表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/53

第三十三話「山の名」

武田の陣は、今井の高みに置かれていた。


龍地からも遠くない。

歩いて届くほどの場所だった。


山から落ちる水。

川へ集まる水。

村へ届く水。


その流れを見るには、ちょうどよい場所だった。


天幕の外へ出ると、雨上がりの光が眩しかった。


濡れた地面。

乾ききらない土の匂い。

兵の声。

馬の息。

旗が風に揺れる音。

すべてが、生きている音だった。


だが。


樹玄の耳には、別の音が残っていた。

山が壊れた音。

水が押し出される音。

土が流れる音。

遠く。

とても遠く。

けれど確かに、まだ鳴っている。


「顔色が悪い」

勘助が言った。

樹玄は振り返る。

「そうか」

「そうだ」

「元からだ」

「便利な言い訳だな」

勘助は即答した。

樹玄は否定しなかった。


実際、気分はよくない。


水の声は、近いものほど分かりやすい。

川。

池。

雨。

井戸。

人の涙。

だが、今聞こえたものは違った。

遠すぎる。

古すぎる。

山そのものの奥に沈んでいるような音だった。


「先ほどの話」

勘助が言う。

「山が壊れた音、と言ったな」

「言った」

「今も聞こえるか」


樹玄は目を閉じた。

風。

水。

土。

兵の足音。

その奥。

さらに奥。

ごう、と低い音がする。


「少し」

「方角は」

樹玄は目を開けた。

そして、ゆっくり顔を上げる。

山々が見える。

雲の切れ間から光が落ち、遠い稜線を白く照らしていた。


樹玄は黙って、北西の方を見た。

勘助の目が細くなる。

「そちらか」

「たぶん」

「たぶんで国は動かせん」

「俺は国を動かすつもりはない」

「だが、主は動かす」

面倒だな。

樹玄はそう思った。

本当に。

面倒な人たちに会ってしまった。

「来い」

勘助が歩き出す。

「どこへ」

「見える場所だ」

「何を」

「地を」

短い答えだった。

樹玄は少しだけ息を吐き、勘助の後に続いた。


陣の端。

少し高くなった場所。

濡れた草を踏み、二人は丘のような場所へ上がった。


そこからは、甲斐の地が見えた。

山。

谷。

川。

村。

田。

道。

雨に洗われた景色は、ひどく鮮やかだった。


勘助は黙って立った。

そして、左眼を覆う眼帯の下ではなく、残された右眼で地を見た。

「山は動かぬと思われがちだ」

勘助が言う。

「だが、動く」

樹玄は黙って聞いた。

「水も同じだ」

「知っている」

「だろうな」

勘助は足元の土を見た。

「山が崩れれば、水の道が変わる」

「土が川を塞ぐ」

「塞げば水が溜まる」

「溜まれば、別のところを破る」


樹玄の耳に、また低い音が響いた。

砕ける音。

崩れる音。

押し出される水。

「昔の崩れか」

勘助が呟く。

「分かるのか」

「分からぬ」

勘助は即答した。

「だが、そう考える方が自然だ」

「自然?」

「今の崩れなら、人が知っている」

「昨日や今日の話なら、村が騒ぐ」

「川が変われば、田も道も変わる」

「だが、お前が聞いたものは違う」


勘助は遠い山を見る。

「古い」

その言葉に、樹玄は小さく頷いた。

「うん」

「かなり古い」

「うん」

「なら、地に残っている記憶だ」

地に残っている記憶。

その言葉が、樹玄の中で静かに沈んだ。

水にも記憶はある。

山にも。

土地にも。

人が忘れても。

名前が薄れても。

流れが変わっても。

そこに起きたことは、完全には消えない。

ただ、届かなくなるだけだ。


「山の名がいる」

勘助が言った。

「信玄公も言っていた」

「名がなければ追えぬ」

「うん」

「だが、名は一つとは限らない」

樹玄は勘助を見る。

「どういう意味だ」

「人は同じものを、違う名で呼ぶ」

勘助は淡々と言った。

「村ごとの呼び名」

「古い呼び名」

「祈りの名」

「恐れの名」

「役人が書く名」

「山に近い者だけが知る名」

「すべて違うことがある」


樹玄は黙った。

名前。

呼び方。

残し方。

それは、ただの印ではない。

何を恐れ、何を敬い、何を忘れたくなかったのか。

そのすべてが、名に残ることがある。


「聞けばいい」

勘助が言った。

「誰に」

「人に」

「俺は水を聞く」

「なら俺は人に聞く」

樹玄は少し目を細めた。

「お前は地を読むんじゃないのか」

「地を読むには、人の話もいる」

勘助は当然のように言った。

「道は人が作る」

「田も人が作る」

「堤も人が作る」

「だが、人は勝手に作るのではない」

「山を見て」

「水を見て」

「暮らしを見て」

「できる場所に作る」


樹玄は、少しだけ勘助を見直した。

この男は、ただ地形を見るだけではない。

人がどこを通り、どこで暮らし、どこを恐れ、どこに祈るのか。

それも地の一部として見ている。


「やっぱり面倒だな」

樹玄が言った。

勘助は少しだけ口元を緩めた。

「お前に言われる筋合いはない」

その時。

下の方から兵が一人、坂を上がってきた。

「勘助殿」

「何だ」

「信玄様がお呼びです」

勘助は小さく息を吐いた。

「早いな」

「はい?」

「いや」

勘助は樹玄を見る。

「来い」

「またか」

「諦めろ」

「俺はまだ何も承知していない」

「承知する前に巻き込まれることもある」

「最悪だな」

「世の中は大体そうだ」

勘助は歩き出した。

樹玄は空を見た。

雲が流れている。

水の音は、まだ遠くで鳴っていた。


天幕に戻ると、信玄はすでに別の地図を広げていた。

先ほどの甲斐全体の地図ではない。

もっと粗い。

山と川の位置が大きく記されたもの。

細かな村や田ではなく、地形を追うための地図だった。


「戻ったか」

信玄が顔を上げる。

「山を見ていた」

勘助が言う。

「何か分かったか」

「古い崩れの可能性が高いかと」

信玄は地図を見る。

「古い崩れ」

「はい」

「山が崩れ、水の道が変わった」

「あるいは、土砂が水を塞いだ」

「塞がれた水が、別の流れを作った」

信玄の指が地図の上を動く。

「山が崩れれば、川は変わる」

「川が変われば、人の暮らしも変わる」

静かな声。

だが、その目はすでに考えていた。


「樹玄」

「何だ」

「まだ聞こえるか」

樹玄は頷いた。

「薄い」

「それでいい」

「よくない」

「まったく聞こえぬよりはいい」

樹玄は黙った。

この人は、前向きなのか強引なのか分からない。

たぶん両方だ。

「どんな音だ」

信玄が聞く。


樹玄は少し考えた。

言葉にするのは難しい。

水の声も、山の音も、言葉そのものではない。

感覚。

重さ。

湿り気。

匂い。

痛み。

それを人の言葉に変えるのは、いつも少し歪む。

それでも。

信玄は聞けと言った。

言葉にしろと言った。


樹玄は静かに口を開いた。

「山が割れる音」

天幕の中が静かになる。

「土が落ちる」

「岩が砕ける」

「水が行き場をなくす」

「それから」

樹玄は眉を寄せた。

「長い」

「長い?」

信玄が聞く。

「崩れた瞬間だけじゃない」

「その後も、ずっと残っている」

「水が迷っている」

「土の下に、古い流れがある」

勘助が地図へ身を乗り出した。

「古い流れ」

「うん」

「昔、水が流れた道か」

「たぶん」

「そこに水が戻りたがっている?」

樹玄は少し考える。

「戻りたい、とは違う」

「では何だ」

「覚えている」


天幕の中に、風が入った。

旗の影が揺れる。

「土地が、昔そこに流れがあったことを覚えている」

信玄の目が細くなる。

勘助は黙ったまま、地図を見つめる。

「昔流れた水は消えぬ」

勘助が低く言った。

その言葉に、樹玄は静かに頷いた。

「消えない」

「忘れられるだけだ」


その時。

天幕の外から、年老いた声が聞こえた。

「恐れながら」

幕の向こうに、腰の曲がった男が立っていた。

村の者だろう。

濡れた草履。

日に焼けた顔。

背中は曲がっているが、目はまだ強い。

兵が付き添っている。

「近くの村の年寄りです」

兵が言った。

「山の古い呼び名を知っているかもしれぬと」

信玄が頷く。

「入れ」

老人は深く頭を下げ、天幕に入った。

勘助が老人を見る。

「山の話を聞きたい」

老人は少しだけ目を伏せた。

「どの山でございましょう」

勘助は地図を示す。

「この方角だ」

老人は地図を覗き込んだ。

しばらく黙る。

指が震える。

「……あちらは」

老人の声が少し低くなった。

「昔から、あまりよい話を聞きませぬ」

樹玄の耳が、ぴくりと反応した。

水の音が近づく。

「よい話ではない?」

信玄が静かに聞く。

老人は頷いた。

「山が怒った、と」

「年寄りの年寄りから、そう聞いております」

勘助の目が鋭くなる。

「山が怒った?」

「はい」

「大きな山が崩れた」

「水が暴れた」

「土が流れた」

「村が消えた」

「そういう話でございます」


樹玄の呼吸が止まりかけた。

聞こえた音と重なる。

山が壊れる。

水が押し出される。

土が走る。

人の暮らしが呑まれる。


「名は」

勘助が問う。

「その山の名は」

老人は少し迷った。

そして、ゆっくり答えた。

「八つの峰を持つ山」

樹玄の中で、何かが大きく鳴った。

ごう、と。

水ではない。

風でもない。

山の奥から響く音。

「八つ」

信玄が呟く。

老人は頷く。

「八ヶ岳」

その名が、天幕の中に落ちた。


瞬間。


樹玄の視界が揺れた。

山。

白い峰。

高く、高く伸びる影。

そして。

崩れる音。

土が裂ける。

岩が砕ける。

水が逃げ場を失う。

誰かの声。

怒りなのか。

悲しみなのか。

分からない。

ただ。

深く、長く、流れずに残っている。


――忘れるな。

そう聞こえた気がした。


樹玄は地図に手をついた。

勘助がすぐに支える。

「樹玄」

「……聞こえた」

信玄が立ち上がる。

「何が」

樹玄は顔を上げた。

喉が少し乾いている。

それでも、言葉にしなければならない。

聞いたものを、渡せ。

そう言ったのは、この男だ。

だから。

樹玄は言った。

「山は、怒っているんじゃない」

老人が息を呑む。

勘助の目が細くなる。

信玄は黙って聞いている。

「痛いんだ」

天幕の中が、静まり返った。

「怒りじゃない」

「怨みでもない」

「流れを失った痛みが、残ってる」

樹玄は目を閉じる。

耳の奥で、まだ山が鳴っている。

「水が」

「土が」

「山が」

「行き場をなくしている」


信玄はゆっくり地図を見る。

そして、低く言った。

「ならば」

その声は静かだった。

だが、揺るがない。

「流れを探す」

勘助が頷く。

「名は得ました」

「次は地を見る」

信玄は老人へ向き直った。

「その話を、知る限り聞かせてくれ」

老人は深く頭を下げた。

「はい」

樹玄は、まだ地図に手を置いていた。

八ヶ岳。

その名を聞いた途端、音は形を持った。

名前がある。

だから追える。

名前がある。

だから残せる。

名前がある。

だから、誰かへ渡せる。

けれど同時に。

名前を呼ぶことは、痛みを呼び起こすことでもあった。


樹玄は静かに息を吐いた。

勘助が横から言う。

「面倒な山を見つけたな」

樹玄は少しだけ顔を上げた。

「山に面倒とか言うな」

「では何と言う」

「……重い」

勘助は少し笑った。

「その方が厄介だ」

信玄も小さく笑う。

だが、その目は笑っていなかった。

すでに考えている。

山の名。

古い崩れ。

水の道。

人の暮らし。

そして、まだ見ぬ未来。

樹玄は思った。

この人は本当に、未来を見ている。

今ここにないものを。

まだ誰も知らない痛みを。

これから守るべき暮らしを。


信玄は地図の上に手を置いた。

「八ヶ岳か」

その名を、もう一度呼ぶ。

天幕の外で、風が吹いた。

遠くの山々が、雲の向こうで静かに光る。

水を聞く者。

地を読む者。

流れを作る者。

三人の前に。

初めて、山の名が置かれた。

それは。

森口家がいつか向き合うことになる、もっとも古い痛みの名だった。


挿絵(By みてみん)

*下今井を時代に合わせて今井に変更しました

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ