第二話「それ、もう人じゃない」
【前書き】
前回は、森口神社の鈴が三度鳴り、六つ子全員に神様からの呼び出しが入りました。
拝殿の奥に現れた異変。
そこには、本来つながらないはずの“流れの先”が開いていました。
拝殿の奥には、床がなかった。
踏み込めば、そのまま落ちる。
そう思った。
けれど、違う。
落ちる、という感覚すら曖昧だった。
奥が、削れている。
床板も、柱の影も、拝殿の奥にあるはずの空間も、まるごと抜け落ちている。
そこにあるのは、穴ではない。
暗闇でもない。
流れだけだった。
水が見えるわけではない。
けれど、確かに何かが流れている。
音もなく。
形もなく。
ただ、そこにあるものを、奥へ、奥へと引いている。
「……また派手にいってるね」
五樹が軽く笑った。
でも、目は笑っていない。
いつもの軽口は残っている。
けれど、足は一歩も前に出ていなかった。
二葉の横に立ったまま、五樹は拝殿の奥を見ている。
四葉が目を細めた。
「拝殿の外……いや、違う」
六樹がiPadを片手に、周囲を確認する。
画面には、森口神社の見取り図が出ていた。
現在地は拝殿。
その奥に続く空間など、本来存在しない。
六樹が静かに言う。
「本来、繋がらない場所に繋がってる」
四葉が頷いた。
「流れの先と、無理やり繋がってる。建物の構造じゃない。土地の記憶側」
三樹が奥を睨む。
「つまり、行けば分かる」
「そういう結論に飛ぶのが早い」
四葉が即座に言った。
三樹は振り返らない。
「人が消えてる」
「だからこそ、手順を崩さない」
一樹が短く言った。
その声で、場が整う。
三樹が前へ。
四葉が退路を見る。
六樹が記録を取る。
五樹が周囲と二葉を見る。
二葉が音を聞く。
一樹が中心に立つ。
いつもの形だ。
一樹は一歩前に出た。
「入るぞ」
誰も返事はしない。
返事の代わりに、全員が動いた。
拝殿の奥へ踏み込む。
瞬間、空気が変わった。
湿っている。
重い。
呼吸をするたびに、肺の内側に冷たい膜が張りつくような感覚がある。
水の底に沈んだみたいだった。
けれど、濡れてはいない。
それが余計に気持ち悪い。
「……臭うな」
三樹が眉を寄せた。
「水じゃない」
二葉が首を振る。
声がいつもより少し低い。
「流れてない」
「止まってる?」
五樹が聞く。
四葉がすぐに答えた。
「止まってるんじゃない」
六樹が続ける。
「詰まってる」
一瞬、静寂が落ちた。
ぴちゃ。
音がした。
足元ではない。
すぐ横。
三樹が、音のした方へ視線を向ける。
「来るぞ」
低い声だった。
奥の縁から、黒が滲み出した。
水のように。
泥のように。
影のように。
それはゆっくり形を取る。
頭。
肩。
腕。
胴体。
人の輪郭。
けれど、人ではなかった。
中身がない。
顔もない。
目もない。
口もない。
ただ、人の形を真似ているだけ。
五樹が小さく息を吐く。
「……これ、人か?」
「違う」
一樹が即答した。
「歪みだ」
六樹が黒を見つめたまま言う。
「流れ損ねたもの。人の形を借りてるだけ」
三樹が眉を寄せた。
「じゃあ、助ける相手じゃないな」
四葉が静かに言った。
「少なくとも、今見えてるこれは違う」
二葉が口を開く。
「中に、声はない」
その言葉で、全員が理解する。
人ではない。
人だったものでもない。
人のふりをしている、溜まりだ。
「それ、もう人じゃない」
五樹が言った。
軽い声ではなかった。
黒が動いた。
速い。
腕のようなものが、三樹に向かって伸びる。
「っ!」
三樹が踏み込んだ。
避けるのではなく、前に出る。
腕の軌道を紙一重で外し、半身でかわす。
黒が通り抜けた場所が、じわりと滲んだ。
床が黒く濡れる。
「触んなよ、それ!」
五樹の声が飛ぶ。
「分かってる!」
三樹は距離を取った。
けれど、退きすぎない。
三樹の役目は、前に立つことだ。
止めること。
誰かが後ろで考える時間を作ること。
その間にも、黒は増えた。
一体。
二体。
三体。
縁の向こうから、滲むように出てくる。
四葉が冷静に言った。
「増えてる」
「溜まってた分が出てきてる」
六樹が続ける。
一樹が問う。
「原因は?」
四葉は即答した。
「ここじゃない」
六樹も頷く。
「ここは下流。溜まった先」
二葉が奥を見る。
「上から来てる」
一瞬、全員の意識が揃った。
流れの上流。
そこに原因がある。
だが、今は目の前だ。
黒が、三樹の横を抜けて二葉の方へ伸びた。
五樹が一歩前に出る。
「二葉、下がって」
「五樹、出すぎない」
「二葉に言われると下がる」
「今は素直でいい」
「いつも素直だよ?」
「嘘」
その会話の間にも、五樹の目は黒の動きを追っている。
軽い。
けれど、見ている。
見逃していない。
「一樹!」
三樹が叫ぶ。
「分かってる」
一樹が一歩前に出た。
手を上げる。
「天照御垣」
声が落ちる。
その瞬間、拝殿の奥に薄い光の線が走った。
四方を囲うように、光が伸びる。
逃げ場を断つように、結界が閉じる。
黒たちの動きが、一瞬鈍った。
「二葉」
「うん」
二葉が前へ出る。
白衣の袖が、湿った空気の中で淡く揺れた。
息を吸う。
「咲耶浄花」
二葉の足元から、淡い光が広がった。
花が開くように。
水面に光が落ちるように。
黒が揺らぐ。
輪郭がほどける。
内側から、細く、細く、糸が解けるように崩れていく。
けれど。
「……効きが浅い」
二葉が言った。
額に薄く汗が浮かんでいる。
五樹がすぐに気づく。
「二葉、無理しないで」
「してない」
「それ、信用度低いやつ」
「今は大丈夫」
「今は、が付いた」
一樹が短く言う。
「五樹、二葉を見るのはいい。黒も見ろ」
「見てる」
「ならいい」
四葉が黒の崩れ方を見る。
「流れがないと、抜けない。浄化でほどけても、流す先が詰まってる」
六樹が記録を取りながら頷く。
「出口がないから、形を崩しても残る」
三樹が言う。
「なら、核を抜く」
「単純」
四葉が言う。
「でも、現状ではそれしかない」
三樹が少しだけ笑った。
「分かりやすくていい」
「分かりやすいことと安全なことは違う」
「知ってる」
「知ってる顔じゃない」
五樹が割って入る。
「はいはい、夫婦漫才してる場合じゃないよ。右、ズレてる」
三樹が即座に反応する。
「どこ」
「右の二体目。動きが遅い。中に何かある」
「そこじゃない」
六樹が静かに言った。
五樹が振り返る。
「え、違う?」
黒を見ていた。
ただ眺めているのではない。
形が崩れる速度。
滲みの濃淡。
二葉の光を受けた時の揺れ。
一樹の結界に押し返された時の戻り方。
その全部を、六樹は目で追っていた。
「右の二体目は反応が遅いだけ。核じゃない」
「じゃあ、どこ」
「奥」
六樹が指さす。
黒の輪郭より、さらに内側。
影が一度ほどけて、また集まろうとする、その中心。
「影の溜まりの中心。全部、そこへ戻ってる」
四葉が目を細める。
「……なるほど。流れの戻り先」
「うん」
六樹は淡々と言った。
「核は、動きが大きい場所じゃなくて、動きが戻る場所にある」
「核が奥に引っ込んでる。表面を叩いても無駄」
一樹が結界を維持したまま言う。
「出せるか」
二葉が頷く。
「一瞬なら」
五樹が二葉を見る。
「一瞬って、二葉に負担かかるやつ?」
「大丈夫」
「ほら出た」
二葉は五樹を見ない。
黒を見ている。
「でも、やる」
五樹は笑った。
軽く。
でも、声は低い。
「じゃあ、ちゃんと戻ってきて」
三樹が前に出る。
結界の一歩手前で止まる。
珍しく、止まった。
四葉が少しだけ目を細める。
「……止まれた」
「聞こえてるぞ」
「事実」
六樹が淡々と補足した。
「三樹の突入抑制、成功」
「記録するな」
「重要」
三樹は黒を睨んだ。
狙うのは、出てくる瞬間。
核だけ。
焦れば、黒に触れる。
遅れれば、また奥へ逃げる。
五樹が言う。
「右、動く」
四葉が続ける。
「二体目が囮。三体目の奥」
六樹が重ねる。
「核、出る。三秒」
一樹が結界を収束させる。
光の線が狭まり、黒の動きを押さえる。
二葉の浄化の光が、一点に重なった。
「今!」
六樹の声。
その瞬間、黒が内側から剥がれた。
濃い点だけが、結界の外へ押し出される。
「来い!」
三樹が手を伸ばした。
空中に押し出された核を掴む。
黒い熱が手のひらを焼くように走る。
けれど、離さない。
ぐっと、引き抜く。
黒が震えた。
人の形が、崩れる。
肩が落ちる。
腕がほどける。
頭のような輪郭が消える。
音もなく、黒がほどけた。
一体目が消える。
続いて、二体目、三体目の輪郭も歪んだ。
二葉が光を広げる。
「咲耶浄花」
今度は、さっきより深く入った。
黒が薄れる。
水に墨が溶けるように。
夜が朝に押し流されるように。
最後の影が、静かに消えた。
静寂。
湿った空気だけが残る。
三樹が息を吐いた。
「……終わりか」
「一時的にね」
四葉が言った。
「また溜まる」
六樹が画面を見たまま続ける。
「上から来てる。ここの黒は、溜まった先に出てきたもの」
一樹が目を細める。
「場所は」
「北」
六樹は迷わず答えた。
「下宿、中宿、上宿のライン。古い水筋と重なる」
二葉が静かに言う。
「流れてきてる」
四葉が頷く。
「止めないと、また同じになる」
一拍。
一樹が言った。
「行くぞ」
三樹が手を握ったり開いたりする。
「次は元からか」
「そうだ」
「なら早い」
「早く行くことと、雑に行くことは違う」
「分かってる」
五樹が横から言う。
「三樹の“分かってる”は今日二回目。信用残高が心配」
三樹は五樹を見る。
「あとで殴る」
「ほら雑」
二葉が三樹の手を見る。
「三樹、手」
「平気」
「見せて」
「平気だって」
「見せて」
三樹は少しだけ黙ったあと、手を出した。
二葉はその手のひらを見る。
黒く滲んだ跡が、薄く残っている。
二葉の顔が曇った。
「触ったでしょ」
「掴んだ」
「それを触ったって言うの」
五樹がすかさず言う。
「二葉、三樹ばっかり心配しないで。俺も精神的に傷ついてる」
四葉が冷たく言った。
「自損」
六樹が続ける。
「二葉不足による自己申告症状」
「六樹、分類しないで?」
一樹が短く言う。
「戻ってから処置する。今は移動準備」
その時だった。
三樹のスマホが震えた。
画面を見る。
さっきの依頼主だった。
三樹の表情が変わる。
「出る」
通話をつなぐ。
「森口です」
電話の向こうで、依頼主の声が震えていた。
『あの……見つかったんです』
三樹の眉が動く。
「どこで」
『家の前に……立ってて……でも』
声がおかしい。
近いのに、遠い。
人がすぐそばにいるのに、そこに届いていないような声。
『でも、なんか……変なんです』
三樹は黙って聞く。
『呼んでも、返事しなくて……服も濡れてて……でも、雨なんて降ってないのに』
二葉が顔を上げた。
五樹がスマホを操作し、すぐに位置情報と通話ログの確認に入る。
六樹はiPadにメモを取り始めた。
四葉が低く言う。
「それ、生還じゃないかもしれない」
三樹が依頼主に聞く。
「その人、最近何か言ってませんでしたか」
『言ってました』
依頼主の声が、さらに震える。
『水の音がするって』
全員が止まった。
『何もないのに、水が流れてるって……ずっと』
沈黙。
三樹がゆっくり言う。
「それ、どこで聞いた」
『家で……ずっと……』
その瞬間、通話にノイズが混じった。
ざ、ざ、と。
水ではない。
でも、水に似ている。
そして、ノイズの奥で。
ぴちゃ。
水の音がした。
受話器越しに。
三樹の表情が変わる。
「……まだいるな」
一樹が短く聞く。
「場所は」
三樹は依頼主に向けて言った。
「今、絶対にその人に触らないでください」
『え?』
「返事をしても、触らない。近づかない。水の音がしたら、家の外に出てください」
『でも、本人が——』
「それ、もう人じゃない可能性がある」
依頼主の息が止まった。
三樹は続ける。
「少なくとも、今すぐ確認するまでは」
五樹が小さく言う。
「三樹、その言い方、怖いって」
三樹は返さない。
声だけを低くして、依頼主に告げる。
「向かいます」
通話を切る。
一瞬、拝殿の奥の黒が、また揺れた気がした。
ここではない。
意識が切り替わる。
六樹が地図を出す。
「依頼主の住所、下宿と中宿の境」
四葉が続ける。
「古い水筋の上」
二葉が静かに言った。
「もう、流れ込んでる」
五樹がスマホを握る。
「地元投稿、また増えてる。水音。濡れた足跡。あと——」
一樹が見る。
五樹の声が少し低くなった。
「“帰ってきた人が、知らない顔をしてる”」
三樹が歩き出す。
「行くぞ」
一樹が頷く。
「次の後始末だ」
拝殿の奥で、水音がした。
遠く、北へ続くように。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
〖後書き〗
黒いものは、人の形をしていても人ではありませんでした。
一樹は結界で場を整え、二葉は浄化で黒をほどき、三樹は前に出て核を抜く。
四葉は状況を読み、五樹は周囲と二葉を見守り、六樹は黒の戻り先を見抜く。
六つ子それぞれの役割で黒を退けましたが、原因は神社ではなく、もっと上流にあると判明します。
簡易地図では、次に向かう下宿・中宿のラインと、古い水筋の関係を整理しています。
次の異変は、「帰ってきた人」に関わるものです。




