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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第三十四話「古い流れ」

老人の話は、途切れ途切れだった。

年寄りの年寄りから聞いた話。

そのさらに前の者が、誰かから聞いた話。

山が崩れた。

水が暴れた。

土が流れた。

村が消えた。

それは、いつのことかも分からない。

どこの村だったのかも、はっきりしない。

だが。

消えたものがある。

流されたものがある。

戻らなかったものがある。

そのことだけは、確かに残っていた。


「八ヶ岳は、昔、もっと高かったと聞いております」

老人は、そう言った。

天幕の中が静かになる。

信玄は老人を見た。

勘助は地図を見た。

樹玄は、地図ではなく、天幕の外を見た。


雨上がりの光。

遠くに連なる山々。

そのさらに奥から、まだ低い音が聞こえている。


「もっと高かった?」

信玄が静かに聞き返した。

老人は頷いた。

「はい」

「年寄りは、そう申しておりました」

「昔、八ヶ岳は富士にも負けぬほど高かった」

「けれど、神々の争いで砕かれた」

「その時、山の腹が割れ、水と土が流れた」

「それから、あの山は八つの峰になったのだ、と」

勘助の目が、わずかに細くなった。

「神々の争いか」

「はい」

老人は深く頭を下げる。

「昔話でございます」

「いや」

信玄が言った。

「昔話にも、残るものはある」

老人は顔を上げた。


信玄は地図の上に視線を落としている。

その顔は、ただ伝承を聞いている者の顔ではなかった。

言葉の裏にあるものを探している顔だった。

「神々の争い」

信玄は低く呟いた。

「山が砕けた」

「水と土が流れた」

「村が消えた」

「その痛みが、今も土地に残っている」


樹玄の耳の奥で、音が強くなった。

ごう。

ごう。

山が鳴る。

水が鳴る。

土が鳴る。

けれど、それは叫びではなかった。

誰かに襲いかかる怒りでもない。

ただ、長い時間をかけて沈んでしまった痛みだった。


「樹玄」

信玄の声がした。

樹玄はゆっくり視線を戻す。

「何だ」

「今の話を聞いて、何か変わったか」

樹玄は少し黙った。

変わった。

そう言えば、変わった。

八ヶ岳という名を聞いた時、音は形を持った。

老人の話を聞いた時、その形に色がついた。

高かった山。

砕かれた山。

流れた水。

消えた村。

そして。

忘れられた痛み。


「近くなった」

樹玄は言った。

「音が?」

「うん」

「何に近い」

樹玄は目を伏せた。

言葉を探す。

山の声は、水の声よりも重い。

人の言葉にしようとすると、どうしてもこぼれる。

「水が、行き場を探している」

「先ほどもそう言ったな」

「でも、それだけじゃない」

樹玄は地図へ手を伸ばした。

川筋の描かれた線に、指を置く。

「流れたいんじゃない」

「流れたかったんだ」


信玄の目が細くなる。

勘助が黙って地図を見る。

老人は、息を呑んだまま動かない。

「水は、流れようとした」

樹玄は続けた。

「でも、山が崩れて、土が落ちて、道が塞がった」

「行けなかった水がある」

「届かなかった水がある」

「流れられなかった水が、土の下でずっと覚えている」

勘助が低く言った。

「古い水筋か」

「たぶん」

「山崩れで塞がれたか、あるいは別の流れへ押し出されたか」

「うん」

「そして、そこに残った水の記憶が、今もお前に聞こえている」

樹玄は頷いた。

「消えていない」

「忘れられただけだ」


勘助は、地図の上にいくつかの石を置いた。

山。

谷。

川。

村。

そして、古い流れがあったかもしれない場所。

「昔、水がここを通ったとして」

勘助は細い木片を動かす。

「山が崩れる」

木片の前に石を置く。

「水は塞がれる」

別の木片を横へずらす。

「行き場を失った水は、低いところへ逃げる」

「そこに村があれば」

信玄が続けた。

「呑まれる」

天幕の中の空気が、重くなった。

老人が小さく震える。


樹玄は目を閉じた。

また聞こえる。

水が押し出される音。

土が走る音。

人の声。

馬の声。

木が折れる音。

そして。

流れなかったものが、奥に沈んでいく音。


「……違う」

樹玄が呟いた。

信玄と勘助が同時に彼を見る。

「何が違う」

勘助が問う。

樹玄は眉を寄せる。

「村が消えたのは、崩れた時だけじゃない」

「何?」

「その後も」

樹玄は地図に指を置いた。

「流れが変わった後も、人はそこに住もうとした」

「田を作ろうとした」

「水を引こうとした」

「でも、水が届かなかった」


老人の顔色が変わった。

「……それは」

信玄が老人を見る。

「何か知っているのか」

老人は少し迷った。

口を開いて、閉じる。

そして、恐る恐る言った。

「水の来ぬ村、という話なら」

勘助の目が鋭くなる。

「続けよ」

老人は膝をつき直した。

「昔、あの方角に、水を望んだ村があったと聞きます」

「田を作ろうにも、水が足りぬ」

「井戸を掘っても、すぐに涸れる」

「雨が降っても、土が水を抱かぬ」

「けれど、古くは水が流れていたはずだと、年寄りたちは言っていたそうでございます」


樹玄の喉が、少し詰まった。

水の来ぬ村。

届かなかった水。

流れられなかった水。

それは、山が崩れた瞬間の痛みではない。

その後に続いた痛みだった。

「水が届かない」

信玄が言った。

その声は静かだった。

「水はあるのに、届かない」

老人は頷く。

「はい」

「だから、人は祈ったそうでございます」

「山へ」

「水へ」

「それでも、届かなかった」

「やがて村は小さくなり、人は散ったと」


勘助が地図を睨む。

「水筋がずれている」

「山崩れで古い流れが埋まり、表の川だけが別へ逃げた」

「地下には古い流れの痕が残っている可能性がある」

信玄は黙って聞いていた。

だが、その目はすでに動いている。

見えない線を追っている。

山から川へ。

川から村へ。

村から田へ。

田から人の暮らしへ。

そして、届かなかった水へ。


「水を殺すな」

信玄が呟いた。

樹玄は顔を上げる。

信玄は地図を見たまま続けた。

「ただ水を止めるだけでは、こうなる」

「流れを失った水は、いずれ別の形で人を苦しめる」

「流れなかった水も」

「届かなかった水も」

「そこに痛みを残す」

樹玄は黙っていた。


信玄の言葉は、樹玄が聞いている音とは違う。

けれど、同じ場所へ向かっていた。

この人は、聞こえない。

見えているわけでもない。

それでも、考えて辿り着こうとしている。

水の痛みに。

人の暮らしに。

まだ形になっていない未来に。


「勘助」

信玄が言った。

「はい」

「この方角の村、道、古い地名、祈り場を洗え」

「水の来ぬ村、涸れる井戸、山に祈った場所」

「老人の話だけでよいとは思うな」

「人に聞け」

「地を見ろ」

「記録を探せ」

勘助は頭を下げる。

「承知しました」

信玄は次に、樹玄を見た。

「樹玄」

「何だ」

「お前は、水を聞け」

樹玄は少し嫌そうな顔をした。

「またそれか」

「それしかできぬのだろう」

「言い方」

勘助が小さく笑った。

信玄は気にしない。

「聞いたものを、そのまま渡せ」

「人の言葉にしにくくてもいい」

「歪んでもいい」

「だが、黙るな」

樹玄は信玄を見た。

真っ直ぐな目だった。

命じる目ではある。

だが、ただ人を使う目ではない。

知らなければ守れない。

だから聞く。

そういう目だった。


「……面倒だな」

樹玄が言う。

信玄は少しだけ笑った。

「国を守るのは面倒だ」

勘助が横から言う。

「土地を読むのも面倒だ」

樹玄は息を吐いた。

「水を聞くのも面倒だ」

三人の間に、短い沈黙が落ちた。

老人が、目を丸くしている。

信玄が小さく笑った。


「ならば、面倒な者同士でよい」

勘助が肩をすくめる。

「この組み合わせは厄介ですな」

「厄介でよい」

信玄は地図の上に手を置く。

「厄介なものを見ぬふりにすれば、さらに厄介になる」

その言葉に、樹玄は黙った。


見ぬふり。

忘れられるだけ。

届かなくなるだけ。

消えたわけではない。

水も。

山も。

土地も。

人の痛みも。

樹玄は、地図の上に置かれた石を見た。

八ヶ岳。

その名が置かれてから、天幕の中の空気は変わった。

山はもう、遠い景色ではない。

昔話でもない。

そこに痛みがあると、三人が知ってしまった。


「ただ」

勘助が言った。

「この古い流れを追うには、名だけでは足りませぬ」

「何がいる」

信玄が問う。

「残す者です」

樹玄が勘助を見る。

「残す者?」

「聞いた話、地の形、水の痕、村の名、祈りの場所」

勘助は地図の端を指で叩いた。

「すべてを残さねば、また忘れられる」


樹玄の耳に、かすかな水音がした。

忘れられる。

届かなくなる。

消えたことにされる。

それを嫌がるような、細い音だった。


信玄は頷いた。

「記す者がいるな」

「はい」

勘助が答える。

「ただの書き役では足りませぬ」

「何を残すかを分かる者」

「名の重さを知る者」

「聞いたものを、聞いたままには書けずとも、消してはいけないものを分かる者」

樹玄は、ふと黙った。

なぜか。

まだ会ったことのない誰かの気配がした。


細い指。

墨の匂い。

紙を押さえる手。

何かを残すことに、命を削るような気配。

水の音ではない。

山の音でもない。

けれど、確かに必要なものだった。


「……いる」

樹玄が言った。

信玄と勘助が見る。

「何が」

「残す者」

樹玄は眉を寄せた。

「たぶん、いる」

勘助が目を細めた。

「聞こえたのか」

「いや」

樹玄は首を横に振る。

「聞こえたんじゃない」

「でも、流れを追うには、必要だと思った」

信玄はしばらく樹玄を見ていた。

そして、静かに頷いた。


「ならば、探す」

樹玄は顔をしかめる。

「また増えた」

「増えたな」

勘助が言う。

「面倒だ」

「お前が言うな」

「お前も言うな」

二人のやり取りに、信玄が低く笑う。

老人は、ようやく少しだけ緊張を解いたようだった。

だが、すぐに頭を下げた。


「恐れながら」

信玄が見る。

「何だ」

老人は、震える声で言った。

「山の話を、書き残した者がいたと聞いたことがございます」

勘助の空気が変わった。

樹玄も顔を上げる。

信玄は、静かに問う。

「誰だ」

老人は首を振った。

「名までは存じませぬ」

「ただ、昔、山の崩れと水の道を紙に残した者がいた、と」

「けれど、その書は、村が移った折に失われたとも」

「また、どこかの祠に納められたとも」

「話はいくつもございます」

勘助が低く言った。

「祠」

「はい」

老人は頷く。

「水の来ぬ村の者たちが、山と水を鎮めるために祀った小さな祠があったと」


樹玄の耳に、細い音がした。

水滴が、石に落ちるような音。

ぽつり。

ぽつり。

深く埋もれた場所から、呼ぶような音。


「そこだ」

樹玄が呟いた。

勘助がすぐに反応する。

「聞こえるのか」

「少し」

「方角は」

樹玄は地図の上に手を滑らせた。

山。

谷。

古い流れ。

水の来なかった村。

そして、祠。

指が、地図の空白で止まる。

まだ何も書かれていない場所。

名のない場所。


「ここ」

天幕の中が静まった。

信玄が地図を見下ろす。

そこには、まだ何もない。

山も。

村も。

道も。

ただ、空白だけがあった。

「空白か」

信玄が言った。

勘助は低く答える。

「地図にない場所です」


樹玄は、空白から手を離せなかった。

そこから、細い音が聞こえる。

流れではない。

大きな水でもない。

たった一滴のような音。

それでも、確かに残っている。


「忘れられた場所だ」

樹玄は言った。

信玄の目が強くなる。

「ならば、そこからだ」

「そこから?」

「忘れられた場所に、忘れられた流れがある」

信玄は静かに告げた。

「探すぞ」

勘助が頷く。


樹玄は天幕の外を見た。

雨上がりの空。

雲の向こうの山。

八ヶ岳。

その名を得た痛みは、まだ終わっていない。

むしろ。

名を得たことで、ようやく始まったのだ。

水を聞く者。

地を読む者。

流れを作る者。

そして、これから必要になる者。

記す者。

残す者。

名を失った場所に、何が眠っているのか。

それを知るために。

三人は、まだ何も描かれていない地図の空白を見つめていた。


挿絵(By みてみん)

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