第二十七話「古文書の夜」
夜の森口家は、昼とは違う静けさを持っていた。
居間の低い机には、地図と古い資料が広げられている。
窓の外では、田んぼの方から夏の虫の声が聞こえていた。
六樹はノートパソコンを開き、昼間まとめた情報を整理している。
四葉は、その横で古い地域誌をめくっていた。
みどり豆の袋は開いているのに、今日は減りが遅い。
一樹は腕を組み、机の上の資料を見下ろしていた。
「……楯無堰」
「竜地の溜井」
「地蔵原」
低く読み上げる。
「校歌に全部入ってたな」
二葉が冷たい麦茶を机に置いた。
「子どもの頃は、意味なんて考えなかったけどね」
三樹は座布団に寝転がったまま言う。
「校歌なんて、覚えろって言われるから歌うもんだろ」
「お前は途中から口パクだった」
一樹が即座に返す。
「ちゃんと歌ってた時もある」
「最初だけ」
四葉が言った。
「否定できない」
五樹が笑う。
空気はいつもの森口家だった。
けれど、机の上に並ぶ資料だけが、少し違う空気を持っている。
六樹が、古い地図を拡大した。
「楯無堰の水路と、竜地の溜井の位置は一致する」
「校歌に残ってた地名とも重なる」
「つまり?」
三樹が聞く。
四葉が答えた。
「土地の記憶が、校歌に残されてた」
「歌って、記録にもなるんだな」
二葉が小さく言う。
その時だった。
居間の襖が開く。
「まだ起きてたのか」
祖父・樹蔵だった。
「あ、おじいちゃん」
二葉が振り返る。
樹蔵は、机の上の資料を見ると、小さく目を細めた。
「……そこまで辿り着いたか」
一樹が顔を上げる。
「じいちゃん、知ってたのか」
「全部じゃない」
樹蔵は静かに座った。
「だが、森口家が水と関わってきた家なのは事実だ」
六樹がすぐに聞く。
「楯無堰と森口家は関係してる?」
樹蔵は少し黙った。
それから、ゆっくり立ち上がる。
「待ってろ」
奥の部屋へ消える。
しばらくして戻ってきた時、樹蔵は古い木箱を抱えていた。
誰も喋らない。
木箱は古かった。
角は擦れ、木目は黒く艶を帯びている。
樹蔵は、机の上に静かに置いた。
「これは、森口家に残ってたもんだ」
六樹の目が変わる。
四葉も、みどり豆を置いた。
「開けるぞ」
蓋が開く。
乾いた紙の匂い。
古い墨の匂い。
時間が閉じ込められていた。
四葉がそっと紙を広げる。
「……古文書」
六樹が横から覗き込む。
「読める?」
「なんとか」
四葉は文字を追った。
崩し字。
古い言い回し。
けれど、読める。
ゆっくりと、声に出す。
「――水の道を読み、龍地を鎮める役を負う」
居間が静かになった。
四葉の指が、次の行で止まる。
「名前がある」
一樹が身を乗り出した。
「誰」
四葉は、ゆっくり読み上げた。
「……森口、樹玄」
二葉が小さく呟く。
「初代……森口家?」
樹蔵が頷いた。
「そう呼ばれてる」
六樹はすぐにノートへ打ち込む。
森口樹玄。
その文字が、画面に刻まれた。
さらに別の紙を開く。
四葉の表情が変わる。
「待って」
「これ……」
五樹が聞く。
「何」
四葉は、息を整えるようにして言った。
「武田晴信」
一樹が古文書を見つめた。
「……武田信玄って、戦してた人って印象だったけど」
「違うんだね」
四葉が小さく言う。
「この人、“甲斐を残す方法”を考えてる」
六樹が資料を引き寄せる。
「内容は?」
四葉は文字を追った。
「水勢を読み――」
「釜無川を治め――」
「民を守る堤を築く――」
一樹が低く呟く。
「信玄堤……」
さらに紙をめくる。
そして。
四葉の手が止まった。
「もう一人いる」
「誰だ」
一樹が聞く。
四葉は、静かに読んだ。
「――山本勘助」
空気が変わった。
三樹ですら、黙る。
六樹が資料を追う。
「山本勘助。
縄張り、築城、地形、水筋……」
四葉が頷いた。
「土地を見る側の人間だ」
古文書の中に。
武田晴信。
山本勘助。
森口樹玄。
三つの名前が並んでいた。
五樹が、静かに息を吐く。
「……急に歴史の中心に来た感じするな」
「いや、違う」
六樹が言う。
「最初から、繋がってた」
二葉は、古文書を見つめていた。
校歌。
楯無堰。
竜地の溜井。
水の道。
全部、別々じゃなかった。
一樹が、低く言う。
「森口家って、何をやってた家なんだ」
樹蔵は静かに答えた。
「甲斐は、水を間違えると人が死ぬ土地だ」
樹蔵は静かに言った。
「だから昔の人間は、水を止めようとはせんかった」
「流れを読んだ」
「逃がす道を作った」
「生き残るためにな」
誰も、すぐには意味を聞かなかった。
虫の声だけが響く。
六樹はノートに項目を追加していく。
楯無堰。
竜地の溜井。
森口樹玄。
武田晴信。
山本勘助。
水の道。
四葉が、小さく呟いた。
「これ……」
「完全に、土地の記憶だ」
二葉は、昼に聞こえたリコーダーの音を思い出していた。
意味も知らず歌っていた校歌。
祖母から教わった味。
畑の匂い。
水の音。
知らなかったわけじゃない。
ずっと、そこにあった。
ただ、名前を知らなかっただけだった。
土地はずっと、六つ子が生まれる前から、
そこに流れていた。




