第十九話「ふるさとの一夜」
夏の夜は、昼の熱をまだ少し残していた。
空は完全には暗くなっていない。
西の端に、夕方の名残が薄く残っている。
その下で、双葉東小学校の校庭には灯りが並びはじめていた。
提灯。
テント。
人の声。
子どもの笑い声。
焼きそばの匂い。
かき氷の旗。
どこかで鳴る太鼓の音。
校庭の隣には、竜地の大溜井がある。
昼に見ると、そこはただ静かな水の場所に見える。
けれど夜になると、違った。
水面は暗く沈み、灯りを少しだけ映す。
人の声が近くにあるのに、水の方だけは妙に静かだった。
一樹は、校庭の端で足を止めた。
「……久しぶりだな」
二葉が隣で頷く。
「ふるさとの一夜、来るの久しぶり」
「小学生の頃は毎年来てたよな」
「うん」
三樹が後ろから顔を出した。
「俺、焼きそば食う」
「まだ始まったばかりでしょ」
二葉が即座に言う。
「始まったなら食えるだろ」
「そういう問題じゃない」
五樹が笑った。
「三樹、祭りの目的が完全に食べ物」
「祭りって食べ物だろ」
四葉が淡々と言う。
「祈願祭」
「分かってるって」
六樹がiPadを抱えたまま校庭を見る。
「人、多い」
「六樹、大丈夫?」
二葉が聞く。
六樹は少しだけ頷いた。
「大丈夫。豆と菊がいないから少し寂しい」
五樹が笑う。
「そこ?」
「おいぬ様の祈願祭に連れてきたかった」
「ここ、弁財天さまだからね」
二葉が言う。
「でも水の場所。豆と菊も来る意味はある」
六樹は真顔だった。
一樹はため息をついた。
「今日は下見じゃない。祭りを見るだけだ」
「見るだけで済むと思ってる?」
五樹が軽く言う。
一樹は五樹を見た。
「言うな」
「ごめん」
二葉は校庭の灯りを見ていた。
その顔は、少しだけ懐かしそうだった。
「昔、ここで金魚すくいしたよね」
三樹が首を傾げる。
「俺、何すくったっけ」
「スーパーボール」
「ああ、食えないやつ」
「食べる前提で考えないで」
五樹が二葉の横に並んだ。
「二葉、昔ここで綿菓子落としたよね」
二葉が顔をしかめる。
「覚えてなくていいこと覚えてる」
「泣かなかった」
「泣くほどじゃなかったから」
「本当はちょっと悲しかったでしょ」
「五樹」
「はい」
五樹は笑って引いた。
けれど、その目は二葉を見ていた。
二葉が大溜井の方へ視線を向けた瞬間を、見逃していなかった。
一樹も同じ方向を見る。
大溜井。
この前、古い水の道の途中で聞いた、水の音。
待っている音。
水が来るのを待っていた場所。
受け取るはずだったものを、受け取れなかった場所。
けれど今、そのすぐ隣には人がいる。
笑い声がある。
祭りの灯りがある。
弁財天に手を合わせる人がいる。
祖母の言葉がよみがえる。
大溜井は、怖い場所としてだけ残っているわけじゃない。
水を待った場所でもあり、水に感謝する場所でもある。
一樹は小さく息を吐いた。
「怖いだけじゃない、か」
四葉が隣に来た。
「今の大溜井も、見ないといけない」
一樹は四葉を見る。
「今の?」
「うん。昔の水。待っていた音。黒の気配。それだけじゃない」
四葉は校庭の灯りを見た。
「今も人が集まって、手を合わせて、子どもが灯りを見る場所」
一樹は、大溜井の暗い水面を見た。
「……それも、土地の記憶か」
「うん」
六樹が地図を開く。
「現在地。双葉東小学校。隣接、竜地大溜井。弁財天祈願祭に併せて行われる地域行事」
三樹が言う。
「六樹、祭りでも記録すんの?」
「する」
「楽しむ気ある?」
「記録も楽しみ」
「六樹らしいな」
三樹はそう言って、屋台の方を見た。
「で、焼きそば」
「まず弁財天さまに手を合わせる」
二葉が言った。
三樹は一瞬黙った。
「……焼きそばの前?」
「前」
「分かった」
意外にも、三樹は素直に頷いた。
六人は校庭の灯りを抜け、大溜井の方へ向かった。
水辺に近づくにつれて、祭りの音が少し遠くなる。
人の声はある。
けれど、水面の近くには、別の静けさがあった。
弁財天を祀る場所には、すでに何人かの地域の人が手を合わせていた。
年配の人。
小さな子どもを連れた親。
自治会らしい人。
学校関係者らしい人。
みんな、特別な顔をしているわけではない。
日常の延長のように、そこに立ち、手を合わせている。
一樹は、その光景を見て少し黙った。
四葉が小さく言う。
「祈りが、生活に混ざってる」
六樹が頷く。
「年中行事。地域記憶」
三樹が真面目な顔で水辺を見た。
「ここ、昼より静かだな」
五樹が三樹を見る。
「匂いは?」
「水の匂いはある。でも、この前の音とは違う」
「違う?」
「今日は、待ってる感じが薄い」
三樹は少し考えた。
「人がいるからかも」
二葉が水面を見る。
「手を合わせてもらってるから?」
三樹は頷いた。
「たぶん」
六樹が記録しようとして、少しだけ手を止めた。
それから、短く入力する。
――祈りがある時、水音は遠い。
一樹はそれを横目で見た。
「六樹」
「なに」
「今の、重要か」
「重要」
「だろうな」
一樹は水辺の前で手を合わせた。
六人も並ぶ。
三樹も、珍しく何も言わなかった。
五樹は二葉の横で静かに手を合わせている。
四葉は目を閉じている。
六樹は少しぎこちないが、ちゃんと頭を下げていた。
二葉は、いつもより長く手を合わせていた。
一樹は目を閉じる。
水を待った場所。
水に感謝する場所。
人が祈りを置いてきた場所。
怖い記憶もある。
事故の記憶もある。
黒の気配もある。
それでも、今ここにあるのは、それだけではない。
人が集まり、灯りをともす。
子どもが笑う。
誰かが手を合わせる。
それもまた、土地の記憶だった。
参拝を終えたあと、二葉は少しだけ水面を見ていた。
五樹が横から声をかける。
「二葉」
「大丈夫」
「信用度?」
二葉は少し考えた。
「九十」
「高い」
「今日は、怖いだけじゃないから」
五樹は一瞬だけ目を細めた。
それから、柔らかく笑った。
「ならいい」
三樹が言った。
「じゃあ焼きそば」
一樹は思わず笑った。
「切り替え早いな」
「祈った。腹減った」
「順番としては正しいかもしれない」
六樹が言う。
「祭りにおける食の役割は高い」
「六樹が味方した」
「味方ではない。事実」
三樹はそれでも嬉しそうだった。
校庭へ戻ると、灯りはさっきより明るく見えた。
屋台の匂いが強くなる。
焼きそば。
フランクフルト。
とうもろこし。
甘いシロップの匂い。
三樹はまっすぐ焼きそばの方へ行こうとする。
二葉が襟元を掴んだ。
「並ぶ」
「並ぶって」
「列」
「分かってる」
「今、横から行こうとした」
「流れに乗ろうとしただけ」
一樹が冷静に言う。
「横入りだ」
「言い方」
五樹が笑う。
「三樹、祭りの流れを乱さないで」
「俺が水だったらどうする」
六樹が言う。
「せき止める」
四葉が続ける。
「二葉が」
「俺、水なのに」
「暴れる水」
一樹が言った。
「信玄堤案件だな」
三樹は少しだけ考えた。
「俺、堤で止められるの?」
二葉が言う。
「止める」
「二葉なら止まりそう」
「止まりなさい」
「はい」
五樹が笑いをこらえていた。
焼きそばを買う頃には、三樹の機嫌は完全に戻っていた。
「祭りの焼きそばって、家の焼きそばと違うよな」
「三樹はソースならだいたい好きでしょ」
二葉が言う。
「でも祭りの鉄板の匂いってあるだろ」
「分かる」
五樹が言った。
「ちょっと焦げたソースと、油と、外の空気」
「そう、それ」
三樹が嬉しそうに頷く。
四葉はみどり豆を持っていない。
代わりに、かき氷の屋台を見ていた。
一樹が聞く。
「珍しいな。かき氷?」
「色が資料になる」
「何の資料だ」
「祭りの色」
「普通に食べたいって言え」
四葉は少しだけ考えて言った。
「メロン」
「はいはい」
六樹は屋台の人の流れを見ていた。
「一方通行にした方が効率がいい」
五樹が肩をすくめる。
「祭りで導線管理しない」
「でも詰まってる」
「一樹に言わないで。動き出すから」
一樹は聞こえていた。
「言われなくても見えてる」
五樹が笑う。
「ほら」
二葉が一樹を見る。
「今日は地域の人に任せる日」
「分かってる」
「信用度?」
一樹は少し黙った。
「八十」
「低い」
「導線が気になる」
「一樹も大概だよね」
五樹が言った。
「人の流れを見るのが癖になってる」
四葉がかき氷を持ちながら言う。
「場の水路」
「記録するなよ、六樹」
一樹が先に言った。
六樹はすでにiPadを開いていた。
「遅い」
「するな」
「重要」
三樹が焼きそばを食べながら笑った。
校庭の中央では、子どもたちが走っていた。
浴衣の子。
Tシャツの子。
サンダルの音。
手に持った光るおもちゃ。
誰かが転びそうになって、すぐに親が手を伸ばす。
二葉はその光景を見て、少しだけ表情を柔らかくした。
「昔、ここで走って怒られたよね」
三樹が言う。
「俺?」
「三樹」
「俺か」
「三樹だよ」
一樹が言う。
「お前、校庭の端から端まで全力で走って、先生に止められただろ」
「覚えてねえ」
「覚えとけ」
五樹が笑う。
「二葉も追いかけてたよね」
「三樹が人にぶつかりそうだったから」
「五樹は?」
二葉が聞く。
「二葉追いかけてた」
「でしょうね」
四葉が静かに言った。
「当時から構造が同じ」
六樹が頷く。
「三樹が走る。二葉が追う。五樹が二葉を追う。一樹が全体を回収」
一樹はかき氷のスプーンを止めた。
「俺の人生、ずっとそれか?」
「概ね」
六樹が即答した。
一樹は黙った。
三樹が笑う。
「一樹、白髪増えるな」
「誰のせいだと思ってる」
「俺ら全員?」
「自覚があるなら少し落ち着け」
「無理だな」
「諦めるな」
そんな会話をしていると、ふいに太鼓の音が強くなった。
校庭の空気が少し変わる。
人の視線が一方向へ向いた。
祭りの中心に、灯りが集まる。
誰かが案内をしている声が聞こえる。
弁財天祈願祭に合わせて、地域の人が集まる夜。
ふるさとの一夜。
ただ楽しいだけの祭りではない。
古い水の場所に、今も人が灯りを置く夜。
四葉がぽつりと言った。
「名前、いい」
一樹が聞く。
「ふるさとの一夜?」
「うん」
「お前、そういうの好きだよな」
「好き」
四葉は即答した。
「一夜って、一晩だけ。でも毎年戻る」
二葉が顔を上げる。
「月や花みたい」
四葉が少しだけ頷いた。
「巡るもの」
六樹が記録する。
「祭り。毎年戻る記憶」
五樹が言う。
「水を待った場所に、灯りが戻る」
その言葉に、二葉が少しだけ黙った。
一樹も、水辺の方を見る。
さっき手を合わせた場所。
暗い水面。
そこに映る灯り。
水が来るのを待っていた場所。
水に感謝する場所。
毎年、人が戻ってくる場所。
戻れる場所。
その言葉が、一樹の胸に落ちる。
「大溜井は」
一樹が小さく言った。
「まだ、完全に忘れられた場所じゃないんだな」
二葉が頷く。
「うん」
三樹は焼きそばを食べ終えて、少し真面目な顔で言った。
「だから、あの音もまだ待ってられるのかもな」
一樹は三樹を見る。
「待ってられる?」
「誰も来ないなら、待つのもやめるだろ」
三樹は水面の方を見た。
「でも、毎年来るんだろ。人が。灯り持って」
六樹の指が止まる。
四葉も三樹を見る。
五樹が静かに笑った。
「三樹、今日も変なところで核心つくね」
「変なところって何だ」
二葉が言った。
「でも、分かる気がする」
水が待っている。
人も戻ってくる。
祈りも戻ってくる。
だから、完全には壊れていない。
一樹は、校庭の灯りを見た。
「水守家の役目が失われても、地域の祈りは残ってる」
四葉が頷く。
「受け皿の形が変わってる」
六樹が続ける。
「家から、地域行事へ」
五樹が少しだけ声を落とした。
「でも、それだけじゃ足りないから、黒が出てる」
空気が少し静かになった。
祭りの音はある。
笑い声もある。
けれど、六つ子の間だけ、少しだけ水の底に触れたような沈黙が落ちた。
一樹はゆっくり頷いた。
「足りないものを探す必要がある」
二葉が水面を見る。
「水守家が受けていたもの」
四葉が言う。
「大溜井が待っているもの」
六樹が続ける。
「名前を間違えずに呼ぶ必要があるもの」
三樹が眉を寄せた。
「でも、今日は祭りだろ」
一樹は三樹を見る。
三樹は真面目な顔だった。
「こういう日に暗い話ばっかするの、違う気がする」
一樹は少しだけ目を見開いた。
三樹がそんなことを言うのは珍しい。
いや、違う。
三樹は本能で場を見る。
人が助けを求めているか。
危ないか。
今、走るべきか。
そして今は、走る時ではないと感じている。
一樹は小さく笑った。
「そうだな」
二葉も頷く。
「今日は、祭りを見る日」
五樹が三樹を見る。
「三樹、良いこと言ったから焼きとうもろこし買う?」
「買う」
「即答」
六樹が言う。
「切り替えが速い」
四葉がかき氷を食べながら言った。
「でも正しい」
一樹は頷いた。
「今日は、覚えて帰る」
「何を?」
二葉が聞く。
一樹は校庭を見る。
「大溜井が、怖いだけの場所じゃないこと」
それから、水面に映る灯りを見た。
「水を待った場所に、人が戻ってくる夜があること」
二葉は少しだけ笑った。
「うん」
その後、三樹は焼きとうもろこしを買い、四葉はなぜかもう一杯かき氷を買った。
六樹は出店の配置と人の流れを記録し、五樹に止められた。
五樹は二葉に綿菓子を買おうとして、「いらない」と言われたが、結局小さいものを一つ買った。
二葉は「だからいらないって言ったのに」と言いながら、少しだけ食べた。
一樹はそれを見ていた。
変わらない。
昔から、ほとんど変わらない。
三樹が食べる。
四葉が気になるものを見つける。
六樹が記録する。
五樹が二葉の横にいる。
二葉が全員を見ている。
自分が、その全部を少し離れて見る。
だけど、今日見ているものは、昔とは違う。
校庭。
大溜井。
弁財天。
祭りの灯り。
水に感謝する人たち。
子どもの頃は、ただ楽しかった。
今は、その下にあるものが少し見える。
見えてしまう。
でも、見えるようになったからこそ、守れるものもある。
祭りが終わりに近づく頃、六つ子はもう一度、大溜井の方へ歩いた。
人の声は少しずつ減っている。
灯りも、いくつか消えはじめていた。
水面には、最後の光が揺れている。
二葉が小さく言った。
「また来よう」
五樹がすぐに答える。
「来よう」
三樹が言う。
「来年も焼きそば食う」
四葉が言う。
「祭りの記録も見る」
六樹が言う。
「今年の記録も残す」
一樹は水面を見た。
「来年も、灯りが戻るように」
その言葉に、五人が少しだけ黙った。
水面が揺れる。
ぽつん、という音はしなかった。
代わりに、遠くで子どもが笑う声がした。
一樹は静かに頭を下げた。
怖いだけではない場所。
待っているだけではない場所。
感謝され、祈られ、人が戻ってくる場所。
それでも、まだ足りないものがある。
水の道は、まだ途中だ。
けれど今夜だけは。
今夜だけは、この灯りを覚えて帰ればいい。
ふるさとの一夜は、静かに更けていった。




