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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第三十七話「黒を抱く土地」

「土地は黒を抱く」

四糸乃の読み上げた言葉は、部屋の中に残り続けていた。

誰も、すぐには動かなかった。

火の小さくはぜる音。

障子の外で揺れる葉の音。

雨上がりの土の匂い。

古い紙の匂い。

そのすべての奥で、樹玄の耳には別の音が聞こえていた。

水ではない。

山でもない。

もっと重いもの。

底に沈み、固まり、流れを失ったもの。

黒。

その一文字が、音にならない音として、樹玄の内側に沈んでいた。


「もう一度読め」

信玄が言った。

声は静かだった。

だが、誰も逆らえない重さがあった。

四糸乃は頷き、古い紙へ目を落とす。

薄れた墨。

滲んだ文字。

欠けた端。

それでも、言葉は残っていた。

「流れを忘れれば、土地は黒を抱く」

四糸乃の声が、部屋に落ちる。


樹玄は目を閉じた。

ぽつり。

ぽつり。

祠で聞いた水音が遠くなる。

代わりに、低い音が近づく。

沈む音。

溜まる音。

濁る音。

流れたいのに流れられないものが、地の底で重くなる音。


「黒とは何だ」

勘助が問う。

四糸乃は紙を見つめたまま首を振った。

「ここには、それ以上は」

「続きは」

「かすれて読めません」

勘助はわずかに眉を寄せた。

「肝心なところが読めぬか」

「申し訳ありません」

「お前が謝ることではない」

勘助はすぐに言った。

四糸乃は少しだけ目を伏せた。

樹玄は、そのやり取りを横で聞いていた。


黒。

何なのか。

人に聞かれれば、答えられない。

見たことがあるわけではない。

触れたこともない。

だが、聞こえる。

流れを失った場所に沈むもの。

祈りが届かず、名が消え、道が閉じ、記録が失われた時に残るもの。

怒りではない。

怨みだけでもない。

痛みが、行き場を失ったもの。


「樹玄」

信玄が呼んだ。

樹玄は目を開ける。

「何だ」

「お前には、どう聞こえる」

部屋の中の視線が、樹玄に集まった。

勘助。

四糸乃。

老人。

そして、信玄。

樹玄は息を吐いた。

「言葉にしにくい」

「構わぬ」

「構う」

「構わぬ」

「お前は本当に強引だな」

「今さらだ」

勘助が小さく笑った。

樹玄は無視した。

「黒は、水じゃない」

信玄は黙って聞いている。

「でも、水が関係している」

「流れが止まる」

「閉じる」

「忘れられる」

「そのまま長く残る」


樹玄は言葉を探した。

感覚を、人に渡すための言葉。

いつも難しい。

水は、水のままなら分かる。

だが、人の言葉にすると、どうしても少し違うものになる。


「腐る、とは違う」

「濁る、でも足りない」

「沈む」

勘助が低く言った。

樹玄は頷いた。

「そう」

「沈んで、重くなる」

「水でも土でもないものになる」

「それが黒か」

信玄が問う。

「たぶん」

「たぶんで国は動かせん」

勘助が言った。

樹玄は勘助を見る。

「前も聞いた」

「何度でも言う」

「しつこい」

「大事なことだ」

信玄が二人を見て、わずかに口元を緩めた。

だが、その目は笑っていなかった。

「ならば、確かめる」


信玄は地図を広げ直した。

集落の者が持っていた古い紙。

四糸乃が写してきた記録。

勘助が天幕から持ってきた甲斐の地図。

それらが、部屋の机の上に重なる。

山。

川。

古い道。

水の来ぬ村。

忘れられた祠。

土の下の流れ。

そして、黒。


「黒が溜まる場所には、条件があるはずだ」

信玄が言う。

「水が止まるところ」

勘助がすぐに答えた。

「水が逃げられぬところ」

「人が忘れたところ」

樹玄が言った。

勘助が彼を見る。

「人が忘れることも関係するのか」

「たぶん」

「また、たぶんか」

「でも聞こえる」


樹玄は地図の上に指を置いた。

「流れが止まっただけなら、水は別の道を探す」

「でも、そこに名がなくなる」

「祠も忘れられる」

「道も消える」

「誰も見に来ない」

「誰も呼ばない」

「そうすると、音が遠くなる」

四糸乃が小さく呟いた。

「届かなくなる」

樹玄は頷いた。

「届かなくなる」

「そして、沈む」

四糸乃は紙の上に手を置いた。

「だから、残す者がいる」

その声は静かだった。

けれど、迷いはなかった。

「忘れないために」

「名を失わないために」

「もう一度、辿れるようにするために」

勘助は四糸乃を見る。

「記録が、流れを保つのか」

四糸乃は少し考えた。

「流れそのものにはなれません」

「けれど、流れの場所を残すことはできます」

「人が忘れても、紙が残れば」

「紙がなくても、写しが残れば」

「写しがなくても、言葉が残れば」

「誰かが、また探せます」

樹玄は四糸乃を見た。

若い娘だ。

まだ十七、十八、十九。

樹玄よりずっと若い。

それなのに、その言葉には年齢以上の重さがある。

紙を抱いて生きてきた者の重さ。

消えるものを見てきた者の重さ。


「ならば」

信玄が言った。

「黒を避けるには、水だけでは足りぬな」

勘助が頷く。

「地を見る者」

信玄の視線が勘助に向く。

「水を聞く者」

次に樹玄を見る。

「記す者」

四糸乃を見る。

「その三つがいる」

「三つではありませぬ」

勘助が言った。

信玄が目を細める。

「何が足りぬ」

「決める者です」

勘助は静かに言った。

「水を聞き、地を読み、記録を残しても」

「それをどう使うかを決める者がいなければ、国は動きませぬ」

部屋の中が静かになる。


信玄は、しばらく勘助を見ていた。

そして、低く笑った。

「俺か」

「はい」

「面倒だな」

樹玄がぼそりと言う。

「お前が言うな」

勘助が即答した。

四糸乃がほんの少しだけ笑った。

その笑みは、すぐに消える。

けれど、部屋の重さが少しだけほどけた。


信玄は地図へ視線を戻した。

「面倒でよい」

「見ぬふりをした面倒は、いずれ人を呑む」

その言葉に、樹玄の耳の奥で黒が沈んだ。

見ぬふり。

忘れたふり。

なかったことにする。

それは、黒を抱く土地と同じだ。

流れを止めたまま、蓋をする。

痛みを聞かず、名を呼ばず、記録も捨てる。

そうして残ったものが、いつか人を呑む。

「黒は」

樹玄が言った。

全員が彼を見る。

「水だけの問題じゃない」

信玄の目が細くなる。

「続けろ」

「土地が黒を抱くって、たぶん」

「水が止まるだけじゃない」

「人が止める」

「人が閉じる」

「人が忘れる」

「人がなかったことにする」

樹玄は地図を見る。

「そういうものも、一緒に沈む」

四糸乃の手が、紙の上で止まった。

勘助は黙っている。

信玄は、ゆっくり頷いた。

「よく分かった」

樹玄は眉を寄せる。

「何が」

「これは治水だけではない」

信玄は言った。

「土地を治めるとは、水を治めることではない」

「水と、人の暮らしと、記憶を繋ぐことだ」

その言葉に、部屋の空気が変わった。


治水。

堤。

川を押さえる。

流れを作る。

その先にあるもの。

人が生きる土地をどう守るか。

そのために、何を覚え、何を残し、何を流すのか。

樹玄は思った。

この人は、本当に未来を見ている。

まだ形のないものを見ている。

まだ誰もそうとは呼んでいないものを、すでに考えている。


「勘助」

信玄が言った。

「はい」

「黒が溜まる場所を探せ」

「水の止まる場所」

「古い道が消えた場所」

「祠が失われた場所」

「人が散った村」

「記録の途切れた土地」

「すべてを重ねろ」

勘助は深く頭を下げた。

「承知しました」

「四糸乃」

四糸乃は姿勢を正す。

「はい」

「読めるものをすべて写せ」

「読めぬものも、形を残せ」

「欠けた文字も、欠けたまま残せ」

「分からぬなら分からぬと記せ」

四糸乃の目が揺れた。

「欠けたまま、ですか」

「勝手に埋めるな」

信玄は言った。

「後の者が、そこで間違える」

四糸乃は息を呑んだ。

そして、深く頭を下げる。

「承知しました」

その返事は、さっきよりも強かった。

「樹玄」

「何だ」

「黒を聞け」

樹玄は顔をしかめた。

「嫌だ」

即答だった。

勘助が少し目を細める。

四糸乃も、思わず樹玄を見る。

信玄は驚かなかった。

「なぜだ」

「水の声とは違う」

樹玄は低く言った。

「黒は、重い」

「沈む」

「近づくと、持っていかれる」

部屋が静まった。

四糸乃の表情が、少しこわばる。

勘助の目が鋭くなる。

「危険か」

「分からない」

「だが、嫌だと感じる」

「うん」

勘助は信玄を見る。

「無理に聞かせるべきではありませぬ」

信玄はしばらく黙っていた。

やがて、頷く。

「分かった」

樹玄は少し意外だった。

信玄は続ける。

「ならば、黒そのものではなく、水を聞け」

「黒がある場所では、水の音が変わるのだろう」

樹玄は黙った。


確かに。

黒を直接聞くのは嫌だ。

だが、水の音ならまだ分かる。

黒が沈む場所では、水の音が鈍る。

遠くなる。

泣く。

閉じる。

それなら。

「それなら、できるかもしれない」

「なら、それでよい」

信玄はあっさり言った。

「できる形でやれ」

樹玄は信玄を見る。

強引だ。

けれど、ただ押すだけではない。

引くところは引く。

使える道を探す。

水と同じだ。

止めるのではなく、流す。


「お前、本当に水みたいな考え方をするな」

樹玄が言った。

信玄は少しだけ笑った。

「褒めているのか」

「知らない」

「なら、褒め言葉として受け取っておく」

「前向きだな」

「国を持つ者は、後ろ向きだけでは務まらぬ」

勘助が低く笑った。


四糸乃は筆を取った。

「今のも残しますか」

樹玄が見る。

「今の?」

「御屋形様が、水みたいな考え方をすると」

「残すな」

樹玄が即答した。

信玄は笑った。

「残せ」

「御屋形様」

勘助が呆れたように言う。

四糸乃は少しだけ困った顔をした。

「どちらに」

「残さなくていい」

樹玄が言う。

「余白にでも残せ」

信玄が言う。

「余白は大事です」

四糸乃が真面目に答えた。

勘助が小さく息を吐く。

「そこを真面目に返すのか」

その一瞬だけ、部屋の空気がやわらかくなった。

けれど。

机の上の古い紙は、変わらずそこにあった。


流れを忘れれば、土地は黒を抱く。

その言葉は、軽くならない。

笑いが去った後も、確かにそこに残っていた。


夕方。

信玄は陣へ戻った。

勘助も、兵を連れて周囲の地形を確認しに出た。

老人は、何度も頭を下げながら、家の奥へ下がった。

部屋には、樹玄と四糸乃が残った。

四糸乃は、古い紙を写している。

筆先が、静かに紙の上を走る。

かすれた文字。

欠けた文字。

読めない文字。

四糸乃は、それらを無理に直さなかった。

読めるところは読めるまま。

欠けたところは欠けたまま。

分からないところには、小さく印をつける。

樹玄は壁にもたれ、黙ってそれを見ていた。


「見すぎです」

四糸乃が言った。

顔を上げないまま。

「前にも言われた」

「また言います」

「なぜ分かる」

「視線がうるさいので」

樹玄は少し目を逸らした。

「文字を書く音がする」

四糸乃の筆が止まる。

「音?」

「うん」

「水とは違う」

「紙をなぞる音」

「墨が沈む音」

「言葉が残る音」

四糸乃は、ゆっくり顔を上げた。

「そんなものも聞こえるのですか」

「今日から」

「今日から?」

「たぶん、お前のせいだ」

四糸乃は少し目を丸くした。

「私のせい」

「残す音がする」

四糸乃は黙った。

そして、静かに紙へ視線を戻す。

「それは、悪い音ですか」


樹玄は少し考えた。

ぽつり。

ぽつり。

祠の水音。

ごう。

遠い山の音。

ずん、と沈む黒の音。

そのどれとも違う。

四糸乃の筆の音は、細い。

けれど、途切れない。

小さな流れのようだった。


「悪くない」

樹玄は言った。

四糸乃の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。

「そうですか」

「うん」

「なら、よかったです」

また筆が動き出す。


樹玄は目を閉じた。

筆の音。

墨の音。

紙の音。

その奥に、水の音が重なる。

記録も流れなのかもしれない。

そう思った。

水が流れるように。

言葉も流れる。

人から人へ。

時代から時代へ。

誰かが止めれば、そこで終わる。

誰かが残せば、また次へ行く。

四糸乃は、その流れを作っている。


「四糸乃」

樹玄が呼ぶ。

「はい」

「お前は、黒が怖くないのか」

筆が止まった。

四糸乃は少しの間、何も言わなかった。

そして、静かに答える。

「怖いです」

「そうか」

「けれど、怖いから残します」

樹玄は目を開けた。

四糸乃は古い紙を見ている。


「怖いものほど、人は見なかったことにします」

「見なかったことにすれば、一時は楽です」

「でも、消えません」

樹玄は黙って聞いた。

「残さなければ、次に同じものが現れた時、また誰も分からない」

「だから、残します」

「怖いからこそ」


樹玄は、少しだけ目を細めた。

この娘は、本当に強い。

声を荒げない。

剣を持たない。

水も聞けない。

地も読めない。

国も動かせない。

けれど、見なかったことにしない。

それはたぶん、とても難しい。


「やっぱり向いてる」

樹玄が言った。

四糸乃は小さく息を吐く。

「褒めているのですか」

「確認」

「またですか」

「うん」

四糸乃は、ほんの少しだけ笑った。

「なら、確認として受け取っておきます」

樹玄は何も言わなかった。


部屋の外では、夕方の風が吹いている。

山の音は、まだ遠い。

祠の水音も、まだ消えていない。

黒は、地の底に沈んでいる。

けれど。

筆の音があった。

小さく、細く、途切れずに続く音。

それは、黒を流すにはあまりにも頼りない音に思えた。

だが。

流れは、いつも小さな一滴から始まる。

樹玄は、そう思った。


夜。

信玄の天幕には、灯りがともっていた。

地図の上には、いくつもの印が置かれている。

八ヶ岳。

古い崩れ。

水の来ぬ村。

忘れられた祠。

土の下の流れ。

黒。

そして、新しく一つ。

記録。

勘助は、地図を見下ろしていた。


「御屋形様」

「何だ」

「これは、堤だけでは収まりませぬ」

信玄は灯りの横で、目を伏せていた。

「分かっている」

「水をどう流すか」

「土地をどう使うか」

「人をどこに住まわせるか」

「何を残すか」

「何を忘れさせてはならぬか」

勘助は静かに続けた。

「すべて、繋がっております」

信玄はゆっくり目を開ける。

「だからこそ、やる」

「人は、川を恐れる」

「山を恐れる」

「水を恐れる」

「だが、本当に恐ろしいのは」

信玄は地図の黒い印を見た。

「流れを失ったものを、見ぬふりにすることだ」

勘助は黙って頭を下げた。


天幕の外で、風が鳴る。

信玄は地図の上に手を置いた。

「水を殺すな」

その言葉は、もうただの古い言葉ではない。

甲斐の未来を作るための、ひとつの柱になり始めていた。

「黒を抱く土地を増やさぬ」

信玄は静かに言った。

「そのために、流れを作る」

灯りが揺れた。

地図の上で、川の線がわずかに光ったように見えた。


水を聞く者。

地を読む者。

流れを作る者。

記録し、言葉を繋ぐ者。

四つの役目が、ようやく同じ流れに乗り始めていた。

そしてその流れは、まだ誰も知らない未来で。

森口家という名を持つ者たちへ、受け継がれていくことになる。


挿絵(By みてみん)

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