第三十話「地を読む者」
雨はまだ止まなかった。
甲斐の山々は霧に沈み、
釜無川は低く唸っている。
樹玄は川から離れ、
山道を歩いていた。
背後から足音が続く。
振り返らない。
誰か分かっていた。
「ついてくるのか」
後ろで声がした。
「気づいておったか」
山本勘助だった。
樹玄は少し笑う。
「気配が隠れてない」
「わざとだ」
勘助は悪びれなかった。
ぬかるんだ山道。
二人は並んで歩く。
しばらく沈黙だった。
やがて勘助が言った。
「本当に聞こえるのか」
樹玄は前を向いたまま答える。
「何が」
「川だ」
少しだけ考える。
そして。
「聞こえる時もある」
「聞こえない時もあるのか」
「人だって毎回本音を言うわけじゃない」
勘助が眉を上げた。
「川を人扱いするのか」
「していない」
樹玄は空を見る。
「ただ、生きている」
風が吹く。
木々が揺れる。
勘助は黙った。
その時だった。
樹玄が足を止める。
「……崩れるな」
勘助が顔を上げる。
前方。
何もない。
少なくとも勘助にはそう見えた。
だが。
数秒後。
ゴゴゴ、と低い音が響く。
山肌が崩れた。
土砂。
木。
岩。
雨で緩んだ斜面が落ちていく。
勘助の目が細くなる。
「今のは何だ」
「音」
「聞こえなかった」
「山が鳴ってた」
勘助は黙った。
普通ではない。
だが。
嘘にも見えない。
樹玄は崩れた斜面を見ながら言った。
「山も川も、人より先に壊れる時がある」
勘助は崩れた斜面へ近づいた。
濡れた土を掴む。
指先で擦る。
匂いを嗅ぐ。
樹玄が聞いた。
「何かわかるのか」
「わかる」
即答だった。
勘助は崩れた斜面を見上げる。
「三日前から水を含みすぎている」
樹玄が目を細めた。
勘助は続ける。
「ここだけ土の色が違う」
「色?」
「山の腹に古い水筋がある」
風が吹く。
雨が落ちる。
勘助は山肌を指差した。
「人は見えた道しか見ぬ」
「うん」
「だが山は違う」
片目が細くなる。
「昔流れた水は消えぬ」
樹玄は黙って聞いていた。
勘助はさらに続ける。
「今は草に隠れておる」
「今は土の下だ」
「だが残る」
雨水はそこへ集まる。
湿気はそこへ溜まる。
山は昔の流れを覚えている。
勘助は静かに言った。
「だから崩れた」
樹玄は小さく息を吐いた。
「すごいな」
勘助が顔を上げる。
「何がだ」
「聞こえないのに分かる」
勘助は少し黙った。
そして言う。
「お前も同じだろう」
「俺は聞いているだけだ」
「俺は見ているだけだ」
二人はしばらく無言だった。
雨だけが降り続く。
やがて勘助が小さく笑った。
「結局、似たようなものだな」
樹玄も少しだけ笑う。
「そうかもしれない」
風が吹く。
雨が落ちる。
勘助は静かに立ち上がる。
「面白いな」
「何が」
「同じものを見ているのに」
勘助は笑った。
「見方が違う」
樹玄も少し笑う。
「そうかもしれない」
勘助は山を見た。
地を読む。
流れを読む。
戦を読む。
それが自分の役目だ。
だが。
目の前の男は違う。
水を聞く。
山を聞く。
土地を聞く。
人ではないものの声を聞く。
勘助は静かに言った。
「お前は変な男だ」
樹玄は即答した。
「さっきも聞いた」
「何度でも言う」
「面倒だな」
今度は勘助が笑った。
「否定はせぬか」
「否定できない」
雨は降り続いていた。
甲斐の山々を濡らしながら。
その時だった。
遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
勘助が振り返る。
「呼ばれたか」
「忙しいな」
樹玄が言う。
勘助は鼻で笑った。
「主が待っておる」
「信玄公か」
「そうだ」
雨の向こう。
馬が近づいてくる。
勘助は歩き出した。
数歩進み。
ふと足を止める。
「樹玄」
「なんだ」
勘助は振り返らない。
「今度、主に会え」
樹玄が少し眉を上げた。
「なぜ」
勘助は静かに言った。
「お前の話を聞けば、きっと喜ぶ」
雨が降る。
川が唸る。
山が霞む。
そして。
勘助は去っていった。
樹玄はその背を見送る。
軍師。
地を読む者。
水を聞く自分とは違う。
だが。
同じ流れを見ている気がした。
雨は降り続いていた。
誰もまだ知らない。
この出会いが。
やがて甲斐の国の未来を変えることを。




