第四十六話「宿の掟」
【前書き】
前回まで:
龍地には、水を置く上手、荷を分ける中ほど、人が休む下手の三つの場所が定められた。
それは、後の上宿・中宿・下宿へつながる小さな始まりだった。
だが、場所を置いただけでは、人の流れは守れない。
龍地には、次に「決まり」が必要になっていく。
三本の杭を置いた翌朝、龍地には小さな揉め事が起きていた。
上手の杭のそばで、水桶を置いた男が声を荒らげている。
「先に来たのは俺だ」
「荷を下ろすだけだ。少しくらいよかろう」
「ここは水を置く場所だと聞いた」
「まだ宿でも何でもないだろう」
男たちの声に、五風が露骨に顔をしかめた。
「ほらな」
勘助が地図から目を上げる。
「何がだ」
「一つにしなくても揉める。決まりがなきゃ、三つに分けても揉める」
「偉そうに言うなら、止めてこい」
「嫌だ」
五風は即答した。
「俺は分かるだけ。止めるのは面倒だ」
信玄は、少し離れた場所からその様子を見ていた。
怒鳴る男。
荷を下ろしたい者。
水を守りたい者。
それを遠巻きに見る村人たち。
三つの場所を置いたことで、人は集まり始めた。
だが、人が集まれば、今度はそこに順番が生まれる。
順番が生まれれば、不満も生まれる。
「勘助」
「は」
「場所には、言葉が要るな」
勘助は小さく頷いた。
「杭だけでは、守れませぬ」
四糸乃が筆を取った。
「決まりを、記しますか」
「記すだけでは足りぬ」
信玄は言った。
「読めぬ者にも伝わる形にする」
その時、村人たちの後ろから、一人の少年が進み出た。
年は十五、六ほど。
痩せていて、目立つ格好ではない。
だが、手には木札を何枚も抱えていた。
「なら、札にします」
五風が振り返る。
「六嗣。お前、来てたのか」
「来てた」
少年は短く答えた。
「見てた」
「見てたなら止めろよ」
「止める役ではない」
五風が嫌そうに顔をしかめる。
「お前、そういうとこ本当に面倒」
「記す役だから」
六嗣と呼ばれた少年は、信玄の前に膝をついた。
「上手には、水。中ほどには、荷。下手には、人。そう書けば、迷う者は減ります」
勘助の目が細くなる。
「字が読めぬ者は」
「絵も刻みます」
六嗣は木札を並べた。
ひとつには桶。
ひとつには荷。
ひとつには座る人の形。
粗いが、分かる。
四糸乃が思わず身を乗り出した。
「あなたが、彫ったのですか」
「昨日、聞いたので」
「昨日?」
「上は水。中は荷。下は人」
六嗣は五風を見た。
「言っただろ」
五風が目を逸らす。
「勝手に覚えるな」
「聞こえたものは残る」
その言葉に、樹玄がふと顔を上げた。
「……似てるな」
「何にだ」
勘助が問う。
樹玄は答えず、六嗣の木札を見た。
水の音ではない。
人の声でもない。
言葉が、場所に留まろうとする音だった。
信玄は木札を一枚手に取った。
桶の形が刻まれている。
「名は」
「六嗣」
「言葉を継ぐか」
六嗣は少しだけ目を伏せた。
「継ぐほど、大したものでは」
「大したものかどうかは、後の者が決める」
勘助が横で小さく息を吐いた。
「御屋形様、それは最近よく使われますな」
「便利だからな」
四糸乃は迷わず書き留めた。
五風がそれを見て、ぼそりと言う。
「それも残すのか」
「はい」
「最悪だな」
「後の者が決めますので」
五風は空を仰いだ。
信玄は木札を三本の杭のそばへ置かせた。
上手には、桶の札。
中ほどには、荷の札。
下手には、人の札。
そして、それぞれの横に短い言葉を添えさせる。
水を奪うな。
荷を塞ぐな。
人を追うな。
六嗣は、その言葉を一字ずつ木へ刻んだ。
木槌の音が龍地に響く。
こん。
こん。
こん。
樹玄は耳を澄ませた。
水の音。
荷を置く音。
人が腰を下ろす音。
そこに、木へ言葉が刻まれる音が重なっていく。
「龍地が、覚えてる」
樹玄が呟く。
信玄は三つの札を見渡した。
「ここは、ただ人を集める場所ではない」
風が吹き、三本の杭に結ばれた縄が揺れる。
「水を分け、荷を通し、人を休ませる。そのための場所だ」
六嗣は顔を上げた。
「では、この決まりは」
「龍地の掟とする」
村人たちが、静かになった。
大きな法ではない。
国を動かす命でもない。
けれど、龍地で水を置き、荷を分け、人が休むための最初の決まりだった。
五風が三つの札を眺め、ぽつりと言った。
「これなら、少しは揉めるの減るか」
六嗣が答える。
「少しは」
「全部じゃないのかよ」
「人だから」
五風は何も言い返せなかった。
勘助が低く笑った。
「良い答えだ」
四糸乃は最後に一行を書き加える。
龍地。
三つの宿、三つの札を置く。
水を奪うな。
荷を塞ぐな。
人を追うな。
その文字を書いた瞬間、樹玄の耳に小さな音が届いた。
ぽつり。
水ではない。
黒でもない。
土地が、決まりを覚えた音だった。
【後書き】
今回のまとめ:
・三つの場所を置いた龍地で、早くも水と荷をめぐる揉め事が起きる
・五風に続き、言葉を残す少年・六嗣が登場する
・龍地には「水を奪うな、荷を塞ぐな、人を追うな」という最初の掟が置かれる
作者ノート:
今回は、宿として人が集まり始めた龍地に「決まり」を置く回です。
場所を分けるだけでは、人の流れは守れない。
だから、誰にでも分かる札と言葉が必要になる。
五風が人の流れを読み、六嗣が言葉として残す。
現代六つ子へつながる前世の役目が、少しずつ揃い始めています。
キーワード:
龍地/宿の掟/上宿/中宿/下宿/五風/六嗣/武田信玄/山本勘助




