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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第三十二話「流れを作る者」

雨上がりの光は、まだ天幕の中に残っていた。


地図の上に落ちた光が、川筋を細く照らしている。

釜無川。

御勅使川。

山。

村。

田。

道。

甲斐そのものが、そこに広がっていた。


信玄は地図を見ている。

勘助は地形を見ている。

樹玄は、その地図の上を流れる水の気配を聞いていた。

水は、紙の上にはない。

けれど。

ある。

線として描かれた川の奥に。

山から落ちる水。

谷を下る水。

人の暮らしへ届く水。

そして。

人の暮らしを壊す水。

その全部が、そこにあった。


「樹玄」

信玄が言った。

「お前には、この川がどう見える」

樹玄は地図を見た。

釜無川の線。

御勅使川の線。

二つの水が近づき、ぶつかり、暴れる場所。


しばらく黙る。


やがて、樹玄は言った。

「見えるというより」

「うん」

「詰まっている」

信玄の目が細くなる。

勘助も黙った。

「詰まっている?」

「うん」


樹玄は地図の上に指を置いた。

釜無川。

御勅使川。

そのあたり。


「水が悪いわけじゃない」

昨日、自分が聞いた川の声を思い出す。

苦しい。

そう聞こえた。

「でも、ここでぶつかる」

「流れたいものが、行き場をなくす」

「押し合う」

「削る」

「壊す」


信玄は黙って聞いていた。

勘助が静かに言う。


「地形でも同じだ」


勘助は地図の上へ小さな石を動かした。

「ここは水が集まりやすい」

次に木片を置く。

「ここで勢いが増す」

さらに別の印を動かす。

「そして、ここで人の暮らしに当たる」

樹玄は勘助を見た。


勘助は片目で地図を見ている。

鋭い。

だが、その目は冷たいだけではなかった。

人が死ぬ場所。

田が流れる場所。

家が壊れる場所。

勘助は、それを地形として見ている。


感情ではない。

だが。

見捨ててもいない。


「つまり」

信玄が言った。

「水をただ止めるだけでは、別の場所が壊れる」

勘助が頷く。

「止めれば溜まります」

「溜まれば?」

「いずれ破れます」

樹玄が続けた。

「淀めば、黒になる」


天幕の中が静かになった。


信玄が顔を上げる。

「黒」

短く呟いた。

樹玄は頷く。


「水だけじゃない」

「怒りも」

「悲しみも」

「恐れも」

「押さえ込めば、淀む」

「流れを失えば、濁る」


勘助が横目で樹玄を見る。


「相変わらず、変なことを言う」

「否定はしない」

「だが」


勘助は地図を見る。

「分からなくもない」

信玄は少し笑った。

「お前たちは、違う言葉で同じことを言うな」


樹玄は首を傾げる。

勘助は少し眉を上げた。

信玄は地図を指でなぞった。


「勘助は地で見る」

「樹玄は水で聞く」

「俺は、人の暮らしで考える」


静かな声だった。


けれど。


その声には、不思議な力があった。

「川を止めたいのではない」

信玄は言った。

「川を殺したいのでもない」

樹玄の目が細くなる。

「では」

信玄は地図の上に置かれた石を一つ動かした。

「流れを作る」


沈黙。


その言葉は、天幕の中に静かに落ちた。

流れを作る。

樹玄は、その言葉をゆっくり受け取った。


川を戻すのではない。

川を縛るのでもない。

水の行き場を奪うのでもない。

流れる道を作る。

止めるのではなく。

逃がす。

押さえるのではなく。

導く。


「……それなら」

樹玄は小さく呟いた。

「水は死なない」

信玄が笑った。

「そうか」

「うん」

「ならば、それでいこう」


あまりにもあっさりと言った。

樹玄は思わず信玄を見る。

「決めるのが早い」

「遅ければ、人が流される」


その声には迷いがなかった。

だが。

軽さもなかった。


信玄は分かっている。

その一言を実現するために、どれだけの人が動くのか。

どれだけの土を運ぶのか。

どれだけの石を積むのか。

どれだけの時間がかかるのか。

どれだけの反対が出るのか。


それでも。

決める。

それが、この男なのだと。


樹玄は思った。

未来を見ている。

そう感じた理由が、少し分かった。


信玄は、まだないものを見ている。

まだ作られていない堤。

まだ守られていない田。

まだ泣かずに済む子ども。

まだ流されずに済む家。

その全部を。

今、この地図の上に見ている。


「勘助」

信玄が言った。

「はい」

「地を見る」

「承知」

「水の落ち方、土の質、人の通り道、村の位置。すべて洗え」

「すでに」

「だろうな」

信玄は笑った。

勘助は表情を変えない。

だが。

どこか少しだけ楽しそうだった。


「樹玄」

信玄がこちらを見る。

「お前は水を聞け」

樹玄は黙った。

「川がどこで苦しんでいるか」

「どこで淀むか」

「どこへ流れたがっているか」

「聞こえるなら、聞け」

樹玄は信玄を見る。

「聞いてどうする」

「俺に言え」

信玄は即答した。

「聞いた声を、俺に渡せ」

樹玄は少しだけ息を止めた。


聞いたものを、渡す。

それは、今まであまり考えたことがなかった。


水の声。

山の声。

土地の声。

それは自分の中に流れ込んでくるものだった。

受け止めるものだった。

だが。

この男は言う。

渡せ、と。


「聞いたところで、人には分からない」

樹玄は言った。

信玄は頷く。

「そうだな」

「なら」

「だから、お前が言葉にしろ」

静かな声だった。

「俺はそれを聞く」


樹玄は黙った。

勘助も、わずかに目を細める。

信玄は続けた。

「勘助は地の言葉を読む」

「お前は水の声を聞く」

「俺は、人を動かす」


天幕の外で、風が吹いた。


旗が揺れる音がした。

「一人ではできん」

信玄は言った。

「だから、集める」

「見える者を」

「聞こえる者を」

「動ける者を」

「残す者を」


樹玄の胸の奥で、何かが小さく鳴った。

残す者。

その言葉が、妙に引っかかった。

まだ知らない。

けれど。

どこかで。

その言葉は、自分の先へ繋がっていく気がした。


「人を集めれば、面倒が増える」

樹玄が言う。

信玄は笑った。

「面倒を避けて国は守れん」

勘助が小さく笑う。

「その通りだ」

樹玄は勘助を見た。

「お前まで」

「面倒な主に仕えておるのでな」

信玄が笑う。

「褒め言葉として受け取ろう」

「褒めてはいません」

「知っている」

三人の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。


だが。


地図の上の川は、まだ暴れている。

釜無川。

御勅使川。

人を泣かせる水。

人を生かす水。

樹玄は地図を見つめた。


その時。


耳の奥で、微かな音がした。

水の音。

遠い。

とても遠い。

だが、確かに聞こえる。

昨日のような苦しさだけではなかった。

もっと奥。

もっと古い。

山の内側から響くような音。


樹玄は顔を上げた。

「……山」

勘助がすぐに反応する。

「どこの山だ」

樹玄は答えない。

まだ分からない。

ただ。

聞こえる。

砕ける音。

崩れる音。

押し出される土。

走る水。

どこか遠い山が、まだ痛みを覚えている。

そんな音だった。


信玄も黙った。

樹玄の表情を見て、何かを感じ取ったのだろう。

「今度は、何が聞こえた」

樹玄はゆっくり息を吐いた。

「山が」

「うん」

「壊れた音がする」


沈黙。


天幕の外で、馬がいなないた。


勘助の目が鋭くなる。

「山体崩れか」

樹玄は、その言葉を知らない。

だが。

意味は分かった。


山が崩れる。

山が砕ける。

山が、その形を失う。

「どこだ」

勘助が問う。


樹玄は目を閉じた。

水の音を追う。

土の匂いを辿る。

遠い山。

広い裾野。

その向こう。

何かが、長い間、流れずに残っている。

「まだ」

樹玄は言った。

「名前が分からない」

信玄が静かに言う。

「ならば、探せばいい」

樹玄は目を開ける。


信玄は地図を見ていた。

「名が分からぬものは、地図にない」

「地図にないものは、人が見落とす」

「ならば、名を探せ」

名。

その言葉が、天幕の中に落ちた。

勘助が低く言う。

「名があれば、追える」

信玄が頷く。

「名があれば、人に伝えられる」

樹玄は黙った。


水の声。

山の痛み。

土地の記憶。

それらは、ただ聞くだけでは届かない。

名がいる。

言葉がいる。

残す者がいる。

樹玄は、まだ知らない。

いつか。

自分の周りに集まる者たちが。

その名を記し。

その声を残し。

遠い未来へ繋いでいくことを。


信玄は地図の上に手を置いた。

「流れを作る」

もう一度、言った。

「水のために」

「人のために」

「この国の明日のために」

樹玄は、その言葉を聞いた。


川が鳴っている。

山が鳴っている。

人が生きている。

すべてが、別々ではない。

繋がっている。

流れている。

止めれば、淀む。

殺せば、黒になる。


だから。


樹玄は静かに頷いた。

「分かった」

信玄が笑う。

「では、頼む」

「何を」

「水を聞け」

樹玄は少しだけ目を細めた。

「簡単に言う」

「難しく言えば聞くのか」

「聞かない」

「なら同じだ」

勘助が小さく笑った。

樹玄はため息をつく。

面倒な人だ。

本当に。

面倒な人だった。

だが。

この面倒は、悪くない。

そう思った。


天幕の外では、雨上がりの光が甲斐の山々を照らしていた。

流れを作る。

その言葉は、まだ小さな種だった。


けれど。

いつか。

それは堤となり。

道となり。

水を逃がす仕組みとなり。

人の暮らしを守る形となる。

そして。

森口家が背負う役目の、最初の輪郭となっていく。


水を殺すな。

そのために。

流れを作れ。


挿絵(By みてみん)

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