第三十一話「甲斐の虎」
雨上がりだった。
雲の切れ間から光が落ちる。
濡れた山々。
土の匂い。
遠くで川が鳴っている。
樹玄は一人、山道を歩いていた。
勘助と別れた翌日。
呼ばれたわけではない。
約束したわけでもない。
だが。
何となく。
足が向いた。
武田の陣へ。
兵がいる。
馬がいる。
荷を運ぶ者。
地図を広げる者。
忙しそうな空気。
戦の準備。
だが。
どこか違った。
殺気ではない。
生きるための熱だった。
「お前か」
声がした。
勘助だった。
相変わらず眼帯を付けている。
「来たな」
「来た」
「素直だな」
「来いと言ったのはお前だ」
勘助が少し笑う。
「違いない」
そのまま陣の奥へ進む。
人が増える。
だが。
誰も勘助を止めない。
それだけで分かる。
この男の立場が。
やがて。
一つの天幕の前で足が止まった。
勘助が言う。
「いるぞ」
短い言葉。
そして。
幕が開く。
最初に見えたのは地図だった。
広げられた地図。
石。
木片。
印。
川。
山。
村。
道。
甲斐そのもの。
その前に男が座っていた。
朱と白をまとったその姿は、地味とは程遠い。
飾りも、威厳も、武田の主としての格も隠していない。
だが。
不思議なくらい自然に、目を引いた。
そこにいること自体が、あまりにも自然だった。
男は地図から顔を上げた。
「お前が樹玄か」
静かな声だった。
だが。
よく通る。
樹玄は頷く。
「そうだ」
男は笑った。
「勘助が変な男を見つけたと言うのでな」
即座に勘助が言う。
「変なのは事実です」
「否定できない」
樹玄も答える。
沈黙。
そして。
男が声を上げて笑った。
豪快だった。
だが。
下品ではない。
周囲まで明るくなるような笑いだった。
「面白い」
男は言った。
「久しぶりだ」
勘助は地を見る。
自分は水を聞く。
では。
この男は何を見る。
樹玄は武田信玄を見た。
地図を見ている。
違う。
川を見ている。
それも違う。
村。
田。
道。
山。
人。
信玄の目は、その全てを見ていた。
一つではない。
川だけでもない。
山だけでもない。
人だけでもない。
その先。
まだ来ていない明日を見ている。
樹玄はふと思った。
この男は。
未来を見ている。
その時だった。
武田信玄が顔を上げた。
「川は好きか」
樹玄は少し考える。
「好きでも嫌いでもない」
「そうか」
信玄は頷く。
そして地図の上を指でなぞった。
釜無川。
御勅使川。
その流れ。
「この川はな」
静かな声だった。
「毎年、人を泣かせる」
樹玄は黙って聞く。
「田を流す」
「村を壊す」
「家を奪う」
信玄は地図を見る。
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ。
事実として見ている。
「だが」
信玄の指が止まる。
「川が悪いわけではない」
樹玄の目が少し細くなる。
「人も生きる」
「川も生きる」
信玄は顔を上げた。
「ならば」
「どうすれば共に生きられるか」
静かな声だった。
「それを考えるのが、人の役目だ」
その瞬間。
樹玄は少しだけ息を止めた。
川を憎まない。
止めようとしない。
殺そうとしない。
昨日。
自分が川へ言った言葉。
『水を殺すな』
それに近いものを感じた。
勘助が小さく笑う。
「どうだ」
樹玄は信玄を見る。
そして。
初めて少し笑った。
「面倒な人だな」
沈黙。
次の瞬間。
信玄が笑う。
勘助も笑う。
雨上がりの光が差し込む。
甲斐の山々の中で。
水を聞く者。
地を読む者。
そして。
未来を選ぶ者。
三人は初めて同じ場所に立った。




