第二十九話「川の声」
雨だった。
空は低い。
山は霞み。
釜無川は、まるで怒っているように唸っていた。
轟音。
濁流。
岩にぶつかる水。
流木。
削られる土。
川岸に立つ一人の男の裾を、冷たい風が揺らした。
白銀の髪。
白い羽織。
深い青の紐飾り。
森口樹玄は静かに川を見ていた。
いや。
聞いていた。
人には聞こえないものを。
目を閉じる。
水の音が近づく。
遠くなる。
重なる。
そして。
声になる。
――苦しい。
樹玄は目を開いた。
濁流は変わらない。
だが、その向こうに見える。
積み上げられた石。
削られた川岸。
無理に変えられた流れ。
「そうか」
樹玄は小さく呟いた。
「苦しいか」
雨が降る。
川が唸る。
まるで返事をするように。
樹玄は川岸へしゃがみ込んだ。
指先を水へ触れる。
冷たい。
その瞬間。
景色が流れ込んできた。
流された畑。
崩れた家。
泣く子ども。
泥にまみれた男たち。
川を憎む声。
川を恐れる声。
川を押さえつけようとする願い。
樹玄は静かに息を吐いた。
「人は止めたがる」
川は答えない。
ただ流れる。
その時だった。
背後から足音がした。
ぬかるみを踏む音。
振り返る。
片目に眼帯をつけた男が立っていた。
山本勘助。
武田家の軍師。
勘助は川ではなく、地形を見ていた。
山を見る。
谷を見る。
土を見る。
水の落ち方を見る。
そして樹玄を見る。
「また川と話しておるのか」
樹玄は少し笑った。
「話しているつもりはない」
「なら何をしている」
「聞いている」
勘助は眉を上げた。
「聞こえるのか」
「聞こえる」
勘助は少し考えた。
そして言った。
「面倒だな」
樹玄は思わず笑った。
「否定はできない」
勘助もわずかに口元を緩めた。
二人は並んで川を見る。
しばらく沈黙だった。
やがて勘助が口を開く。
「人は水を止めたがる」
「うん」
「逃げるからだ」
「うん」
「だが、止めれば別の場所が壊れる」
樹玄は頷いた。
川だけではない。
怒りも。
悲しみも。
未練も。
願いも。
押さえ込めば溜まる。
溜まれば淀む。
淀めば黒になる。
樹玄は濁流を見つめた。
「水を殺してはいけない」
勘助が横目で見る。
「変なことを言う」
「そうかもしれない」
「だが」
勘助は川を見た。
「間違ってはいない気がする」
雨が降る。
釜無川が唸る。
遠くで雷が鳴った。
樹玄は静かに立ち上がる。
そして川へ向かって言った。
「流れろ」
「無理に戻らなくていい」
「止まらなければいい」
川は答えない。
だが。
ほんの少しだけ。
濁流の音が変わった気がした。
樹玄は目を細める。
その様子を見ながら、勘助は静かに呟いた。
「変わった男だ」
雨は降り続いていた。
甲斐の山々を濡らしながら。
誰もまだ知らない。
この言葉が。
百年先も。
二百年先も。
森口家に残ることを。
――水を殺すな。




