第二十八話「水を殺すな」
夕方だった。
古文書を開いたまま、四葉が静かに言った。
「……変」
六樹が顔を上げる。
「どこ」
「ここ」
四葉は紙の端を指で押さえた。
古い紙。
擦れた墨。
何度も書き写された跡。
その中央に、短く書かれている。
『水ヲ殺スナ』
三樹が肉まんを片手に顔をしかめた。
「物騒だな」
「物騒なのはお前の食生活」
一樹が言う。
「肉まんは平和だぞ」
「おやつで三個目」
「まだいける」
「いくな」
いつものやり取り。
だが、四葉は古文書から目を離さなかった。
「……この書き方」
六樹が隣へ来る。
「古い」
「うん」
「かなり古い」
二葉が湯呑みを持って近づいた。
「何かわかった?」
四葉は静かに頷いた。
「この記録、楯無堰より前」
空気が少し変わる。
五樹がソファの背にもたれながら聞いた。
「戦国時代?」
「たぶん」
六樹が古文書を見つめる。
「筆跡、複数ある」
「写本?」
「いや」
六樹はゆっくり言った。
「これは、継ぎ足してる」
一樹が眉を寄せた。
「継ぎ足す?」
四葉が頷いた。
「最初の記録を、後の人間が追記してる」
「代々?」
「たぶん」
静かな沈黙。
古文書の上に、夕方の光が落ちる。
その時だった。
ぱらり。
風もないのに、古文書の頁が一枚めくれた。
六樹の目が細くなる。
そこにあった文字を、四葉が読む。
『水ヲ止メレバ、黒ガ溜マル』
三樹が小さく呟いた。
「……黒」
二葉の指先が僅かに止まる。
五樹は笑わなかった。
一樹が静かに聞く。
「誰が書いた」
四葉は、頁の端を見ていた。
小さく、名前がある。
擦れかけた墨。
『四糸乃 記ス』
六樹が息を止めた。
「……記録係」
「うん」
四葉が小さく頷く。
「四糸乃って…」
さらに頁をめくる。
今度は別の筆跡。
少し硬い。
整った文字。
『六嗣 写ス』
六樹の声が低くなる。
「写本」
「繋いでたんだ」
二葉が静かに言う。
「ずっと」
部屋が静かだった。
外では風が鳴っている。
遠くで犬が吠えた。
その時。
古文書の最後の頁が、ゆっくり開いた。
まるで、誰かがそこを見せるように。
そこに書かれていたのは、たった一文。
『水ヲ殺スナ』
その下に、もう一つ。
今までとは違う、強い筆。
『流レヲ失エバ、土地ハ死ヌ』
沈黙。
一樹がゆっくり言った。
「……誰の字だ」
四葉は答えなかった。
六樹も。
だが二人とも、同じことを考えていた。
古文書の最後。
墨が一番深い場所。
そこに記されていた名。
『森口樹玄』
その瞬間。
六樹の視界が揺れた。
水の音。
轟音。
暴れる川。
濁流。
土。
雨。
戦の匂い。
そして。
低い声。
『水を殺すな』
視界が切り替わる。
戦国時代。
雨の甲斐。
釜無川の前に、一人の男が立っていた。
白銀の髪。
白の羽織に深い青の袴。
その足元を、水が流れている。
男は静かに川を見ていた。
まるで、川の声を聞いているように。




