第十六話「月の御嶽、花の金櫻」
翌朝、一樹と四葉は電車に乗った。
森口家から東京へ。
山梨の山と水の気配から離れていくにつれ、窓の外の景色は少しずつ変わっていく。
四葉は座席で資料を見ていた。
スマホ、ノート、印刷した地図。
そして、なぜかみどり豆。
一樹はそれを見た。
「持ってきたのか」
「必要」
「神社で食べるなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「境内では食べない」
「そこは分かってるんだな」
「失礼」
四葉は小さく言った。
一樹は苦笑した。
「で、大國魂神社で何を見る」
「総社」
「だろうな」
「一社で、一国の神をまとめる仕組み」
四葉はノートに書いた文字を見せる。
総社。国府。六所。国内諸神。
「森口家は、祓う家じゃなくて、戻す家かもしれない」
一樹の表情が変わった。
「戻す?」
「黒を消すだけじゃない。水を流すだけでもない。どこに戻すか。どこへ納めるか。どの神に返すか」
四葉は淡々と言う。
「甲斐の水の道を見る前に、土地を束ねる仕組みを見たい」
一樹は、窓の外へ視線を移した。
四葉は、普段から我関せずに見える。
だが、必要な時に見る場所は、かなり鋭い。
「お前、やっぱり調査じゃないか」
「聖地巡礼もする」
「はいはい」
大國魂神社に着いた時、空は少し曇っていた。
府中駅から歩く。
街の中に、急に空気の質が変わる場所がある。
鳥居をくぐる前、一樹は足を止めた。
四葉も止まる。
「どうした」
「いや」
一樹は参道の先を見た。
「街の中なのに、ここだけ古いな」
「分かる?」
「分かる」
「一樹は分かると思った」
四葉は少し満足そうだった。
参道を進む。
木々の陰。
人の声。
遠くの車の音。
それでも、境内の中には別の時間が流れていた。
一樹は拝殿の前で、静かに頭を下げた。
四葉も隣で手を合わせる。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
参拝を終えたあと、一樹は境内を見回した。
「武蔵国の守り神、か」
四葉が頷く。
「大國魂大神」
「国魂って言葉が強いな」
「土地そのものの魂」
一樹は、その言葉を繰り返した。
「土地そのものの魂……」
森口家が相手にしているもの。
黒。
水。
届かなかった流れ。
古い記憶。
それらは、単なる怪異ではない。
土地のどこかに溜まったもの。
流れ損ねたもの。
戻れなくなったもの。
四葉が言う。
「一樹」
「ん?」
「森口家の神社って、守ってるだけじゃないよね」
「……たぶんな」
「水が詰まったら、祓う。黒が湧いたら、抑える。でも本当は、土地のどこに声を戻すかを見てる」
一樹は黙った。
「おじいちゃんは、それを知ってるかもしれない」
「だろうな」
「でも、全部は言わない」
「言わないな」
「一樹に考えさせてる」
一樹は小さく息を吐いた。
「性格悪いな、じいちゃん」
「一樹もそのうちやる」
「やらない」
「やる」
「決めつけるな」
四葉は表情を変えずに言った。
「一樹は次期神主だから」
一樹はその言葉に、少しだけ黙った。
外向きの顔ではない。
家の中で、二葉に皿を出せと言われる一樹でもない。
森口家の次を背負う者としての顔が、少しだけ出た。
「……まだ、分からないことだらけだ」
「だから来た」
四葉は、境内の空気を吸うように周囲を見た。
「分からない時は、似た形を見る」
一樹は四葉を見た。
「それ、研究員っぽいな」
「研究員だから」
「そうだった」
「忘れないで」
「忘れてない」
四葉は少しだけ目を細める。
「一樹、たまに話を右から左に流す」
「……聞いてる時もある」
「今は?」
「聞いてる」
「ならいい」
その後、二人は境内を巡った。
一樹は由緒を読み、四葉は気になる言葉をノートに書き込んだ。
武蔵総社。
六所宮。
国司。
国内諸神。
くらやみ祭。
国府祭。
四葉がぽつりと言う。
「暗い中で神輿が動く祭」
「くらやみ祭か」
「暗い中で動く。見えないものを移す」
「お前、そういう読み方するのか」
「今は森口家脳」
「嫌な言い方だな」
「便利」
一樹は苦笑した。
「見えないものを移す、か」
「黒も、見えてるようで見えてない」
一樹の表情が少し沈む。
「黒は、壊せば終わりじゃない」
「うん」
四葉はノートに線を引く。
「壊したあと、どこへ返すか」
一樹は境内の木々を見た。
街の中にありながら、古い。
人が何百年、何千年と、ここに来て、頭を下げて、祭を続けてきた。
それは、土地と人の約束のようだった。
「四葉」
「なに」
「来てよかったな」
「でしょ」
「得意げだな」
「私、正しい時は得意げ」
「そうか」
「そう」
四葉はそこで、少しだけ間を置いた。
「あと、二葉にお守り買う」
「急に私情」
「大事」
「五樹が知ったら対抗するぞ」
「知ってる」
「買うのか」
「買う」
一樹は笑った。
「お前も相当、二葉好きだよな」
四葉は迷いなく答えた。
「好き」
「即答か」
「当然」
大國魂神社を出たあと、二人は武蔵御嶽神社へ向かった。
府中の街から、山へ。
電車を乗り継ぎ、バスに乗り、御岳山へ向かう。
空気が少しずつ変わった。
街の密度がほどけて、山の気配が近づいてくる。
四葉は窓の外を見ていた。
一樹は隣で、スマホに表示した資料を読んでいる。
「御岳山、標高九百二十九メートルか」
「天空の神社」
「公式がそういう言い方してるのか」
「うん」
「四葉、好きそうだな」
「好き」
「即答」
「山の神社は強い」
バスを降り、ケーブルカーでさらに上へ向かう。
窓の外で、山の緑が近づいていく。
ケーブルカーを降りた先は徒歩だった。
歩きながら、一樹は息を吐いた。
「お前、体力大丈夫か」
「大丈夫」
「本当か」
「無理なら言う」
「言わなそうだな」
「言う。私は二葉じゃない」
「それはそうだ」
「二葉は無理を隠す」
一樹は少しだけ黙った。
「……そうだな」
「五樹が気づく」
「あいつは二葉に関しては気持ち悪いくらい気づく」
「気持ち悪いけど、必要」
「本人に言ってやれ」
「言わない」
「なんで」
「面倒」
一樹は笑った。
御岳山の空気は、森口家のある土地とは違った。
甲斐の水の重さとは違う。
ここには、山そのものが立っているような気配がある。
道を進むと、狼の意匠が目に入る。
四葉が足を止めた。
「おいぬ様」
一樹も見る。
「日本狼、だったな」
「大口真神」
「山に留まって守護する狼」
四葉は、その言葉をゆっくり言った。
「道を失った者を導く。災いを防いで、その地を守る」
一樹の胸に、何かが引っかかった。
道を失う。
導く。
災いを防ぐ。
留まる。
「豆と菊、ここに連れてきたら六樹が泣く」
四葉が言った。
一樹は吹き出しかけた。
「泣きはしないだろ」
「泣く一歩手前」
「ありえる」
「愛犬の御祈祷もある」
「六樹に言うなよ。絶対連れてくるぞ」
「言う」
「言うのか」
「豆と菊は守護犬だから」
「豆柴だぞ」
「豆柴狛犬」
一樹は否定できなかった。
境内へ向かうにつれて、空気が澄んでいく。
拝殿の前に立った時、一樹は大國魂神社とは違う沈黙を感じた。
あちらは、土地を束ねる重さだった。
こちらは、山に留まる重さだった。
逃げない。
下りない。
ここにいる。
そういう重さ。
四葉が静かに手を合わせる。
一樹も隣で頭を下げた。
参拝を終えたあと、二人はしばらく境内を歩いた。
四葉が言う。
「月の御嶽」
「花の金櫻、か」
一樹は自然に続けた。
四葉が少しだけ目を細める。
「一樹、分かってる」
「さすがに分かる」
「金櫻神社のこと、考えてた?」
「考えてた」
「昇仙峡も?」
「考えてた」
四葉は頷いた。
「花と月。山と山。甲斐と武蔵」
一樹は遠くを見る。
「金櫻神社は、昇仙峡の上だ。水晶もある。山の奥、花の名、金の気配」
「御嶽は月。狼。山に留まる守護」
「花は咲く。月は満ち欠ける」
「流れと境界」
四葉が言う。
「水は流れる。山は留める。狼は境界を守る。総社は土地を束ねる」
一樹は、四葉の言葉を頭の中で並べる。
大國魂神社で見た、土地を束ねる仕組み。
武蔵御嶽神社で感じた、山に留まる守護。
身曾岐神社の能舞台。
金櫻神社。
昇仙峡。
楯無堰。
竜地の大溜井。
届かなかった水。
流れずに、淀んだもの。
壊すのではなく、戻す。
祓うのではなく、納める。
「……黒を、ただ外へ出せばいいわけじゃない」
一樹が言った。
四葉は一樹を見た。
「うん」
「流れを戻す場所がいる」
「うん」
「それを間違えると、また詰まる」
「たぶん」
一樹はゆっくり息を吐いた。
「森口家がやってきたのは、祓いじゃなくて、道をつけることかもしれない」
四葉はしばらく黙った。
それから、ぽつりと言う。
「二葉の破祓は、道を壊して作る」
「……あいつらしいな」
「五樹は、二葉に触れるものを断つ」
「素戔鳴斬か」
「うん」
「六樹は、名をつけて留める」
「言霊」
「三樹は先に危険を嗅ぐ」
「本能」
「お前は?」
四葉は少し考えた。
「見る」
「見る?」
「散らばってるものを、関係にする」
一樹は四葉を見た。
「それは、かなり大事だな」
四葉は一瞬だけ黙った。
「……褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいい」
「俺は?」
四葉はすぐには答えなかった。
風が吹く。
山の空気が、少しだけ冷たい。
「一樹は、戻す場所を決める」
一樹は言葉を失った。
四葉は続ける。
「みんな動く。二葉は前に出る。三樹も出る。五樹は断つ。六樹は留める。私は見る。でも、最後にどこへ戻すかを決めるのは、一樹」
「……重いな」
「次期神主だから」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
四葉は一樹を見た。
「だから一樹が必要」
一樹は少しだけ視線を逸らした。
朝、二葉にも似たようなことを言われた。
皿を出すだけでも、始まる感じがする。
雑なようで、真ん中を突く。
森口家の女子は、いつもそうだ。
「我が家の女子は、本当に女子らしくないな」
四葉は首を傾げた。
「今さら」
「それもそうだな」
四葉は、少しだけ満足そうに頷いた。
そのあと、二人は太々神楽の案内を見た。
面。
舞。
神前に捧げられるもの。
一樹は足を止める。
「身曾岐神社の能とつながるな」
「うん」
「舞は、見せるためだけじゃない」
「捧げるもの」
「面は、顔を隠すものじゃなくて、別のものを降ろすものかもしれない」
四葉の目が動いた。
「一樹、それ」
「ん?」
「使える」
「物騒な言い方だな」
「身曾岐の面」
一樹の表情が変わる。
「面に、何か残ってる可能性か」
「能舞台の記録にあった“声が戻る”って記述」
「舞うことで戻る?」
「または、面を通して戻す」
一樹はしばらく黙った。
山の中で、遠くの音がする。
人の声か、風か、鳥か。
分からない。
「太占も気になる」
四葉が言った。
「鹿の骨を焼いて占う神事か」
「古い」
「かなり古いな」
「火で割れ目を見る。形を見る。神意を読む」
「六樹が好きそうだ」
「好きだと思う」
「六樹は、記録できるものが好きだからな」
「でも、記録できない割れ目もある」
一樹はその言葉に、少しだけ引っかかった。
「記録できない割れ目」
「黒もそう。完全には記録できない。だから、人が見る」
「人が見る、か」
「一樹が見る」
「また俺か」
「一樹が来てよかった」
四葉は淡々とした声で言った。
「私だけなら、聖地巡礼で終わる」
「終わるのか」
「たぶん少し終わる」
「少し」
「でも一樹がいると、土地の話になる」
一樹は少しだけ笑った。
「お前は本当に、褒め方が独特だな」
「褒めてる」
「分かってる」
境内を出る前、四葉はお守りを見ていた。
一樹は少し離れたところで待つ。
「二葉用か?」
「うん」
「どれにする」
「迷ってる」
「珍しいな」
「二葉にはちゃんと選びたい」
一樹は少し黙った。
四葉はいつも、好きなものには真っ直ぐだ。
推しにも。
歴史にも。
二葉にも。
「五樹には?」
「買わない」
「即答」
「五樹は自分で二葉の隣にいる」
「理由が独特だな」
「だからいらない」
一樹は笑った。
「六樹には?」
「おいぬ様」
「それは喜ぶ」
「豆と菊にも」
「買うのか」
「買う」
「荷物増えるな」
「一樹が持つ」
「俺か」
「長男」
「便利に使うな」
それでも、一樹は受け取るつもりでいた。
帰り道、山を下りながら、四葉は言った。
「一樹」
「ん?」
「月の御嶽と、花の金櫻」
「ああ」
「並べると、対になる」
一樹は少しだけ考えた。
「月と花?」
「うん。月は、満ち欠ける。花は、咲いて散る。でも、どちらも戻る」
一樹は、山道の先を見た。
「戻る、か」
「消えるんじゃない。形を変えて、また来る」
四葉は淡々と言った。
「水と似てる」
一樹は黙った。
月。
花。
水。
山。
満ちて、欠けるもの。
咲いて、散るもの。
流れて、戻るもの。
「……だから、御嶽と金櫻か」
四葉は頷いた。
「たぶん。片方だけじゃ足りない」
一樹は足を止めた。
「片方だけじゃ、戻せない?」
「月はまた満ちる。花はまた咲く」
四葉は振り返る。
「土地も、戻れる場所があれば戻る」
一樹は、言葉を返せなかった。
戻れる場所。
その言葉だけが、山を下りるあいだ、ずっと胸の奥に残っていた。
風が吹く。
山の匂いがする。
甲斐とは違う山。
けれど、どこかでつながっている山。
一樹は静かに頷いた。
「……帰ったら、じいちゃんに聞く」
「答えてくれる?」
「答えないだろうな」
「じゃあ、どうするの」
「将棋に勝つ」
四葉が少しだけ目を開いた。
「勝てる?」
「……努力する」
「がんばって」
「軽いな」
「応援してる」
「本当か?」
「本当」
四葉は少しだけ間を置いて、言った。
「一樹が分かれば、二葉が無理しなくて済む」
一樹の顔から、少しだけ笑みが消えた。
「……それを先に言え」
「今言った」
「そうだな」
二葉は、腹を括るのが早い。
前に出る。
必要なら壊してでも通す。
だが、それを毎回二葉にさせるわけにはいかない。
一樹は、森口家の長男だった。
父親ポジションだとか、皿係だとか、そんなことを言っている場合ではない。
戻す場所を決める。
その役割が本当に自分にあるのなら。
逃げるわけにはいかなかった。
帰りの電車で、四葉は窓にもたれながらスマホを見ていた。
「また調べてるのか」
「うん」
「何を」
「大國魂神社のくらやみ祭と、身曾岐神社の能と、武蔵御嶽神社の神楽」
「全部混ぜるな」
「混ざる」
「混ざるのか」
「たぶん」
一樹はため息をついた。
だが、その顔は少し楽しそうだった。
四葉は画面から目を離さず言う。
「あと、一樹」
「何だ」
「お土産で買ったお守り、二葉に渡す時、五樹が絶対見る」
「見るだろうな」
「五樹に見せびらかす」
「やめてやれ」
「やる」
「お前も二葉絡むと大概だな」
「五樹ほどじゃない」
「比較対象が悪い」
四葉は、そこで少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
一樹はそれを見て、何も言わなかった。
森口家に戻った頃には、空が暗くなりかけていた。
玄関を開けると、三樹が顔を出した。
「土産は?」
「第一声がそれか」
「腹減った」
「知ってる」
二葉が奥から出てくる。
「おかえり」
「ただいま」
四葉は靴を脱ぐと、まっすぐ二葉のところへ行った。
「二葉」
「なに?」
四葉は小さな袋を差し出した。
「お守り」
二葉が目を瞬かせる。
「私に?」
「うん」
「ありがとう」
二葉が受け取る。
その横から、五樹が顔を出した。
「四葉、二葉に何あげたの」
「お守り」
「へえ」
五樹の目が細くなる。
四葉は少しだけ得意そうに言った。
「大國魂神社と武蔵御嶽神社の」
「……いいじゃん」
「五樹にはない」
「聞いてないけど?」
「ない」
「二回言わなくていい」
二葉が苦笑する。
「五樹、欲しかったの?」
「二葉がもらったなら別に」
「何それ」
「二葉が守られるならいいってこと」
四葉が静かに言う。
「重い」
「四葉に言われたくない」
「私は健全」
「どこが」
「聖地巡礼」
「便利な言葉だな、それ」
一樹は後ろで靴を脱ぎながら、ため息をついた。
「お前ら、ただいまくらい普通にさせろ」
三樹が言う。
「で、土産は?」
「ある」
「よし」
六樹が奥から出てきた。
「豆と菊には?」
四葉は別の袋を出した。
「ある」
六樹の表情が明らかに変わった。
「おいぬ様?」
「おいぬ様」
「……ありがとう」
五樹が笑う。
「六樹、顔ゆるんでる」
「ゆるんでない」
「ゆるんでる」
二葉が微笑んだ。
「豆と菊、喜ぶね」
「うん」
六樹は素直に頷いた。
その夜、一樹は祖父の部屋へ向かった。
樹蔵は将棋盤の前に座っていた。
まるで、来るのが分かっていたように。
「遅かったな」
「東京まで行ってた」
「聞いとる」
「四葉から?」
「葉月から」
「ばあちゃん経由か」
樹蔵は笑った。
「で、何を見てきた」
一樹は座った。
将棋盤を挟んで、祖父を見る。
「大國魂神社で、土地を束ねる仕組みを見た」
「ほう」
「武蔵御嶽神社で、山に留まる守護を見た」
「それで?」
一樹は、駒に手を伸ばさないまま言った。
「森口家がやってるのは、黒を壊すことじゃない」
樹蔵の目が、少しだけ細くなる。
「続けろ」
「流れ損ねたものを、戻すことだと思う」
「どこへ」
「それを決めるのが、神主の役目なんだろ」
沈黙。
古い部屋に、夜の音が落ちる。
樹蔵は、ゆっくりと駒を一つ動かした。
「ようやく、そこまで来たか」
一樹は息を止めた。
「じいちゃん」
「まだ答えはやらん」
「だろうな」
「勝ったら一つ、教えてやる」
一樹は将棋盤を見た。
すでに不利だった。
まだ一手も指していないのに、不利な気がした。
「性格悪いな」
「褒め言葉だ」
「褒めてない」
樹蔵は低く笑う。
一樹は駒を持った。
二葉が前に出すぎなくて済むように。
三樹が本能だけで飛び込まなくて済むように。
五樹が二葉の盾と剣であり続けるために。
六樹が言葉で留められるように。
四葉が見つけた関係を、ちゃんと形にするために。
そして、森口家が戻る場所を失わないために。
一樹は、一手を指した。
樹蔵が少しだけ笑った。
「悪くない」
その言葉だけで、今夜は十分だった。




