第二十七話「水の記憶」
夜は、静かだった。
森口家の居間。
机の上には、古文書、地域誌、コピーされた地図、ノートパソコン。
六樹の画面には、楯無堰から竜地へ伸びる水路図が表示されていた。
虫の声が遠い。
誰も、すぐには喋らなかった。
古文書の中に並んでいた名前。
武田晴信。
山本勘助。
森口樹玄。
それがまだ、現実感を持たない。
三樹だけが、冷蔵庫から持ってきたトマトを齧っていた。
「……うま」
「静かに食え」
一樹が言う。
「静かに食ってる」
「咀嚼音がでかい」
「トマトに失礼だろ」
五樹が笑う。
けれど、その笑いも少し浅い。
空気が違う。
六樹は、古文書の一文を拡大した。
『――水ノ道ヲ見失フナ』
「この書き方……」
四葉が小さく言う。
「“道”っていうより、“流れ”を見てる」
二葉は、窓の外を見ていた。
夏の夜風。
田んぼ。
水の匂い。
不意に、どこかで水が流れる音がした。
ちゃぷん。
小さい音。
誰かが顔を上げる。
「……聞こえた?」
二葉が言う。
六樹が止まる。
「今の」
「外?」
三樹が立ち上がる。
「川?」
「違う」
四葉が言った。
もっと近い。
家の中で聞こえたみたいだった。
次の瞬間。
――風が、変わった。
居間の空気が、
一瞬だけ冷える。
ぱた、と、古文書の紙が揺れた。
六樹の画面がノイズを走らせる。
「六樹?」
五樹が振り返る。
けれど六樹は答えなかった。
視線が止まっている。
画面ではなく、
もっと向こうを見ていた。
「……六樹?」
二葉が近づく。
六樹が、小さく呟いた。
「水が……」
その声は、普段よりずっと遠かった。
「流れてる」
居間の灯りが、少し揺れる。
そして。
誰も居ないはずの場所から、水音が重なった。
ざあ、と。
一瞬だけ。
釜無川のような、巨大な水の流れ。
誰かが息を呑む。
次の瞬間。
景色が、揺れた。
畳ではない。
土だった。
夜ではない。
夕暮れだった。
風が吹いている。
土埃。
草。
川。
遠くで、人の声。
馬のいななき。
鎧の音。
六つ子は、同時にそれを見ていた。
「……何だ、これ」
三樹が低く言う。
目の前には、見知らぬ男たちがいた。
だが。
知らないはずなのに、分かってしまう。
中央に立つ男。
赤い陣羽織。
鋭い目。
大きな背。
その男が、釜無川を見ている。
横には、片目を細めた男。
地形を睨み、水の流れを追っている。
そして。
少し離れた場所に、白い装束の男が立っていた。
川ではなく。
“土地”を見ていた。
六樹が、息を止める。
四葉が、呟く。
「……勘助」
「……武田晴信」
二葉が小さく言った。
そして。
最後の男を見た瞬間。
樹蔵が、低く息を呑んだ。
「――樹玄」
風が吹く。
白装束の男が、ゆっくり顔を上げた。
その目が。
一瞬だけ。
現代の六つ子を見た。
ぞわ、と、全身が粟立つ。
知らないはずなのに。
懐かしかった。
男が、静かに口を開く。
『水を止めるな』
声が響く。
『流れを殺せば、土地が死ぬ』
次の瞬間。
景色が崩れた。
居間へ戻る。
虫の声。
パソコンの光。
畳。
冷えた麦茶。
誰も、すぐには喋れなかった。
三樹が、手に持っていたトマトを見る。
「……落としてない」
「そこ?」
五樹が思わず言った。
「いや、でも大事だろ」
「感想そこ?」
「トマト無事だった」
一樹が、ゆっくり息を吐く。
「今の……」
四葉が言う。
「記憶?」
六樹は、震える指でノートへ打ち込んでいた。
武田晴信。
山本勘助。
森口樹玄。
そして。
『水を止めるな』
その言葉を。
樹蔵は、静かに古文書を見つめていた。
「……始まったな」
誰も、その意味を聞かなかった。
けれど。
六つ子は、もう気づいていた。
これは、昔の話じゃない。
土地に残った記憶が、今、
自分たちに触れ始めている。




