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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第十八話「人が作った水の道」

翌朝、森口家の玄関には、いつもより少し多めの荷物が並んでいた。


一樹の古い地図。

四葉のノート。

六樹のiPad。

五樹の水筒。

二葉がまとめたタオルと救急セット。

三樹の、なぜか大きめのリュック。


一樹は、それを見た。

「三樹」

「ん?」

「何入ってる」

「水と、塩飴と、肉まん」

「肉まん?」

「朝食ったらうまかったから」

「現地調査に肉まんを持っていくな」

「腹減ったらどうすんだよ」

「塩飴があるだろ」

「塩飴は飯じゃない」

二葉が横からリュックを覗いた。

「三樹、これ保冷剤入れてる?」

「入れてない」

「じゃあ肉まん置いていきなさい」

「えー」

「えーじゃない」

二葉が肉まんを取り出し、台所へ戻す。

三樹は本気で悲しそうな顔をした。

五樹が笑う。

「三樹、現地調査前に士気下がってる」

「俺の士気は飯でできてる」

「知ってる」

六樹がiPadを確認しながら言った。

「糖分、塩分、水分は必要。肉まんは現地調査に不向き」

「六樹まで」

四葉が淡々と言う。

「虫が来る」

「四葉まで」

一樹はため息をついた。

「今日は遊びじゃないぞ」

「分かってる」

三樹は少しだけ真面目な顔になった。

「水の道、見るんだろ」

その一言で、玄関の空気が少し変わった。


水の道。


昨夜、居間の壁に映っていた細い線。

楯無堰。

宗貞堰。

立石堰。

大溜井。

大屋敷跡。

水守家。

地図の上では細い線だった。


けれど、その線の先には、人がいた。

水を欲しがった人。

水を引こうとした人。

水を受けようとした人。

届かなかった水を待っていた人。


一樹は靴紐を結び直した。

「行くぞ」

二葉が頷く。

「車は?」

「今日は二台」

一樹が言う。

「ラングラーに三樹、五樹、六樹。RAV4に俺、二葉、四葉」

五樹がすぐに顔を上げた。

「え、二葉と別車?」

一樹は冷静に答える。

「そうだ」

「なんで」

「お前、二葉がいると二葉ばっかり見るだろ」

「見ないよ」

六樹が言った。

「見る」

四葉も言う。

「見る」

三樹も言った。

「見る」

五樹は全員を見た。

「味方がいない」

二葉は苦笑した。

「五樹、現地では周り見て」

「二葉も見るけど?」

「周りを」

「はい」


一樹が車の鍵を持った。

「五樹は六樹の補助。三樹は現場の違和感を見る。俺たちは先に資料と照らす」

「了解」

五樹は肩をすくめた。

「じゃ、六樹。運転任せた」

六樹が無表情で言う。

「五樹が運転」

「俺?」

「僕は地図を見る」

「はいはい」

三樹が嬉しそうにラングラーへ向かう。

「俺、助手席!」

「ダメ」

五樹が即答した。

「なんで」

「六樹が地図見るから前」

「俺は?」

「後ろ」

「扱い」

「燃費の悪い荷物」

「ひでえ」

いつもの声が、朝の庭に散った。

けれど、一樹はそれを止めなかった。

騒がしい。

まとまりがない。

それでも、必要な時には動ける。

これが森口家だった。


車が北へ向かう。

街の景色が少しずつ変わっていく。

住宅。畑。古い道。

低い場所から、高い方へ。


一樹は運転しながら、視線だけを前に向けていた。

助手席の二葉は、昨夜の地図を印刷した紙を見ている。

後部座席の四葉は、ノートに書き込みをしていた。

「四葉」

「なに」

「今日見るのは楯無堰そのものと、大溜井へ向かう流れでいいんだな」

「うん」

四葉はペンを止めずに答えた。

「でも、見たいのは堰だけじゃない」

「他に何を見る」

「水がどういう考え方で引かれていたか」

「考え方?」

「水路は、ただの線じゃない」

四葉はノートをめくる。

「高いところから低いところへ流す。でも、急すぎると壊れる。緩すぎると届かない。途中で分ければ足りなくなる。詰まれば腐る」

一樹は小さく息を吐いた。

「難しいな」

「人が作った水の道だから」

二葉が地図から顔を上げる。

「自然の川とは違うってこと?」

「うん。人が必要として、人が考えて、人が掘った道」

四葉は淡々と言う。

「だから、そこには意志がある」


一樹は、その言葉を頭の中で繰り返した。

意志。

水は自然に流れる。

けれど、水路は人が作る。

届いてほしい場所があったから。

流したい先があったから。

受ける場所を決めたから。


「森口家が道を作る家なら」

二葉がぽつりと言った。

「道を作った人たちの気持ちも、見ないといけないのかな」

一樹は横目で二葉を見た。

二葉の顔は、少しだけ遠かった。

五樹がいれば、すぐに気づいただろう。

一樹は前を向いたまま言った。

「二葉」

「なに?」

「今日は見るだけだ」

二葉は一瞬黙った。

それから、少しだけ笑う。

「分かってる」

「信用度」

「一樹までそれ言う?」

「五樹のせいで基準ができた」

後部座席で四葉が言った。

「今のは八十」

「高いの?」

「そこそこ」

二葉が苦笑する。

「みんな私の顔見すぎじゃない?」

一樹は即答した。

「見る必要があるからな」

二葉はそれ以上何も言わなかった。

ただ、地図を持つ手に少しだけ力が入った。


ラングラーは少し後ろを走っていた。

五樹が運転席。

六樹が助手席でiPadを見ている。

三樹は後部座席で、窓の外を眺めていた。

「六樹」

「なに」

「水路って、地図で見ると細い線だけどさ」

三樹が言う。

「実際見ると、もっと匂いがあるな」

五樹がバックミラー越しに見る。

「匂い?」

「うん。水がある匂いじゃなくて、水が通ってた匂い」

六樹の指が止まる。

「詳しく」

「なんか、乾いてるのに湿ってる感じ」

「矛盾してる」

「でもそうなんだよ」

三樹は窓の外を見る。

「土がさ、ずっと水を覚えてる感じ」

五樹は少しだけ笑みを消した。

三樹の言葉は、雑だ。

けれど、時々やけに本質に触れる。

六樹はすぐにメモを取った。

「土が水を覚えている」

「記録すんの?」

「重要」

「俺、名言言った?」

「判断は保留」

「そこは褒めろよ」

五樹が笑った。

「三樹、今日ちょっと勘が働いてるかもね」

「いつも働いてる」

「腹減りセンサー以外で?」

「失礼だな」

六樹が言う。

「腹減りセンサーは高性能」

「六樹、褒めるとこ違う」

ラングラーの中に笑いが戻る。

けれど、六樹の目は笑っていなかった。


画面の中で、細い線が北から南へ伸びている。

楯無堰。

大溜井。

そこからさらに南へ。

線は、ただの線ではない。

記録に残ったもの。

残らなかったもの。

人が覚えているもの。

土が覚えているもの。


六樹は、画面に新しいメモを加えた。

――土の記憶。


最初に車を止めたのは、古い水路跡に近い場所だった。

周囲には畑が広がり、遠くに山が見える。

風が通る。

水の音はしない。


一樹は車を降りると、周囲を見渡した。

「ここか」

六樹がiPadを持ってラングラーから降りる。

「現在地は、楯無堰の記録に近い線上」

四葉が紙の地図と見比べる。

「ただし、今見えてるものが昔の形と同じとは限らない」

「地形も変わってるだろうしな」

一樹が言う。

三樹は少し離れた場所でしゃがんでいた。

二葉が気づく。

「三樹?」

「ここ、変」

全員の視線が三樹へ向く。

三樹は地面を指差した。

「水ないのに、こっちに流れたい感じがする」

一樹は近づく。

「どういう意味だ」

「分かんねえ。でも、足がこっち向く」

六樹がすぐに位置を確認する。

「そっちは南」

四葉が地図を見る。

「大溜井方向?」

「正確には、大溜井へ向かう流れの一部と重なる可能性がある」

五樹が三樹の横に立つ。

「三樹、足で水路探してる」

「かっこよくね?」

「ちょっとだけ」

「そこはかなりでいいだろ」

二葉もしゃがんだ。

土は乾いている。

草が生えている。

人が歩けばただの道に見える。

けれど、見ているうちに、二葉は小さく眉を寄せた。

「……水がないのに、流れの形がある」

一樹が二葉を見る。

「見えるのか」

「見えるっていうか、分かるっていうか」

二葉は指先で空をなぞった。

「ここに水があったら、たぶん、こう流れる」

六樹がすぐにiPadへ線を引く。

「二葉の感覚線、記録」

「名前つけないで」

「仮称」

「仮称でも嫌」

五樹が笑いながら二葉の横に立った。

「大丈夫?」

「大丈夫」

「信用度?」

「八十五」

「上がった」

「水が相手だから」

五樹の目が少し細くなる。

「水が相手だと、前に出るでしょ」

二葉は答えなかった。

代わりに、地面を見た。

水のない水路。

流れのない道。

それなのに、どこかで何かが流れたがっている。

「水は」

二葉が小さく言った。

「道があれば、流れるんだよね」

一樹が頷く。

「たぶんな」

四葉が言う。

「でも、道だけでは足りない」

「受ける場所がいる」

六樹が続ける。

「受ける場所が失われると、道は行き先を失う」

三樹が顔を上げる。

「じゃあ、道が迷子になってるのか」

一樹は黙った。


道が迷子。

また雑な言葉だ。

けれど、妙に合っていた。

水を届けるために作られた道。

けれど、受ける場所が失われた。

なら、その道はどこへ向かえばいい。


六樹が静かに言った。

「記録する」

「何を」

三樹が聞く。

「道の迷子」

「それ記録名?」

「仮」

四葉が頷いた。

「悪くない」

一樹は頭を押さえた。

「四葉まで」

だが、否定はできなかった。

道が迷っている。

水が戻る場所を失っている。

それが、今見えているものの正体に近いのかもしれない。


次に向かったのは、大溜井へ近づく道だった。

車を安全な場所に停め、六人は歩いた。

二葉が先に立ちそうになる。

五樹が自然に横へ並ぶ。

「二葉」

「分かってる」

「今日は見るだけ」

「分かってる」

「信用度」

「九十」

「本当?」

「本当」

五樹は少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。

一樹は後ろからその二人を見る。

五樹は二葉を止めているようで、止めきってはいない。

二葉が前に出ることを否定しない。

ただ、行き過ぎる前に横に立つ。

あれも、流れを読むということなのかもしれない。


三樹は道の端を歩きながら、時々足を止める。

四葉は石や古い段差を見ている。

六樹は位置情報と地図を照合している。

一樹は全員の動きを見ながら、少しずつ分かってきた。

六つ子は、勝手に動いているようで、実は全員別のものを見ている。


三樹は気配。

四葉は意味。

六樹は構造。

五樹は人。

二葉は流れ。

そして自分は、それらをどこへ置くかを考える。


「一樹」

四葉が呼んだ。

「これ」

道の脇に、小さな石があった。

ただの石に見える。

けれど、四葉はしゃがみ込んでいる。

「何かあるのか」

「削れてる」

一樹もしゃがんだ。

確かに、石の表面に薄い線がある。

自然な欠け方にも見える。

だが、四葉はそこを指でなぞった。

「水の向きを示す印かもしれない」

六樹が近づき、写真を撮る。

「断定不可。記録」

三樹が覗き込む。

「矢印?」

「雑」

四葉が言う。

「でも、近い」

三樹がまた明るくなる。

「今日の俺、冴えてる」

「冴えてる時ほど黙って」

二葉が言った。

「なんで」

「調子に乗るから」

「二葉まで」

五樹が笑う。

「三樹、今日二葉にいっぱい構ってもらえてるじゃん」

三樹は得意げに言う。

「だろ」

五樹の笑顔が少しだけ固まった。

「……そういう意味で言ってない」

二葉が即座に言う。

「五樹、張り合わない」

「張り合ってないよ」

六樹が言う。

「張り合ってる」

四葉も言う。

「張り合ってる」

一樹はため息をついた。

「お前ら、現地で何をしてる」


その時だった。

風が変わった。

水の音はしない。

近くに流れもない。

けれど、耳の奥で、細い音がした。


ぽつん。


水滴が落ちるような音。


二葉が顔を上げる。

六樹の指が止まる。

三樹が即座に周囲を見る。

五樹の表情から軽さが消える。

四葉がノートを閉じる。

一樹は息を止めた。


ぽつん。


また、音がした。


「水?」

三樹が低く言う。

「見えない」

六樹が答える。

二葉はゆっくりと一歩前に出た。

五樹が横に並ぶ。

「二葉」

「分かってる」

「信用度」

「今は聞かないで」

「聞くよ」

五樹の声は軽くなかった。

二葉は小さく息を吐いた。

「八十」

「下がってる」

「水音がした」

「だから下がってる」

一樹が前に出る。

「全員、止まれ」

その声で、六つ子の足が止まった。


一樹は周囲を見る。


草。石。乾いた土。

見えるものは普通だ。

だが、音だけがする。


ぽつん。


ぽつん。


まるで、見えない井戸の底で水が落ちているような音。


六樹がiPadを見る。

「位置情報に異常なし」

四葉が言う。

「でも、音はある」

三樹は鼻を鳴らすように息を吸った。

「黒の匂いは薄い」

五樹が二葉を見る。

「二葉は?」

二葉は少し黙った。

「黒っていうより、待ってる」

「待ってる?」

「水が来るのを」


一樹の胸が重くなった。

水が来るのを待っている。

それは、大屋敷跡でも感じたものに近い。

届かなかった水。

受けられなかった場所。

待ち続けた声。


ぽつん。


音がまた落ちる。


一樹は静かに言った。

「今日は、触らない」

二葉が一樹を見る。

「一樹」

「触らない。聞きすぎない。名前をつけない」

六樹が頷く。

「同意」

四葉も頷いた。

「まだ足りない」

三樹が眉を寄せる。

「でも、このまま置いとくのか」

一樹は地面を見た。

「置いていくんじゃない」

ゆっくりと言う。

「場所を確認して、戻る。準備してから来る」

五樹が小さく笑った。

「一樹っぽい」

「茶化すな」

「茶化してない」

二葉は黙っていた。

その顔は、やはり少し遠い。

五樹が低く言う。

「二葉」

二葉は目を閉じて、深く息を吸った。

そして、吐く。

「分かってる。今日は戻る」

一樹は頷いた。

「六樹、記録」

「済み」

「四葉、仮説」

「楯無堰から大溜井へ向かう道の途中に、待っている記憶がある。水守家と直接かはまだ不明」

「三樹」

「ん」

「匂い、覚えておけ」

三樹は真面目に頷いた。

「覚えた」

「五樹」

「二葉を見る」

「周りも見ろ」

「両方見る」

「ならいい」

二葉が少しだけ笑った。

「私は?」

一樹は二葉を見る。

「前に出すぎない」

「それだけ?」

「それが一番難しいだろ」

二葉は言葉を返せなかった。

五樹が横で小さく笑う。

「信用度九十五」

「勝手に上げないで」

「今のは本当に分かってる顔」

「顔で全部判断しないで」

「する」

いつものやり取りが戻る。


けれど、水音はまだ、耳の奥に残っていた。


ぽつん。


それ以上近づかず、六人は車へ戻った。


帰り道、車内は少し静かだった。

RAV4の中で、一樹は前を向いたまま言った。

「四葉」

「なに」

「今日の場所、どう見る」

四葉はノートを見ていた。

「水が通った場所というより、水を待った場所」

二葉が小さく頷く。

「来るはずだった水」

「うん」

四葉はペンを動かす。

「水路は、ただ水を流す道じゃない。約束でもある」

「約束?」

一樹が聞く。

「ここまで届ける。ここで受ける。ここから先へ渡す。そういう約束」

二葉は窓の外を見た。

「約束が破れたら?」

四葉は少しだけ黙った。

「待ち続ける」

車内が静かになる。

一樹はハンドルを握る手に力を入れた。


待ち続ける。


その言葉は、水音よりも重かった。


ラングラーの中では、三樹が珍しく黙っていた。

五樹がバックミラーで見る。

「三樹」

「ん」

「腹減った?」

「減った」

「いつも通りじゃん」

「でも、今はそれだけじゃない」

六樹が助手席で画面を見る。

「水音?」

「うん」

三樹は窓の外を見た。

「あれ、寂しい音だった」

五樹の表情が少し変わる。

「寂しい?」

「うん。怒ってるっていうより、まだかなって感じ」

六樹が記録する。

「水音。怒りより待機。寂しさ」

三樹は少しだけ顔をしかめた。

「そう書かれると恥ずいな」

「重要」

「今日の俺、重要多くね?」

五樹が軽く笑った。

「三樹、たまには役に立つね」

「たまには余計」

六樹が静かに言った。

「今日は、かなり役に立ってる」

三樹は一瞬黙った。

それから、そっぽを向く。

「……おう」

五樹はその顔を見て、笑わなかった。

六樹がそういうことを言うのは珍しい。

三樹も、それを分かっている。

ラングラーの中に、少しだけ穏やかな沈黙が落ちた。


森口家に戻ると、祖母が縁側にいた。

「おかえり」

柔らかい声だった。

二葉が先に答える。

「ただいま」

祖母は六人の顔を順に見た。

そして、少しだけ目を細めた。

「水の音を聞いたのね」

一樹の足が止まる。

「ばあちゃん」

祖母は何も驚いていなかった。

「入っておいで。お茶を淹れてあるから」

三樹が小さく言う。

「肉まんは?」

二葉が即答した。

「まず手洗い」

「はい」

五樹が笑う。

「三樹、帰ってきた瞬間通常運転」

六樹は祖母を見ていた。

「おばあちゃん、知ってる?」

祖母は少しだけ笑った。

「全部は知らないわ」

「全部は?」

「水の道はね、人が作ったものなの」

「それにね、大溜井は、怖い場所としてだけ残っているわけじゃないの」

祖母は縁側から庭を見た。

「校庭の隣で、今も人が集まるでしょう。弁財天さまに手を合わせて、五穀豊穣を願う。子どもたちは祭りの灯りを見る」

「ふるさとの一夜?」

二葉が言った。

祖母は頷いた。

「ええ。水を待った場所でもあり、水に感謝する場所でもあるの」

少し風が通る。

「人が忘れても、土地が覚えていることがあるの」

一樹は黙った。

今日、三樹が言った言葉。

土が水を覚えている感じ。

祖母は、それを聞いていたわけではない。

けれど、同じことを言った。

「ばあちゃん」

一樹は聞く。

「今日聞いた水音は、何だと思う」

祖母はすぐには答えなかった。


庭の木が揺れる。

風が通る。


「待っている音でしょうね」

二葉が息を止めた。

四葉が小さくノートを開く。

六樹が記録しようとして、手を止める。

五樹が二葉を見る。

三樹が珍しく何も言わない。

祖母は続ける。

「怒りの音なら、もっと荒いわ」

「待っている音」

一樹が繰り返す。

「ええ。水が来るのを待っていた場所。受け取るはずだったものを、受け取れなかった場所」

祖母の声は穏やかだった。

けれど、その言葉は重かった。

「それが水守家?」

四葉が聞く。

祖母は四葉を見る。

「近いところまでは来ていると思うわ」

「答えは?」

「おじいちゃんに聞きなさい」

一樹は思わず苦笑した。

「ばあちゃんもそれか」

祖母は楽しそうに笑う。

「森口家の男たちは、少し苦労した方がいいの」

「ひどい」

「その方が、ちゃんと考えるもの」

二葉が小さく笑った。

「おばあちゃんらしい」

祖母は二葉を見る。

「二葉」

「なに?」

「今日は、よく戻ってきたわね」

二葉は一瞬、言葉を失った。

五樹の表情が静かになる。


祖母は柔らかく続けた。

「前に出るのは悪いことではないわ。でも、戻ってこられることも大事」

二葉は少しだけ目を伏せた。

「……うん」

五樹が横で何も言わずにいた。

言わないことが、今は一番合っていた。

一樹はその様子を見て、胸の奥で何かが落ち着くのを感じた。

戻れる場所。

御嶽の山を下りながら、四葉が言った言葉。

今日見た、水を待つ場所。

祖母の言った、戻ってこられること。

全部が、少しずつ同じところへ集まっている。


その夜、一樹は祖父の部屋へ行った。

樹蔵は、また将棋盤の前に座っていた。

「来ると思っていた」

「だろうな」

一樹は向かいに座る。

「今日、水の音を聞いた」

「ほう」

「楯無堰から大溜井へ向かう流れの途中で」

樹蔵は駒を並べながら言う。

「何の音だった」

一樹は少し黙った。

怒りではない。

黒でもない。

ただの水でもない。

「待っている音」

樹蔵の手が、一瞬だけ止まった。

それから、ゆっくりと駒を置く。

「葉月に聞いたか」

「ばあちゃんにも言われた」

「そうか」

一樹は祖父を見る。

「じいちゃん。水守家は、何を受ける家だった」

樹蔵は盤面を見たまま言う。

「勝ったら、一つ教える」

「またそれか」

「嫌なら帰れ」

「帰らない」

一樹は駒に手を伸ばした。

「今日は勝つ」

樹蔵が低く笑う。

「言うようになった」

「森口家の流儀だろ」

「何が」

「答えが欲しいなら、自分で道を作る」

樹蔵は一樹を見た。

少しだけ、目が細くなる。

「悪くない」

その一言で、一樹は少しだけ息を吐いた。


将棋盤の上に、駒が並ぶ。

外では、夜風が庭を揺らしている。

今日聞いた水音は、もう聞こえない。

けれど、一樹の胸の奥には残っていた。


ぽつん。


待っている音。

水が来るのを。

受け取る場所が戻るのを。

誰かが、その名を間違えずに呼ぶのを。

一樹は一手を指した。

水の道は、まだ途中だった。

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