幕間:第一話「触らぬにゃーに祟りなし」
夕飯後の森口家は、比較的静かだった。
比較的、である。
居間の中央では三樹が茶碗を片手に「まだ飯ある?」と聞き、台所から二葉が「あるけど、もう三杯目だよ」と呆れた声を返している。
一樹は食後の茶を飲みながら、今日の現場で濡れた靴の乾き具合を気にしていた。
六樹はノートパソコンを開き、今日拾った水筋のデータを淡々と整理している。
そして四葉は、食後の定位置である座布団に座り、森永の牛乳プリンの蓋を開けていた。
「遠征、あと一分」
四葉がスマホを見ながら言う。
五樹が湯呑みを片手に振り返った。
「今、現実のほうも遠征帰りみたいな疲れ方してるんだけど」
「それはそれ。これはこれ」
四葉は一切揺らがない。
「資源管理は生活」
「四葉、それ名言っぽく言ってるけどゲームの話だよね?」
「刀剣乱舞は生活」
「強い」
五樹が肩をすくめると、二葉が台所から小皿を持って戻ってきた。
「四葉、プリン食べたらちゃんとお茶も飲んでね」
「うん。二葉大好き」
「急だね」
二葉が笑う。
四葉は牛乳プリンを一口食べ、満足げに頷いた。
「二葉、今日の遠征回収した?」
「え、あ、忘れてた」
「だめ。資源は日々の積み重ね」
「四葉、審神者になると厳しいね」
二葉が苦笑しながら自分のスマホを取る。
五樹はその横に、当然のように座った。
「二葉、俺の遠征は?」
「五樹は寝なさい」
「扱いが小学生」
「精神年齢が時々小学生だから」
三樹が味噌汁のおかわりをよそいながら言った。
「五樹、二葉絡むとほんと面倒くさいよな」
「三樹に言われるの納得いかない。お前、嫌な気配したら三秒で突っ込むじゃん」
「三秒も待つなら偉いだろ」
「偉くない」
一樹が即座に言った。
「お前はまず、突っ込む前に俺に言え」
「言ってるじゃん」
「行ったあとに言うのは報告だ。相談じゃない」
六樹がキーボードを打ちながら、淡々と付け加える。
「三樹の事前共有率は低い」
「なんだその嫌なデータ」
「事実」
「六樹、味方しろよ」
「事実は味方ではない」
「かっこよく言うな」
いつものやり取りだった。
怪異も、水筋も、古い土地の記憶も、ひとまず今夜は部屋の外に置いてある。
居間には、湯気の残る食器と、誰かが畳みきらなかった上着と、四葉の牛乳プリンと、六樹の開いたノートパソコンがある。
森口家の、普通の夜だった。
「そういえば」
刀剣乱舞の画面を見ていた二葉が、ふと思い出したように言った。
「南泉一文字、やっぱり好きかも」
その瞬間、五樹の指が止まった。
一樹は気づかなかった。
三樹も気づかなかった。
六樹は気づいたが、何も言わなかった。
四葉は、牛乳プリンを食べる手を止めて、すっと顔を上げた。
「分かる」
「四葉、分かるの?」
「分かる。二葉は南泉も好き」
「そうかな」
「鬼丸国綱、南泉一文字、後家兼光。二葉の傾向は一貫している」
「え、私そんなに分析されてるの?」
「同室だから」
「理由になってるようで、なってないよ」
二葉が笑う。
五樹は湯呑みを置いた。
「へえ」
軽い声だった。
だが六樹は、画面から視線を上げずに言った。
「五樹」
「なに?」
「余計なことを考えている顔」
「失礼だな。俺はいつも二葉の幸せについて考えてるだけだけど」
「それを余計という」
「六樹、最近刺し方強くない?」
四葉は静かにスマホを操作しながら、言った。
「南泉は難しい」
「え?」
「猫感の加減が難しい。やりすぎると違う。軽すぎても違う」
五樹が笑った。
「ふうん」
その笑い方を見て、一樹が少しだけ眉を寄せた。
「五樹」
「なに、一樹」
「お前、何かやる気か」
「俺が?」
五樹はにこっと笑った。
「やだなあ。俺、ただの善良な二葉親衛隊だよ」
「それが一番信用できないんだよ」
一樹はそう言ったが、その時点ではまだ、誰も深く追及しなかった。
それが間違いだったと気づくのは、数日後のことである。
ハロウィン当日。
森口家の居間には、特に飾りつけらしい飾りつけはなかった。
三樹がどこかでもらってきた小さなかぼちゃの置物が棚に置かれ、四葉が「季節感」と言ってその横に牛乳プリンを置こうとして一樹に止められたくらいである。
「プリンを供えるな」
「供えてない。置いただけ」
「食後まで冷蔵庫に入れておけ」
「一樹は風情がない」
「プリンに風情を求めるな」
二葉は台所で夕飯の準備をしながら、くすくす笑っていた。
六樹はテーブルの端で、今日の買い出しリストを確認している。
三樹はなぜか黒いマントを羽織っていた。
「三樹、それ何?」
二葉が聞くと、三樹は胸を張った。
「吸血鬼」
五樹がいない状態で、すでにひと騒ぎ起きていた。
一樹は疲れた顔で三樹を見た。
「なんで吸血鬼なのに、さっきからにんにく入り唐揚げ食べてるんだ」
「腹減ったから」
「設定を守れ」
「俺は自由な吸血鬼」
「自由すぎる」
その時、玄関の方で足音がした。
軽い。
いつもの五樹の足音だ。
「ただいまー」
声もいつも通り軽い。
だが、居間に入ってきた瞬間、空気が止まった。
五樹は、黒と白を基調にした衣装を着ていた。
いつものチャラい笑みを少し抑え、猫のように細めた目で、肩にかかる髪を軽く払う。
腰には刀らしきもの。
細部は本物ではない。仮装用だ。
それでも。
二葉が目を丸くした。
「……五樹?」
五樹は少しだけ顎を上げ、いつもの軽い声で言った。
「二葉、見て見て」
そして、ほんの少しだけ照れを隠すように笑う。
「俺、今日ちょっと猫っぽくない?」
一拍。
「……にゃー、ってね」
沈黙。
三樹が唐揚げを持ったまま固まった。
一樹が湯呑みを置いた。
六樹の指がキーボードの上で止まった。
四葉が、無言でスマホを構えた。
二葉だけが、ぽかんと五樹を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「……似てる」
五樹の目が、分かりやすく輝いた。
「え、ほんと?」
「うん。すごく似合ってる」
「ほんとに?」
「うん。かっこいいよ、五樹」
その瞬間、五樹は完全に勝った顔をした。
「二葉がそう言うなら、今日の俺は勝ち確じゃん」
「勝ち確って何」
「一生この格好でもいいくらい」
「それは困るかな」
二葉が笑う。
五樹はその笑顔だけで満足そうだった。
本来なら、ここで終わるはずだった。
五樹が二葉に褒められて、少し調子に乗る。
三樹がからかう。
一樹がため息をつく。
いつもの森口家で終わるはずだった。
だが。
「待って」
四葉が低く言った。
五樹が嫌な予感を覚えて振り返る。
「四葉?」
「これは、撮る価値がある」
「え?」
四葉はすでに立ち上がっていた。
牛乳プリンを食べている時より、遠征大成功を見た時より、明らかに目が真剣だった。
「二葉、そこに立って」
「え、私?」
「五樹の表情が良くなる」
「理由がひどい」
「事実」
六樹が画面を見ながら、静かに立ち上がった。
「背景が悪い」
五樹の笑顔が引きつった。
「六樹?」
「生活感がある。洗濯物が映り込む」
「いや、撮影会するとは言ってない」
「あと、刀が違う」
五樹は固まった。
「……そこ?」
「そこは重要」
四葉が大きく頷いた。
「六樹、分かる」
「分からないで」
「襟元も少し違う」
「待って」
「猫感がやや過剰」
「俺さっき二葉に褒められたんだけど?」
「二葉に褒められたことと、完成度が不十分なことは両立する」
六樹の言葉は容赦なかった。
五樹は一樹を見た。
「一樹、助けて」
一樹は湯呑みを持ったまま、疲れた顔をしていた。
「自業自得だろ」
「長男」
「俺はこういう時だけ長男扱いされるの、納得いかない」
三樹がマントをひらひらさせながら言った。
「俺も撮る? 吸血鬼」
四葉は即答した。
「三樹は照明」
「俺、吸血鬼なのに?」
「照明」
「扱い雑じゃね?」
六樹が淡々と付け加える。
「動かないで。影が入る」
「俺、照明としても厳しい」
「三樹は動くから」
「寝てても動くからね」
二葉が笑いながら言った。
「二葉まで」
三樹が少し傷ついた顔をする。
その横で、四葉はすでに撮影場所を決めていた。
居間の一角。
余計なものを片づけ、背景にできそうな障子の前に五樹を立たせる。
六樹はスマホではなく、なぜか自分のタブレットで照明の角度まで確認し始めた。
「光量が足りない」
「ハロウィンの仮装だよね? 俺、雑に褒められて終わる予定だったんだけど」
「雑に終わらせるには惜しい」
四葉が真顔で言った。
「五樹のくせに、ハマりすぎている」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいいか」
「よくない」
一樹が小さく呟いた。
二葉は少し申し訳なさそうに五樹を見た。
「五樹、大丈夫?」
五樹は即座に笑った。
「二葉が見てくれるなら、俺は何でも大丈夫」
「本当に?」
「本当」
四葉がすかさず言う。
「じゃあ、にゃー」
五樹の笑顔が消えた。
「命令されると違う」
「二葉のため」
「……にゃー」
三樹が噴き出した。
「お前、二葉絡むとほんとちょろいな!」
「三樹に言われたくない。お前、理不尽見たら脳より先に足が出るだろ」
「それは正義感」
「俺のは愛情」
「重い」
四葉が即座に言った。
五樹が振り返る。
「四葉?」
「五樹のは重い」
六樹が頷く。
「否定できない」
「六樹まで?」
二葉が困ったように笑う。
「五樹、私は嬉しいよ」
五樹は一瞬で機嫌を直した。
「ほら、二葉は嬉しいって」
「だから重い」
「四葉、今日厳しくない?」
「推し再現に甘さは不要」
「俺、推しなの?」
「被写体」
「格下げされた」
その後、撮影会は一時間続いた。
一時間である。
最初の十分は五樹も楽しんでいた。
二葉が「似合ってる」と言えば、いくらでも笑えた。
「もう少し猫っぽく」と言われれば、なんとなく目を細めた。
「にゃー」と言われれば、二葉の視線がある限り言った。
だが、二十分を超えたあたりから、六樹の完璧主義が本格的に発動した。
「刀の角度が違う」
「五樹、肩が上がってる」
「表情が軽い」
「猫感はあるが、拗ね感が足りない」
「背景に三樹のマントが映った。やり直し」
三樹が抗議する。
「俺、動いてない!」
「マントが動いた」
「俺のせいじゃねぇ!」
「三樹の周辺は基本的に動く」
「なんだその判定」
四葉も止まらなかった。
「五樹、二葉を見る時の顔は良い」
「そりゃ二葉見てるからね」
「でも、南泉ではなく五樹になる」
「俺は五樹だからね?」
「そこを調整する」
「無茶言うな」
「二葉、もう一回褒めて」
二葉は少し笑いをこらえながら、五樹を見た。
「五樹、すごく似合ってるよ」
五樹は黙った。
そして、諦めたようにポーズを取った。
「……にゃー」
一樹はこめかみを押さえた。
「白髪増えてきた気がする」
六樹が振り返らずに言った。
「家系的に禿げる可能性は低い」
「慰めになってるようで、なってない」
「白髪は別問題」
「追い打ちをかけるな」
三樹が唐揚げを食べながら言う。
「一樹、俺のマント姿も撮ってくれよ」
「お前はまず手を拭け」
「吸血鬼だから?」
「唐揚げの油だ」
「現実的」
撮影会の終盤。
五樹は障子の前で、完全に四葉と六樹の指示に従う被写体になっていた。
最初にあった余裕のチャラさは、少しだけ疲れに変わっている。
それでも、二葉が見ている限り、五樹は逃げなかった。
四葉がスマホを確認しながら、ようやく小さく頷いた。
「……良い」
六樹もタブレットの画面を見て、少しだけ目を細めた。
「許容範囲」
五樹が崩れ落ちるように座り込んだ。
「許容範囲って何? 俺、こんなに頑張ったのに?」
二葉が慌てて近づく。
「五樹、お疲れさま」
「二葉」
「本当に似合ってたよ」
五樹は疲れた顔のまま、にこっと笑った。
「じゃあ、やってよかった」
その言い方があまりに素直だったので、二葉は少しだけ照れた。
四葉がその瞬間も撮った。
「今の表情、良い」
「四葉!」
「自然体」
「もう撮らないで!」
六樹が画像を確認しながら言った。
「最後の一枚が最も良い」
「六樹まで!」
三樹が腹を抱えて笑う。
一樹は深くため息をついた。
「触らぬ神に祟りなしって言うけどな」
五樹が床に座ったまま、疲れた声で返す。
「俺、神じゃなくてにゃーなんだけど」
四葉が牛乳プリンを片手に、満足そうに言った。
「触らぬにゃーに祟りなし」
その場が、一瞬静かになった。
二葉が笑った。
三樹も笑った。
一樹は頭を抱えながら笑い、六樹は「記録名として妥当」と呟いた。
五樹だけが、床に座ったまま言った。
「祟られたの、俺なんだけど?」
二葉が五樹の横にしゃがみ、そっと笑う。
「でも、かっこよかったよ」
五樹は一拍置いて、また小さく笑った。
「……なら、いっか」
その声は、いつものように軽かった。
でも二葉には、少しだけ分かる。
五樹が本当に欲しかったのは、撮影会でも、完成度でも、仮装の評価でもない。
ただ、二葉が笑ってくれること。
それだけだった。
「五樹」
「なに?」
「来年は、無理しなくていいからね」
「無理じゃないよ」
五樹は床に座ったまま、少しだけ猫のように目を細める。
「二葉が褒めてくれるなら、俺、来年も何かやるし」
「だから重い」
四葉が即座に言った。
六樹も頷く。
「重い」
三樹が笑う。
「重いな」
一樹が茶をすすりながら言った。
「重い」
五樹は全員を見回した。
「満場一致で言う?」
二葉だけが、困ったように笑っていた。
「私は、嬉しいよ」
五樹はまた勝った顔をした。
「ほら」
一樹は、今日何度目か分からないため息をついた。
「……やっぱり、二葉に実権握られてる気がする」
その夜。
四葉は食後の牛乳プリンを食べながら、撮影した写真を選別していた。
六樹は横で、背景の不要物を消すべきか真剣に検討している。
三樹は自分の吸血鬼写真が一枚も撮られていないことに不満を言い、一樹は「来年にしろ」と雑に流した。
二葉は、五樹の写真を一枚見せてもらって、少しだけ笑った。
「これ、いいね」
五樹はすぐ隣から覗き込む。
「保存する?」
「うん」
その瞬間、五樹は今日一番嬉しそうな顔をした。
四葉はそれも撮った。
「四葉!」
「今のも良い」
六樹が頷く。
「自然光ではないが、表情は良い」
一樹が天井を見上げる。
「俺の白髪、本当に増えるかもしれない」
森口家の夜は、まだ少しだけ終わらない。
怪異も祟りも、今夜ばかりは遠い。
居間にあるのは、牛乳プリンと、撮りすぎた写真と、二葉に褒められて完全に満足した五樹と。
それから、笑い声だけだった。




