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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第三十五話「残す者」

地図にない場所。

何も描かれていない空白。

そこに樹玄の指が止まった時、天幕の中の空気は変わった。

誰も、すぐには声を出さなかった。

信玄は地図を見ていた。

勘助も地図を見ていた。

老人は、震える手を膝の上で握りしめていた。

樹玄だけが、その空白の奥から聞こえる音を聞いていた。


ぽつり。

ぽつり。

水滴が、石に落ちるような音。

川ではない。

雨でもない。

井戸でもない。

もっと細い。

もっと遠い。

それでも確かに、そこに残っている音だった。


「祠、と言ったな」

信玄が口を開いた。

老人は深く頭を下げた。

「はい。水の来ぬ村の者たちが、山と水を鎮めるために祀った小さな祠があったと、聞いております」

「場所は」

「詳しくは……」

老人は口ごもる。

「ただ、昔の者は、山へ向かう旧い道の途中にあったと」

「旧い道」

勘助が低く繰り返した。

老人は頷く。

「今はあまり使われませぬ。水が来ず、人が散り、道も荒れたと」

勘助は地図を睨んだ。

「道が消えたか」

「はい」

「村が消えれば、道も消える」

「道が消えれば、祠も忘れられる」

「祠が忘れられれば、そこに残したものも消える」


樹玄の耳に、ぽつり、とまた音がした。

消える。

忘れられる。

届かなくなる。

それを嫌がるような音だった。


「行くぞ」

信玄が言った。

勘助が顔を上げる。

「今からですか」

「今からだ」

「雨上がりです。道は悪い」

「だからよい」

信玄は地図の上に置いた石をひとつ動かした。

「水の痕は、乾いた日より濡れた日の方が見える」

勘助は一瞬黙った。

そして、わずかに口元を上げた。

「ごもっとも」

「樹玄」

信玄が呼ぶ。

樹玄は嫌な予感を覚えた。

「何だ」

「聞こえる方へ行け」

「俺は案内役じゃない」

「聞こえるのはお前だけだ」

「言い方」

勘助が横で笑った。

「諦めろ」

「お前も笑うな」

「面倒なものに巻き込まれるのは、世の常だ」

「お前、本当にそれ好きだな」

信玄はそのやり取りを聞きながら、立ち上がった。


朱と白の衣が、天幕の薄暗い光の中で静かに揺れる。

「名を得た」

信玄は言った。

「八ヶ岳」

その名が再び空気に落ちた。

樹玄の耳の奥で、山が低く鳴る。

「次は、流れを追う」

信玄の目は、地図の空白を見ていた。

「忘れられた場所に、忘れられた流れがあるなら、そこから見なければならぬ」

勘助は頭を下げた。

「では、私が参ります」

「俺も行く」

「御屋形様が?」

勘助の声が少し低くなった。

「危うい場所かもしれませぬ」

「だから行く」

「危うい場所に、主君が出る理由にはなりませぬ」

「危うい場所を知らずに、国は守れぬ」

勘助は黙った。

樹玄は信玄を見る。

この人は、本当に面倒だ。

命じるだけではない。

人に行かせるだけではない。

見なければならないと思えば、自分で見に行こうとする。

国を守るとは、そういうものなのかもしれない。

けれど。

「行くのはやめた方がいい」

樹玄は言った。

信玄が見る。

「なぜだ」

「音が細い」

「細い?」

「強い黒ではない」

樹玄は耳を澄ませた。

「でも、奥が深い」

「祠の周りに、昔の痛みが残っている」

「人が多いと、触れる」

信玄の目がわずかに細くなった。

「触れるとどうなる」

「分からない」

「分からぬものを避けるのは正しい」

勘助が言った。

「御屋形様」

信玄はしばらく黙っていた。


そして、少しだけ息を吐く。

「分かった」

樹玄は少し意外だった。

もっと押し切るかと思った。

信玄は勘助を見る。

「勘助。お前が行け」

「承知しました」

「樹玄を連れていけ」

「承知しました」

「俺は承知してない」

樹玄が言う。

信玄は当然のように返した。

「お前が行かねば、何も聞こえぬ」

「だから言い方」

勘助がまた少し笑う。

「諦めろ」

「お前に言われるのが一番腹立つ」


老人が、そのやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。

けれどすぐに、顔を伏せる。

「恐れながら」

「何だ」

信玄が言う。

「道を知る者を、一人呼べるかもしれませぬ」

勘助の目が動いた。

「誰だ」

「水の来ぬ村の末の家の者です」

老人は言った。

「今は下の集落におります」

「古い道を知るかは分かりませぬが、あの祠の話を、家で残していたと聞いたことがございます」

「名は」

信玄が問う。

老人は少し考えた。

四糸乃(よしの)


樹玄の耳に、細い音が触れた。

水ではない。

紙をめくる音。

筆が走る音。

墨が乾く音。

「……今、何か」

勘助が樹玄を見る。

樹玄は眉を寄せた。

「水じゃない」

「では何だ」

「紙」

「紙?」

「たぶん」


樹玄は耳の奥に残った感覚を追う。

細い。

静か。

けれど、消えまいとしている。

「残す音がする」

信玄の目が強くなった。

「四糸乃か」

老人は驚いたように樹玄を見た。

樹玄は黙っていた。

まだ会ってもいない。

それなのに。

その名は、地図の空白と同じ場所へ向かっている気がした。


四糸乃は、細身の若い娘だった。

年の頃は十八、十九ほど。

三十前後の樹玄から見れば、まだ若い。

けれど、紙を抱いて座るその姿には、不思議と幼さよりも静けさの方が勝っていた。

深い藍紫の衣を纏い、長い黒髪を低めに結っている。

花の簪と飾り紐が、雨上がりの光を受けてかすかに揺れた。

派手な娘ではない。

けれど、目立たないわけでもない。

古い文を守る者だけが持つ、静かな気配がある。

そして、その目だけはひどく強かった。


今井の陣から少し離れた集落の外れ。

古い屋敷とも、農家ともつかない家の縁側で、四糸乃は紙を広げていた。

雨上がりの湿気を嫌ってか、紙の端には小石が置かれている。

勘助が名乗る前に、四糸乃は顔を上げた。

「祠のことでしょうか」

勘助の目が細くなる。

「なぜ分かる」

「この雨の後に、武田の方が来るなら、それしかありません」

声は小さい。

だが、はっきりしていた。


樹玄は、四糸乃の前に広げられた紙を見た。

古い地名。

川の名。

山の呼び名。

誰かの聞き書き。

文字は細く、丁寧だった。

「それは」

樹玄が言うと、四糸乃は紙の上に手を置いた。

守るような手だった。

「祖母の祖母から伝わったものです」

「それを写しているのか」

勘助が聞く。

四糸乃は頷いた。

「古いものは、湿気で駄目になります」

「虫も食います」

「人も、読めないから要らないと言います」

「だから、読めるうちに写しています」


勘助は紙に目を落とした。

「女の手で、よくここまで残したな」

四糸乃は、少しだけ目を細めた。

褒められて喜んだ顔ではなかった。

「男の手なら、もっと残せたと?」

勘助が一瞬黙る。

樹玄は横で、少しだけ面白くなった。

「……いや」

勘助は低く答えた。

「そういう意味ではない」

「そう聞こえました」

「悪かった」

勘助が素直に言うと、四糸乃は少しだけ視線を下げた。

「なら、いいです」


樹玄は思った。

この娘、静かだが強い。

怒鳴らない。

主張もしない。

けれど、必要なことは引かない。

紙の上に置いた手が、それを物語っている。

「祠の場所を知っているか」

勘助が問う。

四糸乃はしばらく黙った。

「知っている、と言えば嘘になります」

「では知らぬのか」

「正確には、分かりません」


四糸乃は立ち上がり、奥から一枚の古い紙を持ってきた。

端が欠けている。

墨も薄い。

だが、そこには山と水の線があった。

「これは」

勘助が身を乗り出す。

「祖母が残した写しです」

四糸乃は紙を広げた。

「さらに元の元は、祠に納められていたものだと聞いています」

樹玄の耳に、ぽつり、と音がした。

「祠に」

「はい」

「昔、水の来ぬ村の者が、山と水の道を書いて納めたと」

「でも、祠は崩れ、紙も失われた」

「これは、失われる前に誰かが写したものの、さらに写しです」

勘助は目を伏せるようにして紙を見た。

「写しの写しか」

「はい」

「なら、誤りもある」

四糸乃は頷いた。

「あります」

「それでも残すのか」

「残さなければ、誤りごと消えます」

勘助は黙った。

四糸乃は続けた。

「間違っているかもしれないものでも、残っていれば比べられます」

「消えたら、間違っていたかどうかも分かりません」

樹玄は四糸乃を見た。

その言葉が、妙に胸に残った。

消えたら、分からない。

忘れられたら、届かない。

水と同じだ。

名と同じだ。


「お前」

樹玄が言った。

四糸乃が見る。

「残すのが好きなのか」

四糸乃は少し考えた。

「好き、ではありません」

「じゃあ、なぜ」

「消えるのが嫌なんです」

短い答えだった。

樹玄は黙った。

四糸乃は紙を畳まないまま、目を伏せる。

「人は、困った時だけ昔の話を探します」

「でも、普段は邪魔だと言って捨てる」

「読めない」

「古い」

「役に立たない」

「そう言って、簡単に燃やす」

紙の端を押さえる指に、少しだけ力が入った。

「でも、いざ水が来ないと、昔はどうだったのかと聞く」

「いざ山が崩れると、前にもあったかと聞く」

「いざ祠がなくなると、どこにあったかと聞く」

四糸乃の声は静かだった。

だが、そこには怒りに近いものがあった。

「残しておかなければ、答えようがありません」

勘助が低く言った。

「残す者がいる」

四糸乃は勘助を見た。

「残す者?」

「御屋形様が、そう言った」

「いいえ」

勘助は首を横に振る。

「正確には、必要だと言った」

樹玄は小さく息を吐いた。

「それ、ほとんど同じだろ」

「違う」

勘助は即答した。


四糸乃は二人のやり取りを見ていたが、やがて紙へ視線を戻した。

「私は、大したことはできません」

「文字を写すだけです」

「話を聞いて、残すだけです」

「水を引くことも」

「山を止めることも」

「人を守ることもできません」


樹玄は、ぽつり、と聞こえた音を思い出した。

小さな水滴。

大きな川ではない。

でも。

石に落ち続ければ、跡を残す。

「それができるなら、十分だろ」

樹玄が言った。

四糸乃が驚いたように顔を上げる。

「え」

「水も、聞こえなければただの音だ」

「でも、誰かが聞けば残る」

「残れば、次に渡せる」

樹玄は少し言葉を探した。

「たぶん、お前のやってることは、流れを作るのと似てる」

勘助が、横で樹玄を見た。

珍しく、何も言わなかった。


四糸乃は、紙の上に置いた手を見た。

「流れ」

「うん」

「文字の流れ、ですか」

「知らない」

「そこは分からないのですね」

「俺は水を聞くだけだ」

四糸乃は、ほんの少しだけ笑った。

それは、紙に落ちる光のような、薄い笑みだった。

「変な方ですね」

樹玄は顔をしかめた。

「最近、よく言われる」

「でしょうね」

勘助が横から言った。

「お前は黙ってろ」


四糸乃はもう一度、古い写しを見た。

そして、指で一点を示す。

「祠は、おそらくここです」

勘助が紙を覗き込む。

「この線は道か」

「古い道です」

「今は?」

「途中で藪になっています」

「水筋は」

「この薄い線です」

「なぜ薄い」

「元の紙も薄かったので」

「なるほど」

勘助は紙と周囲の地形を見比べるように目を動かした。

「使える」

「本当ですか」

四糸乃の声に、わずかに緊張が混じった。

勘助は頷いた。

「十分だ」

四糸乃は、少しだけ息を吐いた。


その瞬間。

樹玄の耳に、ぽつり、と音が鳴った。

さっきよりも近い。

樹玄は顔を上げた。

「近い」

勘助がすぐに反応する。

「何が」

「祠」

四糸乃の顔が変わった。

「聞こえるのですか」

「少し」

「どんな音ですか」


樹玄は目を閉じた。

水滴。

石。

暗い場所。

紙の匂い。

湿った木。

誰かが、そこに置いたもの。

忘れないでくれ。

そう願ったもの。

「水の音じゃない」

樹玄は言った。

「でも、水に関わる音だ」

「紙と石と」

「……祈り」

四糸乃の手が、古い写しを握りしめた。

「祈り」

「たぶん」

勘助が立ち上がった。

「行くぞ」

「今からですか」

四糸乃が問う。

「今からだ」

樹玄が思わず言った。

「お前も信玄公に似てきたな」

勘助は眉を寄せる。

「やめろ」

「嫌なのか」

「畏れ多い」

「そうか?」

「そうだ」


四糸乃は二人を見ていた。

そして、静かに言った。

「私も行きます」

勘助がすぐに返す。

「危ない」

「場所を知っているのは私です」

「正確には分からぬと言った」

「だからこそ行きます」


四糸乃は古い写しを丁寧に畳み、布に包んだ。

「これは、私の家に残っていたものです」

「もし本当に祠があるなら」

「もし本当に、そこに残されたものがあるなら」

「私が見届けます」

勘助は黙った。

樹玄は四糸乃を見た。

静かだ。

でも、引かない。

この娘は、紙の上だけで残す者ではない。

消えそうなものがあるなら、自分の足で見に行く。


「いいんじゃないか」

樹玄が言った。

勘助が睨む。

「お前は簡単に言う」

「必要なんだろ」

「危険だ」

「残す者がいないと、また忘れる」

勘助は何か言い返そうとして、やめた。

たぶん、分かっている。

四糸乃が必要だと。


信玄が言った。

名を得た。

次は流れを追う。

けれど、追ったものを残す者がいなければ、また消える。


勘助は息を吐いた。

「分かった」

四糸乃は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「ただし、勝手に動くな」

「はい」

「紙を濡らすな」

「それは、あなたに言われなくても分かっています」

勘助が一瞬黙った。

樹玄は少し笑いそうになった。

この娘、やはり強い。


雨上がりの道は、ぬかるんでいた。

草は濡れ、土は柔らかく、使われなくなった道はところどころ消えている。

先頭を行くのは勘助。

その少し後ろに樹玄。

さらに後ろに四糸乃が続く。

兵が二人、距離を置いてついてきた。

老人は集落に残った。

これ以上の道は、足に堪える。

それに、老人の知っている話は、すでに受け取った。

あとは、残された場所が答える番だった。


「ここから先は、昔の道です」

四糸乃が言った。

草の向こうに、かすかに踏み固められた痕がある。

言われなければ、ただの藪にしか見えない。

勘助はしゃがみ、土を触った。

「確かに、人が通った痕がある」

「古いな」


樹玄は耳を澄ませた。

ぽつり。

ぽつり。

音が近い。

けれど、どこか湿っている。

息苦しい。


「水がないのに、濡れている」

樹玄が言った。

勘助が振り返る。

「どういう意味だ」

「分からない」

「またそれか」

「分からないものは分からない」

四糸乃が静かに言った。

「水が来なかった村なのに、祠の周りだけ湿っていたと聞いたことがあります」

勘助の目が鋭くなる。

「なぜ」

「分かりません」

「ただ、そこは水が出るのではなく、水が泣いている場所だと」

樹玄の足が止まった。


水が泣いている場所。

その言葉が、音と重なった。

ぽつり。

ぽつり。

石に落ちる水滴。

泣いている。

そう聞こえるのかもしれない。


「近い」

樹玄が言った。

勘助が前を見る。

藪の奥。

木々の間に、何かが見えた。

石。

古びた石。

半分土に埋もれた、低い鳥居のようなもの。

四糸乃が息を呑んだ。

「……あった」

その声は、小さく震えていた。

そこにあった。

忘れられた祠。

草に覆われ、土に沈み、木の根に抱かれるようにして。

けれど、確かにそこにあった。


樹玄の耳に、今までで一番はっきり音が届いた。

ぽつり。

ぽつり。

そして。

紙をめくるような、かすかな音。


「触るな」

樹玄は言った。

勘助が止まる。

四糸乃も止まった。

「何かある」

樹玄は祠を見た。

古い木。

湿った石。

崩れかけた屋根。

その奥。

小さな隙間の中に、何かが残っている。

水ではない。

山でもない。

人が残したもの。

忘れられないように。

消えないように。

誰かに届くように。


四糸乃が、静かに膝をついた。

「ここに」

彼女の声は震えていた。

「本当に、残っていたんですね」

勘助は祠を見つめた。

「まだ分からぬ」

「分かります」

四糸乃は言った。

「残した人がいるなら」

「ここに、理由があります」


樹玄は目を閉じた。

水の音。

紙の音。

祈りの音。

それらが、かすかに重なっている。

忘れられた場所。

地図にない空白。

そこに残されたもの。

それは、ただの古い祠ではなかった。

水を殺さないために。

流れを忘れないために。

誰かが、未来へ向けて置いた小さな印だった。


勘助が低く言った。

「開けるぞ」

樹玄は目を開けた。

四糸乃は深く息を吸った。

雨上がりの風が、藪を揺らす。


祠の奥で。

ぽつり、と。

最後に一滴、水の音がした。


挿絵(By みてみん)

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