第三十三話「山の名」
武田の陣は、今井の高みに置かれていた。
龍地からも遠くない。
歩いて届くほどの場所だった。
山から落ちる水。
川へ集まる水。
村へ届く水。
その流れを見るには、ちょうどよい場所だった。
天幕の外へ出ると、雨上がりの光が眩しかった。
濡れた地面。
乾ききらない土の匂い。
兵の声。
馬の息。
旗が風に揺れる音。
すべてが、生きている音だった。
だが。
樹玄の耳には、別の音が残っていた。
山が壊れた音。
水が押し出される音。
土が流れる音。
遠く。
とても遠く。
けれど確かに、まだ鳴っている。
「顔色が悪い」
勘助が言った。
樹玄は振り返る。
「そうか」
「そうだ」
「元からだ」
「便利な言い訳だな」
勘助は即答した。
樹玄は否定しなかった。
実際、気分はよくない。
水の声は、近いものほど分かりやすい。
川。
池。
雨。
井戸。
人の涙。
だが、今聞こえたものは違った。
遠すぎる。
古すぎる。
山そのものの奥に沈んでいるような音だった。
「先ほどの話」
勘助が言う。
「山が壊れた音、と言ったな」
「言った」
「今も聞こえるか」
樹玄は目を閉じた。
風。
水。
土。
兵の足音。
その奥。
さらに奥。
ごう、と低い音がする。
「少し」
「方角は」
樹玄は目を開けた。
そして、ゆっくり顔を上げる。
山々が見える。
雲の切れ間から光が落ち、遠い稜線を白く照らしていた。
樹玄は黙って、北西の方を見た。
勘助の目が細くなる。
「そちらか」
「たぶん」
「たぶんで国は動かせん」
「俺は国を動かすつもりはない」
「だが、主は動かす」
面倒だな。
樹玄はそう思った。
本当に。
面倒な人たちに会ってしまった。
「来い」
勘助が歩き出す。
「どこへ」
「見える場所だ」
「何を」
「地を」
短い答えだった。
樹玄は少しだけ息を吐き、勘助の後に続いた。
陣の端。
少し高くなった場所。
濡れた草を踏み、二人は丘のような場所へ上がった。
そこからは、甲斐の地が見えた。
山。
谷。
川。
村。
田。
道。
雨に洗われた景色は、ひどく鮮やかだった。
勘助は黙って立った。
そして、左眼を覆う眼帯の下ではなく、残された右眼で地を見た。
「山は動かぬと思われがちだ」
勘助が言う。
「だが、動く」
樹玄は黙って聞いた。
「水も同じだ」
「知っている」
「だろうな」
勘助は足元の土を見た。
「山が崩れれば、水の道が変わる」
「土が川を塞ぐ」
「塞げば水が溜まる」
「溜まれば、別のところを破る」
樹玄の耳に、また低い音が響いた。
砕ける音。
崩れる音。
押し出される水。
「昔の崩れか」
勘助が呟く。
「分かるのか」
「分からぬ」
勘助は即答した。
「だが、そう考える方が自然だ」
「自然?」
「今の崩れなら、人が知っている」
「昨日や今日の話なら、村が騒ぐ」
「川が変われば、田も道も変わる」
「だが、お前が聞いたものは違う」
勘助は遠い山を見る。
「古い」
その言葉に、樹玄は小さく頷いた。
「うん」
「かなり古い」
「うん」
「なら、地に残っている記憶だ」
地に残っている記憶。
その言葉が、樹玄の中で静かに沈んだ。
水にも記憶はある。
山にも。
土地にも。
人が忘れても。
名前が薄れても。
流れが変わっても。
そこに起きたことは、完全には消えない。
ただ、届かなくなるだけだ。
「山の名がいる」
勘助が言った。
「信玄公も言っていた」
「名がなければ追えぬ」
「うん」
「だが、名は一つとは限らない」
樹玄は勘助を見る。
「どういう意味だ」
「人は同じものを、違う名で呼ぶ」
勘助は淡々と言った。
「村ごとの呼び名」
「古い呼び名」
「祈りの名」
「恐れの名」
「役人が書く名」
「山に近い者だけが知る名」
「すべて違うことがある」
樹玄は黙った。
名前。
呼び方。
残し方。
それは、ただの印ではない。
何を恐れ、何を敬い、何を忘れたくなかったのか。
そのすべてが、名に残ることがある。
「聞けばいい」
勘助が言った。
「誰に」
「人に」
「俺は水を聞く」
「なら俺は人に聞く」
樹玄は少し目を細めた。
「お前は地を読むんじゃないのか」
「地を読むには、人の話もいる」
勘助は当然のように言った。
「道は人が作る」
「田も人が作る」
「堤も人が作る」
「だが、人は勝手に作るのではない」
「山を見て」
「水を見て」
「暮らしを見て」
「できる場所に作る」
樹玄は、少しだけ勘助を見直した。
この男は、ただ地形を見るだけではない。
人がどこを通り、どこで暮らし、どこを恐れ、どこに祈るのか。
それも地の一部として見ている。
「やっぱり面倒だな」
樹玄が言った。
勘助は少しだけ口元を緩めた。
「お前に言われる筋合いはない」
その時。
下の方から兵が一人、坂を上がってきた。
「勘助殿」
「何だ」
「信玄様がお呼びです」
勘助は小さく息を吐いた。
「早いな」
「はい?」
「いや」
勘助は樹玄を見る。
「来い」
「またか」
「諦めろ」
「俺はまだ何も承知していない」
「承知する前に巻き込まれることもある」
「最悪だな」
「世の中は大体そうだ」
勘助は歩き出した。
樹玄は空を見た。
雲が流れている。
水の音は、まだ遠くで鳴っていた。
天幕に戻ると、信玄はすでに別の地図を広げていた。
先ほどの甲斐全体の地図ではない。
もっと粗い。
山と川の位置が大きく記されたもの。
細かな村や田ではなく、地形を追うための地図だった。
「戻ったか」
信玄が顔を上げる。
「山を見ていた」
勘助が言う。
「何か分かったか」
「古い崩れの可能性が高いかと」
信玄は地図を見る。
「古い崩れ」
「はい」
「山が崩れ、水の道が変わった」
「あるいは、土砂が水を塞いだ」
「塞がれた水が、別の流れを作った」
信玄の指が地図の上を動く。
「山が崩れれば、川は変わる」
「川が変われば、人の暮らしも変わる」
静かな声。
だが、その目はすでに考えていた。
「樹玄」
「何だ」
「まだ聞こえるか」
樹玄は頷いた。
「薄い」
「それでいい」
「よくない」
「まったく聞こえぬよりはいい」
樹玄は黙った。
この人は、前向きなのか強引なのか分からない。
たぶん両方だ。
「どんな音だ」
信玄が聞く。
樹玄は少し考えた。
言葉にするのは難しい。
水の声も、山の音も、言葉そのものではない。
感覚。
重さ。
湿り気。
匂い。
痛み。
それを人の言葉に変えるのは、いつも少し歪む。
それでも。
信玄は聞けと言った。
言葉にしろと言った。
樹玄は静かに口を開いた。
「山が割れる音」
天幕の中が静かになる。
「土が落ちる」
「岩が砕ける」
「水が行き場をなくす」
「それから」
樹玄は眉を寄せた。
「長い」
「長い?」
信玄が聞く。
「崩れた瞬間だけじゃない」
「その後も、ずっと残っている」
「水が迷っている」
「土の下に、古い流れがある」
勘助が地図へ身を乗り出した。
「古い流れ」
「うん」
「昔、水が流れた道か」
「たぶん」
「そこに水が戻りたがっている?」
樹玄は少し考える。
「戻りたい、とは違う」
「では何だ」
「覚えている」
天幕の中に、風が入った。
旗の影が揺れる。
「土地が、昔そこに流れがあったことを覚えている」
信玄の目が細くなる。
勘助は黙ったまま、地図を見つめる。
「昔流れた水は消えぬ」
勘助が低く言った。
その言葉に、樹玄は静かに頷いた。
「消えない」
「忘れられるだけだ」
その時。
天幕の外から、年老いた声が聞こえた。
「恐れながら」
幕の向こうに、腰の曲がった男が立っていた。
村の者だろう。
濡れた草履。
日に焼けた顔。
背中は曲がっているが、目はまだ強い。
兵が付き添っている。
「近くの村の年寄りです」
兵が言った。
「山の古い呼び名を知っているかもしれぬと」
信玄が頷く。
「入れ」
老人は深く頭を下げ、天幕に入った。
勘助が老人を見る。
「山の話を聞きたい」
老人は少しだけ目を伏せた。
「どの山でございましょう」
勘助は地図を示す。
「この方角だ」
老人は地図を覗き込んだ。
しばらく黙る。
指が震える。
「……あちらは」
老人の声が少し低くなった。
「昔から、あまりよい話を聞きませぬ」
樹玄の耳が、ぴくりと反応した。
水の音が近づく。
「よい話ではない?」
信玄が静かに聞く。
老人は頷いた。
「山が怒った、と」
「年寄りの年寄りから、そう聞いております」
勘助の目が鋭くなる。
「山が怒った?」
「はい」
「大きな山が崩れた」
「水が暴れた」
「土が流れた」
「村が消えた」
「そういう話でございます」
樹玄の呼吸が止まりかけた。
聞こえた音と重なる。
山が壊れる。
水が押し出される。
土が走る。
人の暮らしが呑まれる。
「名は」
勘助が問う。
「その山の名は」
老人は少し迷った。
そして、ゆっくり答えた。
「八つの峰を持つ山」
樹玄の中で、何かが大きく鳴った。
ごう、と。
水ではない。
風でもない。
山の奥から響く音。
「八つ」
信玄が呟く。
老人は頷く。
「八ヶ岳」
その名が、天幕の中に落ちた。
瞬間。
樹玄の視界が揺れた。
山。
白い峰。
高く、高く伸びる影。
そして。
崩れる音。
土が裂ける。
岩が砕ける。
水が逃げ場を失う。
誰かの声。
怒りなのか。
悲しみなのか。
分からない。
ただ。
深く、長く、流れずに残っている。
――忘れるな。
そう聞こえた気がした。
樹玄は地図に手をついた。
勘助がすぐに支える。
「樹玄」
「……聞こえた」
信玄が立ち上がる。
「何が」
樹玄は顔を上げた。
喉が少し乾いている。
それでも、言葉にしなければならない。
聞いたものを、渡せ。
そう言ったのは、この男だ。
だから。
樹玄は言った。
「山は、怒っているんじゃない」
老人が息を呑む。
勘助の目が細くなる。
信玄は黙って聞いている。
「痛いんだ」
天幕の中が、静まり返った。
「怒りじゃない」
「怨みでもない」
「流れを失った痛みが、残ってる」
樹玄は目を閉じる。
耳の奥で、まだ山が鳴っている。
「水が」
「土が」
「山が」
「行き場をなくしている」
信玄はゆっくり地図を見る。
そして、低く言った。
「ならば」
その声は静かだった。
だが、揺るがない。
「流れを探す」
勘助が頷く。
「名は得ました」
「次は地を見る」
信玄は老人へ向き直った。
「その話を、知る限り聞かせてくれ」
老人は深く頭を下げた。
「はい」
樹玄は、まだ地図に手を置いていた。
八ヶ岳。
その名を聞いた途端、音は形を持った。
名前がある。
だから追える。
名前がある。
だから残せる。
名前がある。
だから、誰かへ渡せる。
けれど同時に。
名前を呼ぶことは、痛みを呼び起こすことでもあった。
樹玄は静かに息を吐いた。
勘助が横から言う。
「面倒な山を見つけたな」
樹玄は少しだけ顔を上げた。
「山に面倒とか言うな」
「では何と言う」
「……重い」
勘助は少し笑った。
「その方が厄介だ」
信玄も小さく笑う。
だが、その目は笑っていなかった。
すでに考えている。
山の名。
古い崩れ。
水の道。
人の暮らし。
そして、まだ見ぬ未来。
樹玄は思った。
この人は本当に、未来を見ている。
今ここにないものを。
まだ誰も知らない痛みを。
これから守るべき暮らしを。
信玄は地図の上に手を置いた。
「八ヶ岳か」
その名を、もう一度呼ぶ。
天幕の外で、風が吹いた。
遠くの山々が、雲の向こうで静かに光る。
水を聞く者。
地を読む者。
流れを作る者。
三人の前に。
初めて、山の名が置かれた。
それは。
森口家がいつか向き合うことになる、もっとも古い痛みの名だった。
*下今井を時代に合わせて今井に変更しました




