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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第三十六話「祠の中」

勘助が、祠へ手を伸ばした。

その瞬間。

「待て」

樹玄が言った。

勘助の手が止まる。

四糸乃も、息を詰めたまま祠を見ていた。

草に覆われた小さな祠。

半分は土に沈み、屋根は傾き、木は黒ずんでいる。

それでも。

そこには、まだ何かが残っていた。


ぽつり。

ぽつり。

祠の奥から、水の音がする。

けれど、雨ではない。

湧き水でもない。

もっと細い。

もっと古い。

まるで、誰かが泣き続けているような音だった。


「何がある」

勘助が低く問う。

樹玄は目を閉じた。


水の音。

紙の音。

石の音。

祈りの音。

それらが、祠の中で重なっている。


「水だけじゃない」

「他に何がある」

「文字」

四糸乃が顔を上げた。

「文字……?」

「読めるかは分からない」

樹玄は祠を見つめる。

「でも、残ってる」

四糸乃の手が、胸元の古い写しを握った。

「残っている……」

その声は、小さく震えていた。


喜びではない。

恐れでもない。

もっと深いものだった。

自分が探してきたもの。

家に伝わり、写され、薄れ、疑われ、それでも消えなかったもの。

その源に、今、立っている。


四糸乃は膝をついた。

「触れても、よろしいですか」

勘助がすぐに言う。

「危うい」

「分かっています」

「分かっていて言うのか」

「はい」

四糸乃は静かに答えた。

「これは、私の家に残されてきたものです」

「そして、誰かが残そうとしたものです」

「読む者が触れなければ、また忘れられます」

勘助は黙った。

樹玄は四糸乃を見る。

細い娘だ。

年若い。

けれど、言葉を守る手だけは迷っていない。


樹玄は小さく息を吐いた。

「俺が先に聞く」

「聞く?」

四糸乃が問う。

「祠に残ってるものを」

「そんなことが」

「できるかは分からない」

「分からないのですね」

「分からないものは分からない」


四糸乃は少しだけ目を伏せた。

「正直な方ですね」

「よく言われる」

「たぶん、違う意味で言われていると思います」

勘助が小さく咳払いをした。

「始めろ」

「命令するな」

「早くしろ」

「もっと腹が立つ」


樹玄は祠の前に膝をついた。

濡れた土が、膝に冷たく染みる。

祠の木は古い。

触れれば崩れそうだった。

けれど、壊れてはいない。

誰かが何度も直した跡がある。

結び直された縄。

差し替えられた木片。

積み直された石。

忘れられた場所。

それでも、完全には捨てられなかった場所。


樹玄は、祠に触れず、ただ耳を澄ませた。

ぽつり。

ぽつり。

水滴の音が近づく。

そして、その奥から。

かすかな声がした。

――水を。

樹玄の眉が動く。

――水を、通せ。

声ではない。

文字の残響。

誰かが墨で書いた言葉。

紙に染みた願い。

石に置かれた祈り。

それが、長い時間の中で薄れ、滲み、それでも消えずに残っていた。


「水を通せ」

樹玄が呟いた。

四糸乃が息を呑む。

「それは」

「知っているのか」

勘助が問う。

四糸乃は震える手で、抱えていた写しを開いた。

風で飛ばぬよう、樹玄が無言で端を押さえる。

四糸乃はその手を一瞬見て、それから紙へ視線を落とした。

「ここに、似た言葉があります」

「読め」

勘助が言う。

四糸乃は、薄れた墨をなぞるように目で追った。

「水を止むるな」

「水を閉じるな」

「水を殺すな」


樹玄の耳の奥で、音が強くなった。

ごう、と。

遠い山が鳴る。

けれど、祠の中の音は小さい。

ぽつり。

ぽつり。

大きな崩れの後に残った、小さな祈り。


「同じだ」

樹玄が言った。

四糸乃が顔を上げる。

「同じ、とは」

「古文書にあった言葉と」

「水を殺すな」

樹玄は低く言った。

「ここにも、残ってる」

勘助の目が鋭くなる。

「この祠は、ただ山と水を鎮めるためのものではないな」

「では」

「伝えるためのものだ」

勘助は祠を見た。

「水を止めるな」

「閉じるな」

「殺すな」

「それを、後の者に残した」

四糸乃は唇を噛んだ。

「では、やはり」

「何だ」

「私の家に残っていた写しは、ただの昔話ではなかった」

「そうなる」

勘助が言った。


四糸乃は一度、目を閉じた。

その表情に、安堵と痛みが混じる。

長く守ってきたもの。

疑われてきたもの。

役に立たないと笑われたもの。

それが、今、祠の前で形を持った。


「よかったな」

樹玄が言った。

四糸乃は驚いたように彼を見る。

「え」

「残ってた」

四糸乃の目が揺れた。

ほんの少し。

けれど、すぐに静かな目に戻る。

「はい」

短い返事だった。

だが、その声には、さっきまでとは違う強さがあった。

勘助は兵に合図した。

「縄を外すな。木を無理に動かすな。崩れる」

「中を確認するだけだ」

兵が頷く。

四糸乃が前に出た。

「私が見ます」

「危ないと言った」

「紙の扱いは、私が一番分かります」

勘助は渋い顔をした。

「崩れたら下がれ」

「はい」


四糸乃は袖を少し上げ、祠の前に膝をついた。

その動きは丁寧だった。

祠を物として扱っていない。

誰かの手。

誰かの願い。

誰かの残した時間。

そのすべてに触れるような手つきだった。

樹玄は黙って見ていた。

四糸乃の白い指が、祠の奥の隙間へ入る。

湿った木の匂い。

古い紙の匂い。

土の匂い。

四糸乃は慎重に、何かを引き出した。

小さな包みだった。

油紙のようなものに包まれ、さらに布で巻かれている。

布は黒ずみ、端はほつれていた。

だが、包みそのものは思ったより形を保っている。


「ありました」

四糸乃の声が震えた。

勘助が低く言う。

「開けられるか」

四糸乃は頷く。

「ここでは危険です」

「濡れている」

「風もあります」

「ならば」

勘助は周囲を見た。

「一度、集落へ戻る」

樹玄は首を横に振った。

「待て」

勘助が見る。

「まだある」

「何が」

樹玄は祠の奥を見た。


ぽつり。

ぽつり。

水の音は、まだ止まっていない。

包みを取り出したのに。

まだ、呼んでいる。


「奥」

四糸乃が祠を覗き込む。

「でも、これ以上は」

「壊れるかもしれない」

勘助が言った。

樹玄は目を閉じる。


祠の奥。

石の下。

木の根の間。

そこに、水が泣いている。

水ではない。

水の道。

塞がれた流れ。

祠はその上に置かれている。

いや。

置いたのだ。

誰かが、ここに。

流れの上に。

忘れないために。


「この祠の下に、流れがある」

樹玄が言った。

勘助の空気が変わった。

「地下か」

「たぶん」

「古い水筋か」

「うん」

「だが、水は出ていない」

「閉じてる」

樹玄は祠の前の土を見る。

「水があるのに、出られない」

四糸乃の顔が青ざめた。

「だから、水が泣いている場所……」

「そうかもしれない」

勘助は土に手を置いた。

濡れている。

だが、ぬかるみ方が周囲と違う。

表から水が流れてきた濡れ方ではない。

下からじわりと湿っている。

「掘れば分かる」

勘助が言った。

樹玄は即座に首を横に振った。

「今はだめだ」

「なぜ」

「乱す」

「水をか」

「祈りを」

勘助が黙る。

四糸乃も、包みを抱えたまま動かなかった。

樹玄は祠を見た。

「ここは、ただの水筋じゃない」

「誰かが、ここに残した」

「水を殺すなって」

「流れを忘れるなって」

「だから、無理に開けたら壊れる」

勘助はしばらく樹玄を見ていた。

そして、小さく頷いた。


「では、まず記録する」

四糸乃が顔を上げた。

「はい」

その返事は、早かった。

「祠の位置」

「周囲の地形」

「土の湿り」

「木の根」

「水音」

「残された包み」

「すべて」

四糸乃は包みを胸に抱えたまま言った。

「残します」

勘助は兵へ指示を出した。

「杭を打つな。目印は木の枝でよい」

「踏み荒らすな」

「周囲を広く見ろ」

「水の逃げ道がないか確認しろ」


兵が動く。

四糸乃は腰の小さな筆箱を取り出した。

濡れぬよう布に包んでいたものだ。

紙を広げるには危うい場所だった。

だが、四糸乃は小さな板を出し、その上に紙を置いた。

手早い。

けれど雑ではない。


「慣れてるな」

樹玄が言った。

四糸乃は筆を取りながら答える。

「残す時は、天気を選べません」

「なるほど」

「水も、山も、人の都合で待ってはくれません」

樹玄は少しだけ笑った。

「それはそうだ」

四糸乃は祠を見つめながら、筆を走らせた。


古い道。

藪の深さ。

祠の向き。

石の位置。

濡れた土。

聞こえた音。

包みの状態。

樹玄が口にした言葉。

水を通せ。

水を止むるな。

水を閉じるな。

水を殺すな。

四糸乃は、迷わず記した。


樹玄はその横顔を見ていた。

細い娘。

若い記し手。

けれど、その手は流れを作っている。

水ではない。

言葉の流れ。

記録の流れ。

忘れられたものを、未来へ運ぶ流れ。


「何ですか」

四糸乃が、筆を止めずに言った。

「見すぎです」

樹玄は少し目を逸らした。

「珍しいと思っただけだ」

「何が」

「残す者」

四糸乃の筆が一瞬だけ止まる。

「……私は、ただ書いているだけです」

「それが難しいんだろ」

四糸乃は黙った。

樹玄は続ける。

「水を聞くのも、面倒だ」

「地を読むのも、面倒らしい」

少し離れたところで土を見ていた勘助が、こちらを見た。

「何だ」

「何でもない」

樹玄は言った。

「たぶん、残すのも面倒だ」

四糸乃は静かに答えた。

「はい」

「とても面倒です」

「なら、向いてる」

四糸乃が顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「面倒でもやるんだろ」

四糸乃はしばらく樹玄を見た。

そして、ほんの少しだけ笑った。

「変な褒め方ですね」

「褒めたつもりはない」

「では、何ですか」

樹玄は祠を見た。

「確認」

四糸乃はまた紙へ視線を落とした。

「そうですか」

その声は、少しだけ柔らかかった。


包みを開いたのは、集落へ戻ってからだった。

老人の家の一室。

火を小さく焚き、湿気を追い、窓を少しだけ開けて風を通す。

四糸乃は手を清め、布を広げた。

勘助は少し離れて座る。

樹玄は壁際にいた。

信玄へ知らせる兵は、すでに陣へ戻っている。

四糸乃は包みの外布を解いた。

一枚。

また一枚。

濡れている部分もある。

虫に食われた跡もある。

けれど、奥の紙は残っていた。

油を染ませた紙に包まれた、薄い束。

四糸乃の手が止まる。


「読めるか」

勘助が問う。

四糸乃は慎重に、紙を少し開いた。

墨は薄い。

ところどころ流れている。

けれど。

文字はある。

四糸乃の瞳が揺れた。

「読めます」

老人が、部屋の隅で手を合わせた。


樹玄の耳に、ぽつり、と音がした。

今までよりも、少しだけ軽い音だった。


四糸乃は声を整えた。

そして、読み始めた。

「山、崩れし後」

「水の道、失われる」

「古き流れ、土の下に眠る」

勘助が身を乗り出す。

樹玄は黙って聞いた。

四糸乃の声は静かだった。

だが、その言葉は、部屋の中に確かに流れを作っていく。

「水を止めるな」

「水を閉じるな」

「水を殺すな」

「流れを忘れれば、土地は黒を抱く」


樹玄の呼吸が止まった。

黒。

その言葉が出た瞬間、耳の奥で何かが沈んだ。

水の音ではない。

山の音でもない。

もっと重い。

もっと暗い。

流れを失ったものが、底で固まる音。


「黒」

勘助が低く言った。

四糸乃の顔も強張っている。

「続きは」

信玄の声がした。

全員が振り返る。

いつの間にか、戸口に信玄が立っていた。

雨上がりの光を背に、朱と白の衣が静かに揺れている。

「御屋形様」

勘助が頭を下げる。

信玄は部屋に入った。

「続けよ」

四糸乃は一度、深く頭を下げた。

そして、紙へ視線を戻す。

「黒を流すには」

「水の道を知れ」

「山の名を忘れるな」

「祠の印を失うな」

「記す者は、次へ渡せ」

部屋の中が静まり返った。


樹玄は、四糸乃の手元を見ていた。

この紙は、ただの古文書ではない。

誰かが未来へ向けて残したものだ。

水を聞く者へ。

地を読む者へ。

流れを作る者へ。

そして。

残す者へ。


信玄は静かに言った。

「繋がったな」

勘助が頷く。

「はい」

四糸乃は紙を抱えたまま、震えていた。

だが、顔を伏せなかった。

樹玄はその横顔を見る。

若い。

けれど、この娘は今、古い言葉を未来へ渡した。


「四糸乃」

信玄が呼ぶ。

四糸乃は姿勢を正した。

「はい」

「その言葉を残せ」

四糸乃の目が揺れる。

「私が、ですか」

「お前が読んだ」

「お前が守ってきた」

「ならば、お前が残せ」

四糸乃は何も言わなかった。

ただ、紙を抱く手に力が入る。

「……はい」

静かな返事だった。

けれど、その一言は、祠に落ちた水滴よりも確かに響いた。


信玄は地図を広げた。

「八ヶ岳」

「古い崩れ」

「水の来ぬ村」

「忘れられた祠」

「土の下の流れ」

「そして、黒」

信玄の指が、一つずつ地図の上を辿る。

「これは、ただの昔話ではない」

「甲斐の水を考える上で、避けては通れぬ」

勘助が言う。

「御屋形様」

「何だ」

「この流れ、信玄堤にも関わります」

樹玄は勘助を見た。

信玄は黙ったまま、地図を見ている。

「水を殺さず、流れを作る」

勘助は続けた。

「そのためには、今ある川だけでは足りませぬ」

「失われた流れ」

「土の下の水」

「山から来る古い痕」

「それを知らねば、堤はただ水を押さえるものになる」

信玄の目が強くなる。

「押さえるだけでは、水は死ぬ」

「はい」

「ならば、殺さぬ形を探す」

信玄は四糸乃を見た。

「記録せよ」

次に勘助を見る。

「地を読め」

最後に樹玄を見る。

「水を聞け」

樹玄は顔をしかめた。

「またそれか」

信玄は少しだけ笑った。

「役目だ」

「勝手に決めるな」

「もう決まっている」

「最悪だな」

勘助が横で言う。

「諦めろ」

「お前には言われたくない」

四糸乃が、ほんの少しだけ笑った。

その笑みはすぐに消えたが、部屋の重さをわずかにやわらげた。


信玄は地図へ視線を戻した。

「流れを作るには、まず失われた流れを知らねばならぬ」

その声は静かだった。

だが、天幕で聞いた時と同じく、未来を動かす声だった。

「祠の記録を写せ」

「古い道を辿れ」

「水の来ぬ村の名を探せ」

「黒がどこに溜まるのかを見極めよ」

四糸乃は筆を取った。

勘助は地図を見る。

樹玄は耳を澄ませる。


ぽつり。

ぽつり。

祠の水音は、まだ遠くで続いていた。

だが、さっきよりも少しだけ、流れているように聞こえた。

忘れられたものが、名を得た。

残されたものが、読まれた。

閉じていた流れが、ほんの少しだけ動き出した。

水を聞く者。

地を読む者。

流れを作る者。

記録し、言葉を繋ぐ者。


四人の前に広げられた古い紙には、かすれた墨でこう記されていた。

――流れを忘れるな。

それは、森口家の役目が形を持つ前に残された、最初の言葉だった。


挿絵(By みてみん)

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