第二十二話「森口家の流儀」
会議室の空気は、家とは違っていた。
畳の匂いも、古い木の匂いもない。
あるのは、長机。資料。水の入った紙コップ。地域の役員たちの声。
一樹は、祖父と父の少し後ろに座っていた。
森口神社の先代当主、森口樹蔵。
現当主、森口樹臣。
そして、次期神主として同席している自分。
親子三代で会議に出るのは、初めてではない。
けれど、今日の議題は軽くなかった。
信玄堤。
古い水筋。
堰。
大溜井。
地域に残る水の記憶。
そして、最近続いている小さな異変。
もちろん、会議の場で黒の話はしない。
神様の後始末。
水守家。
声を借りる水。
身曾岐の面。
そんな話を、そのまま出せるわけがない。
だから表向きの議題は、地域の水路と史跡確認、祭事との連携だった。
それでも、一樹には分かる。
この会議は、ただの地域確認ではない。
水が動いている。
人も動いている。
そして、土地の記憶も動き始めている。
「古い水路を全部掘り返すわけにはいきません」
地域の役員の一人が言った。
「ですが、記録だけでは足りない部分もあるでしょう」
別の人が続ける。
「信玄堤の周辺も、観光として見る方は多い。けれど、地元の水の考え方として、きちんと残しておく必要があります」
一樹は資料に目を落とした。
水を押さえ込むのではない。
流れを分ける。
受ける場所を作る。
勢いを逃がす。
信玄堤の考え方は、これまで森口家が見てきた黒の動きと、どこか似ていた。
暴れるものを正面から潰すだけでは足りない。
流れを作らなければ、別の場所で詰まる。
一樹は、無意識に資料の端を押さえた。
その時、祖父が口を開いた。
「水は、止めれば済むものではありません」
声は低かった。
大きな声ではない。
けれど、その一言で、会議室の空気が変わった。
一樹は、横目で祖父を見る。
家にいる祖父とは違う。
縁側で将棋を指し、甘納豆赤飯を食べながら笑う祖父ではない。
三樹に失礼なことを言われても、平然と受け流す祖父でもない。
そこにいるのは、森口神社の先代だった。
この土地で長く神事を担い、人の話を聞き、雨の日も祭りの日も、土地の前に立ってきた人。
声を荒げない。
けれど、場が勝手に背筋を伸ばす。
「水は、道を欲しがります」
樹蔵は続けた。
「道をなくせば、別のところへ出る。受け皿をなくせば、行き場を探す。人も同じです」
会議室が静かになる。
一樹は息を止めた。
じいちゃんは、やっぱりすごい。
そう思った。
普段は、家族の中で妙に自由な老人に見える。
だが、外に出ると違う。
言葉が重い。
立ってきた時間が違う。
一樹は、自分がまだ祖父の後ろに座っているのだと、改めて思った。
「ただ」
次に口を開いたのは、父だった。
森口樹臣。
一樹の父は、祖父ほど重い声ではない。
どちらかといえば穏やかで、家では母に信玄餅を隠されて情けない顔をすることもある。
けれど、会議の場での父は違った。
「すべてを一度に動かすと、地域の負担が大きくなります」
父は資料を指で押さえながら言う。
「まずは記録の整理から始めましょう。古い水路、堰、溜井に関する資料を神社側でも確認します。現地確認は、危険度と所有関係を確認したうえで段階的に」
強く押さない。
けれど、流されない。
相手の不安を受け止めながら、話を現実へ戻していく。
「祭事との接続についても、急に大きく変える必要はありません。今ある行事の意味を、少しずつ伝え直す形がいいでしょう」
一樹は、父を見た。
父さんも、すごいな。
祖父は場を黙らせる。
父は場をほどく。
祖父が水の前に立つ人なら、父は水の流れを荒らさない人だ。
一樹は、自分の手元の資料を見た。
では、自分はどうする。
祖父のような重さは、まだない。
父のような調整力も、まだ足りない。
次期神主。
そう呼ばれることはある。
六つ子の中では、まとめ役として動いているつもりもある。
けれど、この場に座ると、その言葉の重さがまるで違った。
「一樹」
父に呼ばれて、一樹は顔を上げた。
「若い世代の目で、現地確認の方法をまとめておいてくれるか」
一瞬、会議室の視線がこちらへ向いた。
一樹は背筋を伸ばす。
「はい」
声が少し硬い。
だが、逃げるわけにはいかない。
「現地確認は、安全と記録を優先します。水路跡や堰の確認は、地図と古い資料を照合したうえで、立ち入り可能な場所から進めます」
言いながら、一樹の頭には六つ子の顔が浮かんでいた。
四葉なら、古い意匠や文献から関係を見る。
六樹なら、地図を重ねて記録する。
三樹なら、現場の違和感を拾う。
五樹なら、人の空気を読む。
二葉なら、前に出すぎる。
最後の一つで、少しだけ頭が痛くなった。
「危険がある場所には、単独では入りません」
一樹は続けた。
「必ず複数で確認します。特に水場、古い溜井、足場の悪い場所については、先に地域の方に確認を取ります」
樹蔵が、わずかに目を細めた。
父も、小さく頷く。
一樹は息を吐きそうになって、止めた。
会議はその後も続いた。
古い資料の所在。
地域の人への聞き取り。
祭事の意味。
観光としての案内。
史跡として残すものと、無理に触れないもの。
話は複雑だった。
けれど、一樹は不思議と逃げたいとは思わなかった。
重い。
でも、嫌ではない。
これが、森口家がずっとやってきたことなのだ。
土地の前に立つ。
人の話を聞く。
流れを読む。
触れていいものと、触れてはいけないものを見分ける。
それが、森口家の流儀。
水を無理に止めない。
人を無理に動かさない。
けれど、詰まりそうな場所には先に道を作る。
一樹は、資料の端に小さく書き込んだ。
――流れを読む。
会議が終わる頃、一樹は少しだけ疲れていた。
外へ出ると、夕方の風が吹いていた。
父が隣に立つ。
「緊張したか」
「した」
一樹は素直に答えた。
父は笑った。
「最初はそんなものだ」
「父さんも?」
「もちろん」
「じいちゃんも?」
後ろから樹蔵が答えた。
「わしは緊張などせん」
父が即座に言う。
「嘘です。昔、初めて地域の総代会に出た時、帰ってから三時間黙っていました」
樹蔵が父を見る。
「余計なことを言うな」
一樹は思わず笑いそうになった。
じいちゃんにも、そういう時があったのか。
「一樹」
樹蔵が言う。
「はい」
「よく見ておけ。水も、人も、流れを間違えると戻すのが難しい」
「……はい」
「だが、怖がって見ないのはもっと悪い」
一樹は頷いた。
怖くても見る。
流れを読む。
決める。
それが、次期神主としての役目なのだろう。
その時、父のスマホが鳴った。
画面を見た父の表情が、少しだけ変わる。
「母さんだ」
一樹も、自分のスマホを見た。
二葉からメッセージが来ている。
夕飯いる?
三樹が肉希望。
四葉は牛乳プリン買ってきてほしいって。
六樹は紅茶切らしたって言ってる。
五樹は私の横で全部聞いてる。
一樹は一瞬、会議の重さを忘れた。
父の方では、母から電話が入っているらしい。
「はい。今終わりました。……え? 信玄餅? いや、買って帰るとは言ってないけど」
父の声が少し弱くなる。
「分かりました。買って帰ります」
一樹は父を見た。
「母さん?」
父は真顔で言った。
「森口家の平和のためだ」
その横で、樹蔵も自分の携帯を見ていた。
表示されているのは祖母からのメッセージだった。
樹蔵さん、帰りにお豆腐をお願いね。
あと、一樹をあまり緊張させすぎないこと。
樹蔵は黙って携帯を閉じた。
一樹は見てはいけないものを見た気がした。
「じいちゃん」
「何だ」
「ばあちゃん?」
「……豆腐を買う」
父が小さく笑った。
一樹は空を見た。
さっきまで、祖父と父の背中を見ていた。
やっぱり森口家の男三代はすごいと思った。
土地の前に立つ祖父。
人の流れをほどく父。
次へつなぐ自分。
そういう重さを、確かに感じていた。
けれど。
帰れば、祖母がいる。
母がいる。
二葉がいる。
祖母は、柔らかい声で祖父を動かす。
母は、当然のように父へ現実的な用事を渡す。
二葉は、六つ子の夕飯を仕切りながら、三樹の肉と四葉の牛乳プリンと六樹の紅茶と五樹の距離感までまとめている。
一樹は、小さく呟いた。
「……やっぱり、森口家は女が強い」
父が聞き逃さなかった。
「気づいたか」
一樹は父を見る。
「父さんも思ってたの?」
「思っている」
即答だった。
樹蔵が低く言う。
「森口家の男は、外で立つ」
一樹は祖父を見る。
樹蔵は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「だが、家の芯を通しているのは、女たちだ」
その言葉に、一樹は黙った。
祖母。
母。
二葉。
怒りを筋に変える祖母。
家を現実で回す母。
六つ子の総大将である二葉。
確かに、そうだと思った。
「俺の威厳」
一樹は小さく呟いた。
父が肩を叩く。
「諦めろ」
「父さん」
「私も通った道だ」
樹蔵が頷く。
「わしもだ」
一樹は目を閉じた。
男三代、そこは一致するのか。
「……これも森口家の流儀か」
一樹が呟く。
父が少し笑った。
「そうかもしれないな」
樹蔵は杖をつきながら言った。
「流れに逆らわんことだ」
「女性陣に?」
「森口家では特にな」
「じいちゃんまで」
一樹は額を押さえた。
会議で感じた重さとは別の疲れが、じわじわと肩に乗る。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
土地。
水。
神事。
人の声。
家の記憶。
森口家が引き継いできたものは重い。
だが、それを支えているのは、外で語られる名前や役目だけではない。
家に帰れば、誰かが飯を作っている。
誰かが茶を淹れる。
誰かが足りないものをメッセージで送ってくる。
誰かが「疲れてるなら食べなよ」と言う。
誰かが横に立ち、誰かが記録し、誰かが勝手に肉を増やそうとする。
その全部があるから、外で立てる。
森口家の流儀とは、たぶんそういうものだ。
流れを読む。
詰まりそうなら逃がす。
危ない時は止める。
背負いすぎる前に、誰かへ渡す。
そして、帰る場所をなくさない。
一樹は小さく息を吐いた。
「帰るか」
父が頷く。
「帰ろう」
樹蔵が杖をつく。
「葉月が待っとる」
その声が、少しだけ柔らかかった。
一樹は苦笑した。
やっぱり、森口家は女性が強い。
そして、男たちはそれを知っている。
それでも、森口家は回っている。
いや。
きっと、それが森口家の流儀なのだ。
帰り道の途中、五樹からメッセージが来た。
一樹、森口家の流儀、学んできた?
一樹は眉を寄せた。
なぜ分かる。
続けて、二葉からも来た。
五樹が変なこと言ってるけど、気にしないで。
夕飯、温めておくね。
一樹はしばらく画面を見ていた。
それから、短く返信する。
帰る。
肉は三樹に全部食わせるな。
すぐに既読がついた。
二葉から返ってくる。
分かってる。
その隣に、五樹から別のメッセージ。
二葉の分かってるは信用できるやつ。
一樹は小さく笑った。
「本当に、あいつらは」
父が横から聞く。
「六つ子か」
「うん」
「大変か」
一樹は少し考えた。
大変だ。
三樹はすぐ走る。
二葉は前に出る。
五樹は二葉の横から動かない。
四葉は独自世界へ行く。
六樹は記録しすぎる。
でも。
「大変だけど」
一樹はスマホをしまった。
「まあ、悪くない」
樹蔵が前を歩きながら、低く笑った。
「それも森口家の流儀だ」
夕方の道を、三代の足音が並んで進む。
水の話は、まだ終わらない。
土地の記憶も、黒の流れも、これからもっと深くなる。
けれど、今は帰る。
森口家へ。
流れを読み、背負いすぎず、帰る場所を失わない。
その流儀は、会議室の資料や、地域の記録の中にだけあるものではない。
家に帰れば、きっと台所に湯気が立っている。
煮干しの出汁が香り、味噌の匂いが家の奥から流れてくる。
その湯気の向こうに、祖母の背中がある。
一樹は、ふと幼い頃のことを思い出していた。
粉まみれの手。
古い製麺機。
庭に広げられた青いシート。
乾いていく大豆。
そして、祖母の声。
――今日は、ほうとうを作るよ。
森口家の流儀は、きっとそこにもあった。




