第二十六話「土地の声」
夏の夕方だった。
森口家の台所には、煮干しの出汁の匂いが漂っていた。
昼の熱をまだ残した風が、少し開けた窓から入ってくる。畑の土の匂い。草の匂い。水を撒いたあとの湿った匂い。それに混じって、揚げ油の音が、ぱちぱちと小さく弾けていた。
二葉は、ざるに上げた冷麦を水で締めながら、ふう、と息を吐いた。
白い麺が、冷たい水の中でほどけていく。指先に伝わる冷たさが、夕方の暑さを少しだけ遠ざけた。
隣の鍋では、つゆが温められている。
煮干しで取った出汁に、干し椎茸。家で採れた玉ねぎとなす。祖母から教わった通り、火を強くしすぎないように、具材の甘みが出るまでゆっくり煮る。
「二葉、なす追加で揚げる?」
横から五樹が声をかけた。
手には、切ったなすと玉ねぎを乗せた皿。何も言わなくても、必要なものを必要な時に持ってくるあたり、五樹らしい。
「お願い。あと、かぼちゃも少し」
「はいはい」
五樹は軽く返事をして、揚げ油の前に立った。
台所の奥では、四葉が涼しい顔で椅子に座り、資料を読んでいる。片手には、当然のようにみどり豆。夏でも、四葉の手元にはだいたいこれがある。
六樹はテーブルの端でノートパソコンを開き、古い地図と資料を並べていた。横には、豆と菊が伏せている。豆は時々耳を動かし、菊は眠そうに目を細めていた。
「今日、冷麦?」
居間の方から三樹の声がした。
「そう」
二葉が答える。
足音が近づく。三樹は台所をのぞき込み、ざるに盛られた冷麦と、揚げたての野菜天ぷらを見た。
そして、真顔で言った。
「肉は?」
「ない」
二葉は即答した。
「え」
「今日は冷麦」
「冷麦に肉、合うだろ」
「合うけど、今日は野菜天ぷら」
三樹は、皿に並んだなすと玉ねぎとかぼちゃの天ぷらをじっと見た。
「……鶏天は?」
「ない」
「豚しゃぶは?」
「ない」
「じゃあ、これ全部食べていい?」
「それも違う」
五樹が、なすを油に落としながら笑った。
「三樹、冷麦の主役はつゆだよ」
「いや、肉だろ」
「冷麦の話してる?」
六樹が画面から目を離さずに言った。
「たんぱく質は豆腐で補える」
「豆腐は肉じゃない」
三樹が即座に返す。
四葉が、みどり豆を一粒噛んだ。
「定義上、そう」
「四葉、そういう時だけ味方すんな」
「味方ではない。分類」
一樹が、少し疲れた顔で居間から入ってきた。
「お前、夕飯の前くらい静かにできないのか」
「腹減ってる時に静かにする理由がない」
「理由はある」
「何?」
「周囲の平和」
「俺の平和は?」
「冷麦食べろ」
「肉なしで?」
「しつこい」
二葉は、そんなやり取りを聞きながら、つゆの味を見た。
煮干しの香り。椎茸の旨味。玉ねぎの甘さ。なすの柔らかい匂い。
祖母の味に、まだ完全には届かない。けれど、少しずつ近づいている気はする。
「……もう少しかな」
二葉が小さく呟くと、五樹が横から鍋を覗き込んだ。
「俺は好きだけど」
「まだ、おばあちゃんの味じゃない」
「二葉の味にはなってるよ」
さらっと言われて、二葉は一瞬だけ手を止めた。
「……そういうこと、普通に言わないの」
「普通に思ったから普通に言っただけ」
「油見て」
「はいはい」
五樹は笑いながら、かぼちゃを油に落とした。
その時だった。
外から、ぴい、と細い音がした。
少し外れた、リコーダーの音。
二葉は、菜箸を持ったまま手を止めた。
また、ぴい、と鳴る。途中でつっかえて、止まる。それから、最初からやり直すように、同じ旋律が流れた。
「……校歌?」
五樹が窓の外を見る。
一樹も気づいたように、耳を澄ませた。
「近所の子か。夏休みの課題じゃないか?」
「懐かしい」
二葉は、小さく笑った。
外の音は、たどたどしい。音程も少し不安定で、途中で止まっては、また続く。
けれど、その旋律を、身体が覚えていた。
二葉は、つゆの鍋を見ながら、自然と口ずさんでいた。
「……茅ヶ岳のふもと……」
四葉の手が止まった。
六樹が、画面から顔を上げる。
リコーダーの音が、また少し外れる。
二葉は、記憶を探るように、ゆっくり続けた。
「……つづく、地蔵原……」
一樹の表情が変わった。
「二葉」
「……竜地の溜井……」
その言葉を口にした瞬間、台所の空気が少しだけ変わった。
揚げ油の音。冷麦の水音。豆と菊の小さな息遣い。外から聞こえる、子どものリコーダー。
その全部の奥に、別の音が重なった気がした。
二葉は、ゆっくり顔を上げる。
「……祖先の業の、楯無の堰」
六樹が、すぐに手元の資料を引き寄せた。
四葉も、みどり豆を置いた。
三樹だけが、天ぷらをつまもうとして、五樹に手首を掴まれる。
「今、それどころじゃない」
「腹減ってるんだけど」
「後で」
「後っていつ」
「土地の記憶が落ち着いたら」
「腹の記憶も大事だろ」
「黙って」
五樹に言われ、三樹は渋々手を引っ込めた。
一樹は、二葉を見ていた。
「校歌にあったな」
「うん」
二葉は頷いた。
「歌ってた」
四葉が資料をめくる。
「楯無堰。竜地の溜井。地蔵原」
六樹が、地図を拡大した。
「全部、繋がる」
外では、近所の子がまた同じところで音を外した。少し間が空いて、また最初から始まる。
その音を聞きながら、二葉は小さく言った。
「意味、知らなかったね」
誰も、すぐには答えなかった。
子どもの頃、何度も歌った。体育館で。校庭で。卒業式で。朝礼で。
その言葉の意味を、考えたことなんてなかった。
ただ、歌っていた。
ただ、覚えていた。
けれど今、その歌詞は、古い資料の文字と重なっている。地図の上の水筋と重なっている。
竜地の溜井。
楯無の堰。
祖先の業。
一樹が、低く言った。
「知らないまま、受け継いでたんだな」
六樹は、資料から目を離さない。
「校歌は、記録だった」
四葉が頷く。
「古文書じゃなくても、残るんだ」
五樹は、窓の外を見た。
「子どものリコーダーで思い出すってのが、またさ」
「森口家っぽいね」
二葉が言うと、五樹は少し笑った。
「うん。すごく」
外から聞こえるリコーダーは、また途中で止まった。少しして、最初からやり直す。
同じ旋律。
同じ言葉。
子どもの頃から、何度も聞いて、何度も歌った音。
それが今、違う意味を持って聞こえている。
「六樹」
一樹が言う。
「今の歌詞、記録できるか」
「する」
六樹は短く答えた。
「校歌の全文も確認する。学校の資料、地域誌、双葉町史、全部見る」
「四葉」
「もう見てる」
四葉は、すでに端末を開いていた。
「地蔵原、竜地の溜井、楯無堰。校歌に入るくらいなら、地域の教育資料にも残ってる可能性がある」
「東小学校の資料も当たる?」
「当たる」
六樹が続けた。
「紙資料の可能性が高い。電子化されてないなら、直接確認」
「つまり」
三樹が真顔で言う。
「明日、どっか行く?」
「お前は今、食べ物の話しか考えてないだろ」
一樹が言うと、三樹は堂々と頷いた。
「うん。けど、行くならまる福堂寄れる」
「寄らない」
「焼きそばパン」
「寄らない」
「コロッケパン」
「寄らない」
二葉が、冷麦を器に盛りながら言った。
「調べるのは明日。今日はご飯」
「よし」
三樹は満足そうに座ろうとした。
「肉ないけどな」
五樹が言うと、三樹は真顔で振り返った。
「それ、今言う?」
「事実確認」
「六樹みたいなこと言うな」
六樹が淡々と返した。
「事実確認は必要」
「ほら増えた」
「三樹」
二葉の声が少し低くなる。
三樹は即座に背筋を伸ばした。
「はい」
その様子を見て、一樹がぼそっと呟く。
「俺より威厳あるの、納得いかない」
「一樹は管理」
四葉が言う。
「二葉は制圧」
「分類するな」
「事実」
六樹が短く付け加えた。
「同意」
一樹は、深く息を吐いた。
「白髪増える」
二葉は、薬味の皿を置いた。
刻んだねぎ。みょうが。しょうが。祖母が漬けたきゅうりの浅漬け。畑の野菜の天ぷら。
食卓に並ぶものは、どれも森口家のいつもの夏だった。
けれど、その日の夕飯は、いつもと少し違っていた。
冷麦をすする音の間に、誰もが少しずつ、校歌のことを考えていた。
近所の子のリコーダーは、まだ続いている。
今度は、最後まで止まらなかった。
少しだけ音は外れていた。けれど、最後まで流れた。
二葉は、その音を聞きながら、つゆの器に視線を落とした。
煮干しの出汁。
椎茸。
玉ねぎ。
なす。
祖母から教わった味。
それも、考えてみれば同じだった。
意味を説明されなくても、身体が覚えているものがある。歌も、味も、道も、水も。
知らなかったわけではない。
ただ、名前を知らなかっただけ。
土地はずっと、森口家の中にあった。
一樹が箸を置いた。
「明日、古文書をもう一度見る」
四葉が頷く。
「校歌の言葉を軸にする」
六樹は、すでにノートに項目を作っていた。
「楯無堰。竜地の溜井。地蔵原。祖先の業。茅ヶ岳。水筋」
五樹が、二葉の器に天ぷらを一つ足した。
「二葉、なす」
「自分で取れる」
「知ってる」
「じゃあなんで入れるの」
「俺が入れたかったから」
「理由になってない」
「なるよ」
二葉は呆れたように見たが、結局そのまま食べた。
三樹がそれを見て、自分の皿を差し出す。
「俺も」
「自分で取れ」
二葉に即答され、三樹は不満そうに天ぷらを取った。
「差がある」
「日頃の行い」
「俺、いい子だろ」
一樹、五樹、四葉、六樹が、同時に黙った。
三樹が眉を寄せる。
「なんか言えよ」
「冷麦食べろ」
一樹が言った。
夏の夕方。
冷麦の白。
煮干しの匂い。
畑の野菜。
少し外れたリコーダーの音。
その中に、土地の声が混じっていた。
大きな声ではない。
誰かに呼ばれるような、はっきりした声でもない。
けれど、確かにあった。
子どもの頃に歌った言葉の中に。
祖母から受け継いだ味の中に。
畑の匂いの中に。
家族が集まる食卓の中に。
森口家は、その声を聞いてしまう。
呼ばれたからではない。
ずっと、そこにあったから。
翌日の夜。
四葉と六樹は、古い地図と資料を広げることになる。
校歌に残っていた言葉を、今度は文字で確かめるために。
楯無の堰。
竜地の溜井。
祖先の業。
それは、子どもの頃から六つ子の中に残っていた、土地の記憶だった。




