけで決めない。
教えられた言葉は、すでに男自身の判断へ変わっていた。
信玄は宿の柱に手を添え、その姿を見ていた。
「助けなくてよいのか」
一鶴へ尋ねる。
一鶴は少し考えてから答えた。
「助けを求められたら動く」
「求められなければ?」
「見ている」
信玄の口元がわずかに緩む。
「託したからか」
「託したからだ」
やがて、宿の者が板の上を一人で渡った。
少年が向こう側から叫ぶ。
「沈んでない!」
男は足元をもう一度確かめる。
それからようやく、縄を解いた。
「人だけ、一人ずつ通ってくれ。荷と馬は、もう少し待たせる」
待っていた旅人たちが頷く。
誰も男へ理由を尋ねなかった。
昨夜から道を見続けていたことを知っているからだ。
最初の旅人が板へ足を載せる。
少年は向こう側で見守り、男は手前で土を見る。
六人は、もう口を出さなかった。
理は渡った。
だが、本当に渡ったかどうかは、教えた者が決めることではない。
受け取った者が自ら見て、
自ら考え、
自ら誰かを守った時に初めて分かる。
「行きましょうか」
樹玄が静かに告げた。
六人が振り返る。
信玄も、開かれた道の先へ目を向けた。
龍地に来た時、ここにあったのは、まだ宿という形だけだった。
今は、人が行き交い、
知恵が渡り、
土地に残る者が自ら流れを守り始めている。
守る者が去るためには、
残る者を信じなければならない。
手を離すことは、見捨てることではない。
託した理が、その土地の中で歩き始めたと信じることだった。
「お前たちは、どうする」
樹玄の問いに、一鶴は坂道を振り返った。
宿の男が縄を握り、少年が板の下を見ている。
「ここは、もう俺たちだけで守る場所じゃない」
三那兜が笑う。
「なら、次を見に行くか」
五風は二羽花の半歩前へ立ち、六嗣は巻いた紙を抱え直した。
四糸乃も、朝日に照らされた道を見る。
「まだ、残すべきことがあります」
二羽花が樹玄へ向き直った。
「私たちも行きます」
朝日が龍地の坂道を照らす。
男が縄を握り、
少年が足元を見守る。
その姿を最後に確かめてから、
樹玄と六人は、信玄と勘助とともに、
静かに龍地の坂道を歩き始めた。
〖後書き〗
今回のまとめ:
・翌朝、宿の男と少年が自分たちで道の状態を確認する
・男は水を逃がしてから板を敷き直し、一人だけで判断せず試し歩きを行う
・六人は助けを求められるまで口を出さず、二人の判断を見守る
・理が土地の者自身の判断へ変わったことを確かめ、樹玄たちは龍地を発つ
作者ノート:
今回は、理を渡したあとに必要となる「手を離すこと」を描きました。
教える側がいつまでも答えを出し続けていては、受け取った側の力にはなりません。
必要な時には支えられる距離を保ちながら、相手が自ら考え、動くことを信じる。
それもまた、「託す」ということの続きです。
キーワード:
龍地/森口樹玄/武田信玄/一鶴/六人/宿の男/少年/手を離す/託す/治水の理




