第二十三話「ほうとうの湯気」
家に帰れば、台所に湯気が立っている。
一樹は、昔からその匂いを知っていた。
煮干しの出汁。
味噌の香り。
かぼちゃと根菜が煮える、甘くて重い匂い。
森口家の台所は、外の空気と違う。
会議室のように、資料が並ぶわけではない。
誰かが順番に発言するわけでもない。
議題も、結論も、決裁もない。
けれど、そこにはいつも流れがあった。
湯気が立つ。
誰かが手を洗う。
誰かが器を出す。
誰かが箸を並べる。
誰かが勝手に味見をしようとして怒られる。
そうやって、森口家は回ってきた。
一樹がそのことをはっきり思い出したのは、帰り道で祖母のことを考えたからだった。
――今日は、ほうとうを作るよ。
祖母の声が、頭の奥で響いた。
小学生の頃だった。
雨の日で、外に出られなかった。
庭の土は濡れていて、軒下から水が細く落ちていた。
三樹はそれでも外へ行こうとして、二葉に首根っこを掴まれていた。
「三樹、外だめ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとで済まないでしょ」
「済む」
「済んだことない」
二葉が言い切る。
五樹はその横で笑っていた。
二葉の少し後ろ。いつもの位置だった。
「三樹、今日は無理だって。二葉が行かないって言ってる」
「二葉が行かないなら、俺だけ行く」
「それがだめって話」
一樹は、玄関のところで三人を見ていた。
当時から三樹は動きたがりで、二葉は止める側だった。
ただし、二葉も本当は外へ出たい顔をしている。
一樹にはそれも分かっていた。
四葉は座敷で本を広げていた。
雨の日は外へ出ないと、最初から決めている顔だった。
六樹は窓際で、雨粒がどこを伝って落ちるかを見ていた。
時々、何かを小さく呟いている。
「雨樋から落ちる位置がずれてる」
「六樹、今それ見なくていい」
一樹が言うと、六樹は振り返った。
「後で詰まる」
「後で父さんに言う」
「忘れる」
「忘れない」
「一樹は、みんなのこと見てると忘れる」
痛いところを突かれて、一樹は黙った。
その時、台所から祖母が顔を出した。
「みんな、手を洗っておいで」
三樹がぱっと顔を上げる。
「おやつ?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
祖母は笑った。
「今日は、ほうとうを作るよ」
その一言で、三樹の顔が明るくなった。
「食べる係やる!」
「作る係だってば」
二葉が即座に言う。
「食べるのも大事」
「それは最後」
五樹が、二葉の横で三樹を見た。
「三樹、先に手洗い」
「分かってる」
「分かってるって言う時、だいたい分かってない」
「分かってるって」
「ほら、まだ行ってない」
三樹はようやく洗面所へ走っていった。
「走らない!」
二葉が叫ぶ。
一樹はその時点で、すでに少し疲れていた。
台所の大きなテーブルには、新聞紙が広げられていた。
その上に、古い製麺機が置かれている。
緑色の鉄の脚。
黒い歯車。
木の取っ手。
粉をまとった木の台。
小さな頃の一樹には、それが妙に立派な道具に見えた。
祖母が使う時だけ、台所が少しだけ特別な場所になる。
「これ、何」
六樹が製麺機を覗き込んだ。
「麺を伸ばす機械だよ」
祖母が言う。
「手で伸ばさないの」
「手でも伸ばせるけど、今日はこれを使おうね」
六樹は歯車をじっと見た。
「回す力が、ここに伝わって、ローラーが回る」
「六樹、触るなら手を洗ってから」
二葉が言う。
六樹は無言で手を引っ込めた。
「ちゃんと洗った」
「じゃあいい」
二葉は自分も手を拭きながら、祖母の横に立った。
「何すればいい?」
「二葉は、麺がくっつかないように粉を振ってね」
「うん」
「一樹は、こっちを押さえて」
「分かった」
「三樹は、ゆっくり回す係」
「おう!」
祖母は三樹を見た。
「ゆっくりだよ」
「分かってる!」
「ゆっくり」
「分かってるって!」
一樹は、嫌な予感がした。
祖母が寝かせておいた生地を取り出す。
白くて、やわらかくて、けれど手に取ると重そうな塊だった。
小麦粉と水と塩。
それだけに近いものが、手でこねられ、寝かされると、まるで別のものになる。
祖母は生地を平たく整えて、製麺機の口へ入れた。
「じゃあ、三樹」
「いくぞ!」
「ゆっくり」
「分かってる!」
三樹が取っ手を回した。
ぎこ、ぎこ、と歯車が動く。
生地がローラーに吸い込まれて、少しずつ平たく伸びていく。
最初はよかった。
けれど、三樹の手はすぐに速くなった。
「三樹、速い」
二葉が言う。
「出てきた!」
「出てきたじゃなくて、速い」
「おお、麺!」
「三樹!」
祖母が笑いながら手を添えた。
「速すぎると、生地が驚くよ」
「生地って驚くの?」
三樹が本気で聞く。
「驚くよ。急に引っ張られたら、人も生地も嫌でしょう」
三樹は少し考えた。
「俺は平気」
「三樹基準にしない」
二葉が言った。
五樹が、落ちてくる麺をそっと受ける。
「二葉、これどこ置く?」
「こっち。重ならないように」
「了解」
五樹は、二葉に言われた通りに麺を置いていく。
幅は揃っている。
製麺機から出てくる麺は、きちんと同じ幅の帯になっていた。
けれど、長さは少しずつ違う。
端が少しよれたものもあれば、粉をまとって白くなったものもある。
五樹が粉の上に並べると、それはちゃんとほうとうに見えた。
四葉が横から覗いた。
「長さが違う」
「家のほうとうは、それでいいの」
祖母が言う。
「鍋に入れば、みんな同じだよ」
四葉は少し不満そうだったが、何も言わなかった。
六樹は、出てくる麺と歯車を交互に見ていた。
「力を入れすぎると、歪む」
「難しく言うな」
三樹が言う。
「事実」
「麺は食えればいい」
「三樹はそう」
「なんだよ」
二葉が、粉を振りながら言った。
「でも、力を入れすぎるとだめなのは本当だよ。ほら、ここ伸びすぎてる」
「俺のせい?」
「三樹のせい」
「まじか」
三樹は、少しだけ取っ手をゆっくり回した。
一樹は製麺機の台を押さえながら、それを見ていた。
祖母の手。
二葉の指。
五樹が麺を受ける仕草。
三樹の勢い。
四葉の眉間。
六樹の目。
六人とも、同じものを作っているのに、見ている場所が違う。
でも、ひとつの麺になっていく。
祖母は、そんな六人を見ながら言った。
「水も、粉も、力任せじゃだめだよ」
一樹は顔を上げた。
「こねる時も、伸ばす時も、待つ時も、ちゃんと頃合いがある」
祖母の声は、いつも通り柔らかかった。
でも、その言葉だけは妙に耳に残った。
「急がせすぎると、硬くなる。放っておきすぎると、だれる。ちゃんと見て、手を入れて、待つところは待つ」
三樹が首を傾げる。
「ほうとうの話?」
「ほうとうの話」
祖母は笑った。
「でも、ほうとうだけじゃないね」
その時の一樹には、意味がよく分からなかった。
ただ、祖母がそう言うなら、たぶんそうなのだろうと思った。
麺ができると、祖母は大きな鍋を火にかけた。
森口家に昔からある、重い鍋だった。
六人分どころか、家族全員分をまとめて煮込める大きさで、湯気が立つと台所全体が白くなる。
鍋の底では、煮干しの出汁が静かに揺れていた。
「にぼし」
六樹が言う。
「そう。うちのほうとうは煮干し」
祖母が味噌を取り出す。
木の樽からすくった手作り合わせ味噌だった。
市販のものより色が濃く、香りが強い。
「これ、ばあちゃんの味噌?」
二葉が聞く。
「そうだよ。今年のは、少し麦麹が多め」
「こっちは?」
四葉が覗く。
「米麹も入ってる。麦麹と米麹、それからうちの大豆」
「大豆も?」
一樹が聞くと、祖母は頷いた。
「庭で乾かしたでしょう」
その言葉で、一樹は別の記憶を思い出した。
秋の終わり。
森口家の庭に、青いブルーシートが広げられていた。
その上に、大豆の鞘が山のように置かれている。
乾いた鞘は、触るとかさかさと音を立てた。
三樹はすぐにその山へ手を突っ込んだ。
「豆、いっぱい!」
「遊ばない」
二葉が言う。
「遊んでない。取ってる」
「今、投げようとした」
「してない」
「手が投げる形だった」
五樹が横で笑う。
「二葉、三樹の動き読むの早いね」
「読まなくても分かる」
四葉は、大豆の大きさを見て分けていた。
「これ、割れてる」
「それはこっち」
二葉が指示する。
六樹は鞘を割りながら、乾き具合を確かめていた。
「まだ水分が残ってる」
「もう乾いてるだろ」
三樹が言う。
「中が違う」
「豆の気持ち分かるのか」
「状態を見てる」
一樹は、殻と豆を分ける籠を持ちながら、全員の動きを見ていた。
祖母は縁側で笑っていた。
「味噌はね、急いで作るものじゃないよ」
祖母が言った。
「豆を育てて、乾かして、煮て、潰して、麹と混ぜて、樽に仕込む。それから待つ」
「待つの長い?」
三樹が聞く。
「長い」
「じゃあ今日食べられないのか」
「今日の味噌は、前に仕込んだもの」
三樹は真剣に考えた。
「味噌、先に作っとくの大事だな」
「三樹にしては正しい」
四葉が言う。
「してはって何だよ」
祖母は、乾いた大豆を手に乗せた。
「家の味は、今日だけでできるものじゃないんだよ」
一樹は、その言葉も覚えている。
味噌を作る日は、かまどに火が入った。
大きな釜で大豆を茹でる。
湯気が上がる。
豆の甘い匂いが庭の方まで流れてくる。
祖母は茹でた大豆を少し冷まして、古い機械にかけた。
昭和の頃から家にあるという、大豆を潰すための機械だった。
ハンドルを回すと、柔らかくなった大豆が潰れて出てくる。
いつも通り、三樹が回したがった。
「俺、回す」
「今度はゆっくり」
二葉が先に言う。
「分かってる」
五樹が二葉の横で言った。
「三樹の分かってる、信用できないやつ」
「なんでだよ」
六樹は機械を見ていた。
「力を均等にしないと、詰まる」
「六樹、そればっかり」
「事実」
四葉は潰れた大豆を見て、少しだけ眉を寄せた。
「見た目はあまりよくない」
「味噌になると美味しいよ」
祖母が言う。
「見た目じゃ分からないものもあるの」
その時も、一樹は祖母の言葉を聞いていた。
見た目では分からない。
待たないと分からない。
仕込んだ時には、まだ完成ではない。
森口家には、そういうものがたくさんあった。
台所の鍋に、祖母が味噌を溶く。
煮干しの出汁に、味噌の香りが広がる。
かぼちゃ。
里芋。
にんじん。
ごぼう。
ねぎ。
きのこ。
野菜が大きめに切られて、鍋に入っていく。
三樹が横から覗いた。
「肉は?」
「今日は豚肉も少し入れるよ」
「少し?」
「三樹、ほうとうは肉だけ食べるものじゃない」
二葉が言う。
「分かってる」
「分かってない顔」
五樹が笑った。
祖母は、最後に手作りの麺を鍋へ入れた。
太さの違う麺が、味噌の湯気の中へ沈んでいく。
三樹が勢いよく回したせいで伸びすぎた麺も、二葉が粉を振りすぎた麺も、五樹が丁寧に並べた麺も、四葉が幅を気にしていた麺も、六樹が観察していた麺も、全部同じ鍋に入った。
祖母が言った。
「形が違っても、鍋に入れば一緒」
三樹が頷く。
「食えれば一緒」
「そういう意味だけじゃない」
二葉が言う。
「でも、まあ、そういうことでもあるね」
祖母が笑った。
一樹は、湯気の向こうで祖母を見る。
その時はただ、早く食べたいと思っていた。
でも今なら、少し分かる。
形が違う。
太さも違う。
見ている場所も違う。
動き方も、考え方も、まるで違う。
それでも、同じ鍋に入る。
同じ湯気の中で煮込まれる。
同じ食卓に並ぶ。
それが、家なのだと思う。
「一樹」
祖母の声がして、一樹ははっとした。
いつの間にか、記憶の中の自分ではなく、今の自分に戻っていた。
森口家の台所には、本当に湯気が立っていた。
帰ってきた一樹たちを迎えたのは、煮干しの出汁と味噌の匂いだった。
大きな鍋が火にかかり、湯気が白く上がっている。
「おかえり」
祖母が言った。
「ばあちゃん」
一樹は少しだけ驚いた。
「ほうとう?」
「そうだよ」
祖母は当たり前のように頷く。
「一樹、今日は疲れた顔をしているからね」
その一言で、一樹は何も言えなくなった。
祖父が、少しだけ得意げに言う。
「葉月は何でも分かる」
「樹蔵さんは、お豆腐を買ってきた?」
祖母が尋ねる。
祖父は黙って袋を差し出した。
「よろしい」
父は信玄餅の袋を持っていた。
母が奥から顔を出す。
「買ってきた?」
「買ってきました」
父の声は、会議室でのものよりずっと弱い。
母は満足そうに頷いた。
「よろしい」
一樹はそれを見て、今日何度目か分からないため息をついた。
やっぱり森口家は女性が強い。
台所には、すでに六つ子がいた。
三樹は鍋の前で待機している。
「もう食える?」
「まだ」
二葉が言う。
「さっきも聞いた」
「だって匂いがする」
「匂いはするもの」
五樹は二葉の横で器を出していた。
「二葉、これ人数分?」
「じいちゃんたちの分も出して」
「了解」
四葉はテーブルの端で牛乳プリンを確保していた。
「これは私の」
「食後な」
一樹が言う。
「分かってる」
その言い方は、あまり分かっていなさそうだった。
六樹は鍋を見ながら、ぽつりと言った。
「味噌の香りが前と違う」
祖母が振り返る。
「分かる?」
「少し麦麹が強い」
祖母は嬉しそうに笑った。
「さすが六樹」
六樹は少しだけ視線を逸らした。
五樹が小さく笑う。
「六樹、褒められてる」
「うるさい」
「照れてる」
「違う」
二葉が器を並べながら、一樹を見る。
「疲れた?」
「まあまあ」
「顔に出てる」
「出てる?」
「出てる」
五樹が横から言う。
「一樹、今日は信玄堤と森口家の流儀を浴びてきた顔してる」
「お前、なんで分かるんだよ」
「空気」
「怖いな」
「褒め言葉として受け取る」
三樹が鍋を覗き込む。
「信玄って、ほうとう作った人だろ?」
一樹がぴくりと反応した。
「作った、というより、陣中食にしたって言われてる」
「あ、始まった」
四葉が言った。
一樹は構わず続ける。
「小麦粉を練って、野菜と一緒に煮込む。腹にたまる。体が温まる。大勢に食わせられる。戦の時にも理にかなってる」
「一樹」
二葉が言う。
「何」
「顔が本気」
「本気だよ」
一樹は鍋を見た。
湯気が上がる。
味噌の香りがする。
家族が集まっている。
「人を動かすには、まず食わせないといけない」
一樹は言った。
「土地を守るにも、家を守るにも、腹が減ってたら話にならない」
三樹が力強く頷いた。
「それはそう」
「三樹は黙って」
二葉が言う。
一樹は、湯気の向こうを見る。
信玄堤。
水を押さえ込まず、流れを分ける考え方。
人が生きるために、道を作る思想。
そして、ほうとう。
粉を練り、待ち、伸ばし、切り、煮る。
家族全員分を、大きな鍋で作る。
どちらも、人を残すためのものだ。
「武田信玄って」
一樹は、ぽつりと言った。
「神だよなぁ」
台所が静かになった。
二葉がゆっくり一樹を見る。
「一樹」
「何」
「神って言うなって、いつも言ってるの誰?」
五樹が即座に乗る。
「これは重大発言だね」
四葉も頷く。
「記録対象」
六樹が静かに言った。
「音声記録はしてない」
「するな」
一樹が言う。
三樹は真剣な顔で聞いた。
「信玄って神なのか?」
「信玄公は別」
一樹は真顔で答えた。
「別なんだ」
五樹が笑う。
「一樹の中で例外処理入った」
六樹が小さく言う。
「条件分岐が雑」
「うるさい」
二葉は呆れたように息を吐いた。
「でも、まあ」
「何」
「一樹がそう言いたくなるのは、ちょっと分かる」
一樹は二葉を見た。
二葉は鍋の湯気を見ていた。
「ちゃんと食べさせるって、大事だから」
その言葉に、一樹は少しだけ黙った。
二葉は、いつもそういうところを見ている。
誰が疲れているか。
誰が食べていないか。
誰が無理をしているか。
そして、何も言わずに器を出す。
五樹が二葉の横で、自然に箸を並べている。
三樹は食べる準備だけは誰より早い。
四葉は牛乳プリンを守りながら席につく。
六樹は湯気の温度を見ている。
祖母は鍋の前に立ち、母は足りない皿を出し、父は信玄餅を安全な場所に置き、祖父は豆腐を冷蔵庫に入れている。
一樹は、その光景を見た。
会議室で見た流儀。
水を止めず、流れを読むこと。
人を無理に動かさず、道を作ること。
そして、台所にある流儀。
食べさせること。
待つこと。
仕込むこと。
家に帰った者を、湯気で迎えること。
どちらも、森口家だった。
「一樹」
祖母が呼ぶ。
「座りなさい。ほうとう、できたよ」
器によそわれたほうとうは、熱そうだった。
太い麺。
かぼちゃ。
根菜。
味噌の湯気。
三樹が手を合わせる。
「いただきます!」
「まだ全員座ってない」
二葉が言う。
「座った!」
「じいちゃんがまだ」
「樹蔵さん、早く」
祖母が言うと、祖父は素直に席についた。
五樹が小さく笑う。
「森口家の流儀だね」
一樹は、箸を持ちながら言った。
「流れに逆らわないことか」
父が頷く。
「特に女性陣には」
母が父を見る。
「何か言った?」
「何も」
一樹は笑った。
そして、ほうとうを口に運ぶ。
熱い。
味噌が濃い。
煮干しの出汁が奥にある。
麺は少し不揃いで、野菜は大きい。
それが、森口家の味だった。
一樹は、湯気の向こうで祖母を見る。
小学生の頃と同じように、祖母は鍋のそばにいた。
少し年を取って、手の皺も増えた。
けれど、その手は今も家の味を作っている。
「ばあちゃん」
「何?」
「うまい」
祖母は笑った。
「よかった」
三樹が大きく頷く。
「肉もっと入れてもいい」
「三樹」
二葉が睨む。
「いや、うまいから」
「褒め方が雑」
五樹が笑い、四葉が静かに食べ、六樹が味噌の違いをまだ考えている。
一樹は、もう一口食べた。
森口家が受け継いできたものは、重い。
水の記憶も、黒の流れも、これからもっと深くなる。
けれど、その重さを支えているのは、きっとこういう湯気なのだ。
家に帰れば、飯がある。
誰かが待っている。
誰かが食べろと言う。
誰かが勝手に肉を増やそうとする。
その全部があるから、外で立てる。
一樹は、器を持つ手に少し力を入れた。
森口家の流儀は、会議室にもある。
水の前にもある。
けれど、台所にもある。
煮干しの出汁と、手作り味噌と、不揃いなほうとう麺の湯気の中に。
確かに、そこにあった。




