第十三話「Wranglerの行方」
深緑のラングラーが、朝の道を北へ走っていた。
空はよく晴れている。
甲府盆地の空気はまだ少し冷たく、遠くの山の稜線がくっきり見えた。
助手席には二葉。
スピーカーからは、五樹が作ったプレイリスト——Millennium Punk Drive。
ミレニアム前後の洋楽パンクロック。
軽くて、速くて、少し荒い。
朝の山道には少しうるさいくらいなのに、不思議と空気に合っていた。
五樹はハンドルを握りながら、機嫌よく前を見ている。
正確には、前を見ているふりをしながら、時々助手席を見ていた。
二葉は膝の上に地図とメモを広げている。
完全に現地確認モードだった。
「五樹」
「はい」
「今こっち見たでしょ」
「見てない」
「見てた」
「前も見てる。二葉も見てる。安全運転」
「安全運転は前だけ見て」
「はい」
五樹は素直に前を向いた。
二葉は小さく息を吐き、それからスピーカーの音に耳を向ける。
ギターが跳ねる。
ドラムが走る。
古いのに、妙に勢いがある。
二葉は少しだけ口元を緩めた。
「いいセレクションじゃん」
五樹の指が、ハンドルの上で一瞬止まった。
「……え」
「こういうの、山道に合うね」
五樹は前を見たまま、口元を押さえたいのを堪えた。
「二葉、今のもう一回言って」
「言わない」
「録音すればよかった」
「運転して」
「はい」
返事は軽かった。
けれど、五樹の横顔は明らかに緩んでいた。
二葉はそれに気づいたが、あえて何も言わない。
プレイリスト名を見た時点で、五樹が今日をどれだけ楽しみにしていたかは分かっていた。
Millennium Punk Drive。
昇仙峡下見用、と五樹は言った。
仕事だから、とも言った。
だが五樹の中で、今日の下見がただの仕事で終わる気がないことくらい、二葉にも分かる。
「五樹」
「なに?」
「これは下見だからね」
「分かってる」
「仕事」
「分かってる」
「本当に?」
五樹は少しだけ笑った。
「仕事デート」
「仕事」
「はい」
二葉は地図へ視線を戻した。
その横顔を見て、五樹はまた笑いそうになる。
助手席に二葉がいる。
それだけで、今日の任務の半分くらいは勝った気でいた。
もちろん、口には出さない。
出したら二葉に怒られる。
五樹はそういう判断だけは早かった。
ラングラーは山道へ入っていく。
道の両側に緑が増える。
遠くから、水の音が聞こえ始めた。
大溜井の底で聞いた、重く沈んだ水音とは違う。
昇仙峡の水音は、明るい。
岩に当たり、跳ね、砕け、また流れていく音。
五樹は少しだけ窓を開けた。
冷たい空気が入る。
「寒くない?」
二葉が聞く。
「ちょっとだけ。山の空気、デートっぽい」
「下見」
「はい」
二葉は呆れたように笑った。
その笑いを見て、五樹は胸の奥で小さく勝った。
昇仙峡に近づくにつれ、道はさらに山へ寄っていく。
岩肌。
木々。
細い川。
観光地として整えられた明るさの奥に、古い山の気配がある。
五樹は駐車場にラングラーを停めた。
深緑の車体が、山の緑に馴染んでいる。
「いいね、今日の相棒」
五樹が言う。
二葉は車を見た。
「ラングラー、こういう場所に合うね」
「でしょ」
「調査向き」
「デート向きでもある」
「調査向き」
「はい」
五樹は肩をすくめた。
二葉は地図を畳み、周囲を見る。
その目が、すぐに仕事の目になる。
五樹はそれに気づいた。
軽口を言おうとして、やめる。
二葉の顔つきが変わった時は、邪魔をしない。
それも、五樹が昔から覚えていることだった。
二葉は風の向きを確かめるように、静かに立っていた。
水の音。
人の声。
観光客の足音。
遠くの車の音。
木々のざわめき。
それらが、昇仙峡の空気の中に混ざっている。
けれど。
二葉は眉を寄せた。
「……綺麗」
五樹が横に立つ。
「水?」
「うん」
「いいことじゃないの?」
二葉はすぐには答えなかった。
岩の間を流れる水を見ている。
「綺麗すぎる」
五樹の表情が変わる。
「良くないやつ?」
「分からない。でも、変」
「どんなふうに?」
「人の声が混ざらない」
五樹は一瞬黙った。
二葉は続ける。
「普通、場所には人の気配が残る。歩いた人、見た人、怖がった人、喜んだ人。水の音にも、少しは混ざる」
「ここは?」
「水の音だけが強い」
五樹は川の方を見る。
明るい水。
澄んだ流れ。
観光客が写真を撮っている。
怖い場所には見えない。
けれど、二葉がそう言うなら、ただ綺麗なだけではない。
五樹はスマホを取り出した。
「最近の投稿、見る」
「お願い」
「任せて」
五樹の指が画面を滑る。
地元SNS。
観光投稿。
写真。
口コミ。
位置情報付きの短いコメント。
五樹は軽い顔をしているが、目だけはよく動いていた。
「白い筋が写った、って投稿がいくつかある」
「白い筋?」
「水しぶきっぽいけど、形が一定じゃない。こっちは“龍みたい”ってコメントついてる」
二葉が覗き込む。
写真の端。
水の流れの上に、細い白い筋が写っている。
ただの光にも見える。
けれど、二葉はその写真を見た瞬間、指先を止めた。
「これ、水晶に似てる」
「水晶?」
「光り方が」
五樹は画面を拡大した。
「金櫻神社方面も見る?」
二葉は頷く。
「上に行った方がいい」
五樹は一瞬だけ明るい顔をした。
「金櫻まで?」
「うん」
「二葉と?」
「五樹も行くでしょ」
「行く」
即答だった。
二葉が笑う。
「早い」
「仕事だから」
「本当に?」
「仕事デートだから」
「仕事」
「はい」
二葉は歩き出した。
五樹はその少し横を歩く。
近すぎず、離れすぎず。
二葉が水音を拾う時、五樹はいつもその距離にいる。
守るためではない。
いや、守るためでもある。
けれど、二葉が「守られる側」ではないことを、五樹は誰より知っている。
小学生の頃の二葉は、総大将みたいだった。
理不尽を見れば前に出る。
泣いている子がいれば、相手が誰でも立ちはだかる。
四葉や六樹をいじめる子がいれば、三樹を連れて真正面から退治しに行く。
高校生の頃は、宝塚の男役みたいだと女子から騒がれていた。
バレンタインのチョコは、六つ子の中で二葉がダントツだった。
可愛いより、かっこいい。
守られる女の子ではなく、誰かの前に立つ人。
五樹は、そういう二葉をずっと見てきた。
そして。
その強さの奥にある弱さも、見たことがある。
怖いのに、大丈夫と言う顔。
痛いのに、平気だと笑う顔。
泣きそうなのに、先に誰かの世話をする背中。
二葉は、それを見せたがらない。
だから五樹は、軽く振る舞う。
甘える。
構ってもらいたがる。
周囲の視線を自分に向ける。
二葉が隠したいものを、誰にも見せないために。
五樹は二葉の盾だった。
そして、必要なら剣にもなる。
金櫻神社へ向かう道に入る頃、空気が変わった。
昇仙峡の水音が遠ざかり、山の気配が濃くなる。
木々の間から、社の気配がする。
二葉が足を止めた。
「聞こえる」
五樹も止まる。
「水?」
「違う」
二葉は社の方を見た。
「水晶が、鳴ってる」
その言葉のあと、風が止まった。
観光客の声が遠くなる。
鳥の声も消える。
一瞬、山の中に二人だけが取り残されたような静けさが落ちた。
五樹の表情から、軽さが消える。
「二葉、近づきすぎないで」
「分かってる」
「その“分かってる”、信用していいやつ?」
二葉は少しだけ困ったように笑った。
「たぶん」
「じゃあ信用しない」
「五樹」
「二葉の“たぶん”は危険」
二葉は反論しなかった。
ゆっくりと境内へ進む。
水晶。
龍。
山の上へ向かう気配。
大溜井の底で感じた、下へ沈む重さとは逆だった。
ここは、上へ向かう。
澄んだものが、上へ。
だが、澄みすぎた水の中には、別の怖さがある。
境内の一角に、水晶を抱いた龍の意匠があった。
白く澄んだ石が、光を受けて静かに光っている。
二葉は、その水晶に手を伸ばしかけて止めた。
指先に、細い光が触れる。
白い。
澄んだ光。
その奥に、ほんの少しだけ黒が混じっていた。
糸のように細い。
声のように、絡む。
触れていないはずなのに、二葉の指先に、その黒い糸が巻きついた。
「……っ」
五樹が即座に動いた。
「二葉」
「大丈夫」
その一言で、五樹の目が変わった。
二葉が本当に大丈夫な時と、大丈夫だと言い聞かせている時の違いを、五樹は知っている。
誰より近くで見てきたから。
「信用しない」
五樹の声は低かった。
二葉は指先を見る。
黒い糸は、細いのに離れない。
水晶の光に紛れて、二葉の感覚へ入り込もうとしている。
声ではない。
けれど、声の形をしている。
祈りに似ている。
けれど、祈りではない。
二葉は息を整える。
「まだ、流せる」
「二葉」
「これは、たぶん——」
黒い糸が強く締まった。
二葉の指が震える。
その瞬間、五樹は一歩前へ出た。
「下がって」
二葉が顔を上げる。
五樹は笑っていなかった。
いつもの軽口も、甘えも、構われ待ちの顔もない。
二葉の前に立つ、ただ一人の男がいた。
五樹の手に、荒い神気が走る。
光ではない。
火でもない。
風が鳴るような、青白い刃。
荒ぶるものを、そのまま刃にしたような気配。
「素戔鳴斬」
刃が、鳴った。
一閃。
黒い糸が、音もなく断ち切られる。
水晶の光が揺れた。
二葉の指先から、濁りが落ちる。
落ちた黒は地面に触れる前に、五樹の刃でもう一度裂かれた。
細かく散る。
しかし、散った黒は広がらなかった。
昇仙峡の澄んだ風に触れ、淡くほどけて消えていく。
二葉は、自分の指先を見た。
まだ少し震えている。
五樹は刃を下ろした。
そして、低く言った。
「二葉に、触るな」
その声は、二葉が知っている五樹の声ではなかった。
軽い五樹ではない。
甘える五樹でもない。
二葉の弱さを誰にも見せないために、前へ出る五樹だった。
二葉は何も言えなかった。
五樹は一瞬だけ黙ってから、いつもの顔に戻そうとした。
けれど、少しだけ失敗した。
「……ごめん。斬るの、早かった?」
二葉は首を振る。
「ううん」
「まだ声、あった?」
「声じゃなかった」
二葉はゆっくり息を吐いた。
「触られたら、まずいやつだった」
「ならよかった」
五樹は軽く笑おうとする。
けれど二葉は、その笑顔の前に言った。
「五樹」
「なに?」
「ありがとう」
五樹は固まった。
「……今の、もう一回」
「言わない」
「録音すればよかった」
「さっきも言ってた」
「今日、録音案件多い」
二葉は少し笑った。
その笑いを見て、五樹はやっといつものように肩の力を抜いた。
けれど、完全には戻らない。
二葉もそれに気づいていた。
五樹は、普段は軽い。
誰より二葉に構ってほしがる。
二葉が自分を見るように、わざと甘える。
でもそれは、ただの甘えだけではない。
二葉が隠したい弱さを、隠すため。
誰かに気づかせないため。
そして、二葉に触れようとするものを、先に断つため。
五樹は、二葉の盾であり、剣だった。
境内の奥で、もう一度、水晶が鳴った。
澄んだ音だった。
さっきよりも、少しだけ低い。
二葉は顔を上げる。
五樹も社の奥を見る。
「今のは?」
二葉は静かに答えた。
「呼んでる」
「誰を」
「たぶん、私たちじゃない」
五樹の目が細くなる。
「じゃあ?」
二葉は、山の上へ向かう気配を感じていた。
昇る水。
降りる龍。
火の玉。
水の玉。
そして、大溜井の底で聞いた、戻れなかった声。
「下に沈んだものを、上へ返すための道」
五樹は黙って聞いている。
二葉は続けた。
「金櫻神社は、黒の原因じゃない」
「うん」
「でも、黒を流すためのヒントがある」
五樹は頷いた。
「じゃあ、来てよかったね」
「うん」
「デートでは?」
「下見」
「はい」
いつものやりとり。
けれど、二人の間に残る空気は、来る時とは少し違っていた。
二葉は五樹の手を見る。
素戔鳴斬を出した手。
今はもう何も持っていない。
けれど、二葉にはさっきの刃がまだ見える気がした。
荒くて、速くて、真っ直ぐで。
どこか、車内で流れていたパンクロックに似ていた。
「五樹」
「ん?」
「さっきの、五樹っぽかった」
五樹が瞬きをする。
「褒めてる?」
「褒めてる」
五樹は黙った。
それから、ゆっくり顔を逸らした。
「……今日、俺、帰り運転できないかも」
「して」
「二葉が褒めすぎるから」
「二回しか褒めてない」
「二回も」
二葉は笑った。
五樹も笑う。
山の空気が戻ってくる。
遠くから人の声が聞こえた。
鳥の声も戻った。
けれど、水晶の音だけは、まだ耳の奥に残っている。
帰り道。
深緑のラングラーへ戻る途中、二葉はふと振り返った。
金櫻神社の奥。
そこに見えない龍の気配がある。
昇るもの。
降りるもの。
流すだけでは足りない。
澄ませるだけでも足りない。
下に沈んだものを、上へ返す道が必要なのだ。
五樹がラングラーのドアを開けた。
「二葉、どうぞ」
「ありがとう」
「今日の俺、かなり紳士じゃない?」
「いつもよりは」
「いつもも紳士ですけど」
「五樹は五樹」
「それ褒めてる?」
二葉は助手席に乗りながら、少し考えた。
「褒めてる」
五樹は運転席側へ回りながら、小さく拳を握った。
その顔は見せない。
二葉に見られたら、たぶん笑われる。
エンジンがかかる。
スピーカーから、Millennium Punk Driveの続きが流れ出した。
ギターが跳ねる。
ドラムが走る。
五樹はハンドルを握った。
「帰る?」
二葉は窓の外を見た。
「一回、みんなに報告」
「了解」
「それから、もう一度来ることになると思う」
「二葉と?」
「たぶん全員で」
「そっか」
五樹は少し残念そうに言った。
二葉が横目で見る。
「五樹」
「なに?」
「また下見が必要なら、五樹に頼む」
五樹は前を向いたまま固まった。
数秒。
そして、妙に真面目な声で言った。
「安全運転で帰ります」
二葉は吹き出した。
深緑のラングラーが、山道を下っていく。
行きは、五樹だけが浮かれていた。
帰りは、二葉も少しだけ笑っていた。
けれど、二人とも知っている。
これは、ただの下見では終わらない。
昇仙峡の水音。
金櫻神社の水晶。
昇龍と降龍。
そして、二葉の指先に絡んだ黒い糸。
大溜井の底に沈んでいたものは、まだ完全には流れていない。
下へ沈んだ水は、上へ返る道を探している。
Wranglerの行方は、まだ終わっていなかった。




