第二十一話「信玄堤」
朝の道は、静かだった。
「信玄堤へ行く前に、流れを見ておきたい」
実家を出てすぐ、四葉がそう言った。
六樹は頷くだけだった。
「どうせなら、上から追う」
RAV4は、そのまま北へ向かった。
七里ヶ岩の東側を走っていく。
左手には、黒く切り立った岩肌。
その下を、塩川が流れていた。
窓の外には、広い河原。
夏の白い光。
まだ少し霞の残る山並み。
助手席で、四葉がiPadを見ている。
膝の上には古い資料。
そして、みどり豆。
ぽり。
小さな音。
六樹は運転しながら言った。
「昨日の黒、流れ方が変だった」
「うん」
四葉は頷く。
「逃げる方向が、水に近かった」
「提灯の下じゃなくて、影を伝ってた」
「光じゃなくて、影」
「明るい場所を避けて、暗い流れを選んでた」
ぽり。
「流れる場所を探してた感じ」
六樹は少しだけ目を細めた。
「詰まってない場所を」
後部座席では、豆が丸くなっていた。
菊は窓の外を見ている。
車内には、四葉が作ったプレイリスト「銀魂OP&ED」が小さく流れていた。
FaceTimeの着信音。
四葉が、手元のiPadへ視線を落とした。
「一樹」
画面を軽くタップする。
『出た』
すぐに声が返った。
背景には森口神社の社務所。
『そっちどう?』
六樹は前を見たまま答える。
「塩川沿い入った」
『早いな』
「道空いてる」
四葉がiPadを少し持ち上げる。
「この辺、流れ変わってる」
『どの時代?』
「昭和前後」
ぽり。
『みどり豆食うなとは言わないんだな』
「調査のお供」
『絶対違う』
その後ろから、二葉の声がした。
『豆と菊はどう?』
六樹の声が、少しだけ柔らかくなる。
「元気」
『水飲んでる?』
「飲んでる」
『暑くない?』
「温度管理してる」
『なら安心』
その横から、別の声。
『なあ』
三樹だった。
『いつ帰ってくる?』
「なに」
『俺の夕飯の時間に響く?』
四葉が吹き出しかける。
『三樹には補給用の焼きそばパンあるから』
二葉が即答した。
『マジ!?』
急に声が明るくなる。
その少し後ろ。
五樹が画面端に入った。
声は出さない。
ただ、
『調査よろ』
『こっちはまかせろ』
そう口だけ動かした。
六樹は小さく頷く。
「了解」
通話が切れる。
車内に静けさが戻った。
四葉が窓の外を見る。
「平和」
「いつもの」
RAV4は、川沿いの道を進んでいく。
塩川。
七里ヶ岩。
実家から信玄堤へ向かうだけなら、この道は通らない。
けれど、今日は違う。
信玄堤を見る前に、
水がどこから来て、どこで暴れ、どこへ逃がされたのかを見ておきたかった。
塩川の流れを追い、釜無川へ近づく。
そして、その釜無川へ山から一気に流れ込む御勅使川へ。
四葉と六樹は、水の道を辿っていた。
山から来た水は、まっすぐ流れない。
削り、
運び、
溢れ、
土を変え、
何度も道を変える。
四葉が、小さく言った。
「……七里ヶ岩も、水で削られたんだよね」
「塩川と釜無川」
「時間かかっただろうなぁ」
ぽり。
「気が遠くなる」
六樹は少しだけ頷いた。
「土地は、人間より長い」
河原が広い。
異様なくらい広い。
普通の川ではない。
暴れた時のための余白。
四葉は、古地図を拡大した。
「ここ、昔の流れ違う」
「どこ」
「この辺。今より東」
「……ほんとだ」
「集落も少し移動してる」
六樹は前を見たまま言った。
「川が動いた」
「うん」
ぽり。
「だから、人も動いた」
やがて、景色が少しずつ変わる。
川幅。
土の色。
風の匂い。
水の量。
全部が変わっていく。
塩川の流れは、暮らしに近い。
けれど、釜無川へ近づくにつれて、空気が変わる。
広い。
大きい。
人間より、水の方が強い場所。
さらにその先。
御勅使川。
山から一気に流れ下る暴れ川。
六樹が小さく言った。
「ここからだ」
「うん」
四葉も頷く。
「“止める”じゃなくなるの」
RAV4は、信玄堤近くへ入った。
風が強い。
川の音が、低く響いている。
車を降りた瞬間、
空気が変わった。
広い。
視界が開ける。
釜無川。
御勅使川。
山。
石。
風。
全部が大きい。
豆が先に歩き出す。
菊は、六樹の足元を一度回ってから、その後を追った。
四葉は堤を見上げた。
「思ったより大きい」
「御勅使川と釜無川が暴れたから」
六樹はタブレットを開く。
古い流路図。
現在の河川図。
航空写真。
全部が並ぶ。
「真正面に壁作ってない」
「うん」
「勝てないから」
風が吹いた。
川の匂いがする。
四葉は、堤の形を見る。
まっすぐではない。
逃がす。
逸らす。
散らす。
受ける。
何重にも分ける。
「止める気、ないんだ」
ぽり。
「これ、“防ぐ”ための形じゃない」
六樹が答える。
「流すための形」
二人は堤を歩いた。
石積。
木。
曲がった形。
全部に意味がある。
四葉が小さく呟く。
「水と喧嘩してない」
「付き合ってる」
「勝とうとしてない」
「壊れない方を選んでる」
風が草を揺らす。
遠くで、水鳥が鳴いた。
四葉は資料を見ながら言う。
「御勅使川って、“暴れ川”って呼ばれてたんだ」
「知ってる」
「扇状地、土砂、氾濫」
「全部まとめて来る」
「怖いね」
「怖い」
六樹は淡々と言った。
「だから人は、川を倒そうとしなかった」
四葉が少しだけ目を細める。
「倒せないから?」
「違う」
六樹は堤を見た。
「土地だから」
風が吹く。
川の音が続いている。
「……ああ」
四葉は少しだけ笑った。
「森口家と一緒だ」
黒を倒す。
消す。
封じる。
そういう話ではない。
流れを戻す。
詰まりを減らす。
境を整える。
止まったものに、道を作る。
四葉が、小さく呟く。
「人が作った水の道、か」
六樹が頷いた。
「信玄堤も、楯無堰も同じ」
「土地と喧嘩してない」
「付き合ってる」
豆が、小さく吠えた。
二人が顔を上げる。
風が変わっていた。
川の方から、冷たい空気が流れてくる。
菊が、七里ヶ岩の方を見る。
水に削られた古い崖の、その向こうを。
六樹の目が細くなる。
「……いる」
四葉も気づいた。
空気の奥。
流れの底。
黒。
まだ薄い。
けれど、確かにいる。
川の音に混じって、
何かが流れている。
流れているのに、
どこかだけ淀んでいる。
四葉は、みどり豆を一粒だけ口へ放り込んだ。
ぽり。
「ほんと、どこにでもいるね」
六樹は静かに言う。
「水が流れる場所には、溜まるものもある」
豆と菊が、低く唸った。
その時。
六樹のiPhoneが震える。
一樹からだった。
『そっち、気づいたか』
六樹は短く答える。
「うん」
『流れ、来てる』
四葉が空を見た。
雲が動いている。
山の向こうから、
重い空気が近づいていた。
一樹の声が低くなる。
『四葉。六樹』
「なに」
『信玄堤、なんで“分けた”と思う』
四葉は少しだけ考えた。
そして、小さく答える。
「……全部を一つで受けると、壊れるから」
『そうだ』
通話の向こうで、一樹が息を吐く。
『森口家も同じだ』
六樹は、静かに川を見る。
塩川。
釜無川。
御勅使川。
山から来た水は、止まらない。
だから、人は道を作った。
流れるように。
壊れないように。
生き残るために。
風が吹く。
遠く、七里ヶ岩の方角に、雲の影が落ちていた。
川は、その下で変わらず流れている。
六樹は、静かに言った。
「……流れ、もう始まってる」
四葉は、みどり豆を一粒噛んだ。
ぽり。
「うん」
止まったものが、動き始めている。
水も。
土地も。
人も。
信玄堤で見たものは、ただの史跡ではなかった。
森口家が、これから向き合うものの形だった。
そして翌日。
一樹は、祖父と父の後ろを歩いていた。




