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森口家の六つ子は、神様の後始末係です —龍神さまからのご指名—  作者: 織村蜜柑


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第十二話「小さな狛犬——虫の鳴かない夜」

水守家の資料は、思ったより少なかった。

蔵から出てきた古い紙。

水路の写し。

覚書。

木札。

水を受ける紋。

そのどれもが、肝心なところで言葉を濁していた。

水守家が、いつ途絶えたのか。

なぜ大屋敷跡だけが残ったのか。

何があって、役目が失われたのか。

書かれていない。

ただ、何度も出てくる言葉があった。


夜鳴きの境。


四葉は、縁側で資料を広げたまま、眉を寄せていた。

「夜鳴き?」

一樹が横から覗き込む。

「虫か、鳥か」

六樹がiPadに文字を打ち込む。

「周辺資料では、虫の声が急に止まる場所のことを指している可能性がある」

三樹が、赤飯弁当の空箱を片づけながら顔を上げた。

「虫が鳴かなくなる場所?」

「そう」


六樹は画面を見せる。

古い地図の端。

大屋敷跡から北西へ伸びる線。

水の道の記憶に近い方向。

そこから、さらに山側へ少し外れた場所に、小さな印がある。

水を受ける紋でもない。

小さな犬のような印。

四葉が目を細める。

「狛犬?」

「犬に見える」

六樹が短く言った。

五樹が横から覗く。

「犬って聞いた瞬間、六樹の声が少し上がった」

「上がってない」

「上がった」

「上がってない」

二葉が少し笑う。

「でも、犬の印なんだ」

六樹は少しだけ表情を緩めた。

「犬は境を守る。狛犬も、入口や境界の守り」

三樹が腕を組む。

「じゃあ、そこに行けばいいのか」

一樹がすぐに言う。

「昼に行く」

六樹は首を横に振った。

「たぶん、昼では分からない」

「なぜ」

「夜鳴きの境とある。虫の声が止まるなら、夜でないと確認できない」

一樹の眉が少し動いた。

「夜の現場はリスクが高い」

三樹が言う。

「俺が行く」

「お前は言うと思った」

「夜の山なら、俺の方が分かる」


それは、軽口ではなかった。

三樹は本能で動く。

空気の変化。

湿り気。

獣道。

風向き。

足元の違和感。

怪異の前兆。

そういうものを、説明する前に拾う。

一樹もそれを知っている。

だから、すぐには否定しなかった。


「六樹」

一樹が言う。

「行けるか」

六樹はiPadから顔を上げた。

「行く」

「即答だな」

「夜鳴きの境。犬の印。言葉で境を定める必要があるなら、僕が行った方がいい」

五樹が少しだけ目を細める。

「豆と菊は?」

六樹の手が止まった。

二葉も六樹を見る。

「連れて行くの?」

六樹はしばらく黙った。


それから、静かに言う。

「連れて行く」

一樹の顔が厳しくなる。

「危険だ」

「だから準備する」

「六樹」

「豆と菊が反応するなら、必要な情報が取れる。危険なら戻る。無理はさせない」

三樹が笑った。

「俺がいる」

六樹は三樹を見る。

「豆と菊の安全優先」

「おう」

「三樹の突撃より豆と菊の安全」

「分かってる」

六樹がじっと見る。

三樹が眉を寄せる。

「今回は本当に分かってる」

四葉が静かに言った。

「三樹の“分かってる”は、犬が絡むと少し信用度が上がる」

「なんだそれ」

「豆と菊を危ない目に遭わせない程度の理性はある」

「あるわ!」

二葉が頷く。

「三樹、犬には優しいしね」

三樹は少しだけ照れたように鼻をこすった。

「犬だけじゃねえけど」

五樹がすかさず言う。

「二葉に褒められて照れた」

「違う」

六樹が淡々と言う。

「照れた」

「六樹まで」


一樹は、全員を見た。

「行くのは三樹、六樹、豆と菊。俺たちは待機」

二葉が顔を上げる。

「私も——」

五樹がすぐに言う。

「二葉」

二葉は口を閉じた。

一樹が低く続ける。

「総大将は今回は待機」

「一樹」

「夜の山に二葉と三樹を同時に出すと、アクセルが増える」

三樹が不満そうにする。

「俺だけなら?」

「六樹がブレーキになる」

六樹が頷く。

「言葉で止める」

三樹が少し嫌そうな顔をした。

「止められる前提かよ」

四葉が言う。

「実績」

五樹は二葉の横に立った。

「二葉は家で待とう。もし何かあったら、戻る場所が必要」

二葉は黙った。


前なら、行くと言っていた。

自分も見ないといけないと思っていた。

でも、祖母に言われたばかりだった。

前に出るなら、戻る場所を持って出なさい。

今日は、自分が戻る場所になる番かもしれない。


二葉は小さく息を吐く。

「……分かった」

六樹が見る。

二葉が先に言う。

「信用度低いって言わない」

六樹は一拍置いた。

「未発言」

五樹が笑った。

「言う気だったでしょ」

「少し」

「認めるんだ」


その夜。

三樹は、ラングラーに荷物を積み込んだ。

テント。

ランタン。

水。

簡易コンロ。

救急セット。

防寒具。

ロープ。

手袋。

豆と菊の水。

豆と菊のご飯。

折りたたみ皿。

タオル。

犬用ライト。

予備のバンダナ。

AirTag確認用のiPhone。

ペット用の救急セット。

そして、六樹が持ち込んだ機材一式。


三樹は荷物の量を見て言った。

「豆と菊の荷物、多くね?」

六樹は当然の顔で答える。

「必要」

「俺のより多い」

「三樹は忘れる。豆と菊は忘れない」

「俺の扱い」

「実績に基づく評価」

「それ、今日何回聞いた?」

「必要な回数」


二葉は、玄関先で豆と菊のバンダナを整え、ドライブ用のハーネスを着せていた。

豆は赤い首輪に唐草模様のバンダナ。

菊はテラコッタカラーの首輪に菊柄のバンダナ。

ハーネスには、それぞれ小さなAirTagも付いている。

二匹とも、いつもより少し凛々しく見える。

「豆、菊。六樹の言うこと聞いてね」

豆が、わふ、と鳴いた。

菊が、きゅ、と返す。

六樹はしゃがみ、二匹のハーネスの留め具を確認した。

「緩みなし。位置、問題なし」

五樹が横から覗く。

「六樹、出発前点検が車より豆菊優先」

「当然」


三樹はラングラーの運転席に乗り込む。

「じゃ、行ってくる」

一樹が腕を組んで言った。

「現地確認だけ。異変が強ければ戻れ」

「分かってる」

六樹が助手席で言う。

「一回目」

「出発前から数えるな!」

四葉が玄関から言う。

「豆と菊の前では落ち着いて」

「分かってるって」

六樹がまた口を開きかける。

三樹が先に言う。

「今のは同じ分かっただから一回扱いな」

「分類上は別」

「やめろ」

二葉は、少しだけ心配そうに見ていた。

三樹がそれに気づく。

「二葉」

「なに?」

「大丈夫。豆と菊は守る」

六樹が静かに言う。

「豆と菊が、守る側かもしれない」

三樹は少しだけ笑った。

「じゃあ、俺は補助だな」

一樹が少し目を細める。

「それでいい」

五樹が二葉の横で言う。

「ほら、三樹にしては分かってる」

「三樹にしては、は余計だろ」

三樹はそう言って、ラングラーを出した。


深緑の車が、夜の道へ滑り出す。

豆と菊は後部座席の専用スペースで、並んで座っている。

玄関の灯りが、少しずつ遠ざかった。

三樹は、ハンドルを握りながら言う。

「六樹」

「なに」

「豆と菊、落ち着いてるか」

六樹は後ろを確認する。

「落ち着いてる。豆は外を見てる。菊は豆を見てる」

「菊、豆好きだな」

「仲がいい」

「お前に似たんじゃね?」

「どういう意味」

「好きなものはちゃんと見るとこ」

六樹は、少しだけ黙った。

「……運転に集中して」

「照れた?」

「照れてない」

「照れてる」

「照れてない」

後部座席で、豆が小さく鳴いた。

菊も続く。

三樹は笑った。

「ほら、豆と菊もそう言ってる」

「言ってない」

「言ってる気がする」

「気で翻訳しないで」


道は、少しずつ山側へ入っていく。

昼間に通ると、ただの林道に見える道。

けれど夜になると、空気が違う。

ヘッドライトが照らす範囲だけが世界になる。

その外は、黒い。

木々の影が長い。

道端の草が揺れる。

風が車体を撫でる。


三樹は、少し窓を開けた。

六樹がすぐに言う。

「寒い」

「匂い見る」

「匂いは見るものではない」

「さっきも言われた」

「改善されていない」

三樹は、鼻で空気を拾う。

湿った土。

木の葉。

川ではない水。

古い石。

獣の気配。

そして、少しだけ。

「……乾いてる」

六樹が顔を上げる。

「水の場所なのに?」

「うん。湿ってるのに、乾いてる」

「矛盾」

「でも、そうなんだよ」

六樹はiPadに打ち込む。

「湿度あり。感覚上は乾燥。三樹の異常検知」

「なんかかっこよくなったな」

「表現の問題」

「俺の勘って書いとけよ」

「身体感覚による異常検知」

「硬い」


目的地は、山の中腹にある小さな広場だった。

古い地図では、そこに印がある。

犬のような印。

夜鳴きの境。

現在の地図には、何もない。

三樹はラングラーを広場の手前で停めた。

「ここから歩く」

六樹は頷き、豆と菊のリードを確認した。

「豆。菊。降りる」

豆は先に、三樹が抱えて地面へ下ろした。

降りた瞬間、軽く跳ねるように足元を確かめる。

六樹は菊を両腕で抱き上げ、ゆっくり地面へ下ろした。

「足元、確認」

菊は一度だけ六樹を見上げ、それから静かに地面を踏んだ。

夜の空気に触れた瞬間、二匹の耳が立った。

三樹も、それに気づいた。

「反応したな」

「うん」

六樹の声が少し低くなる。

「まだ警戒ではない。確認してる」

「犬のことになると、声が詳しいな」

「必要」


広場には、草が生えていた。

真ん中に、古い石が二つ並んでいる。

狛犬ではない。

石像でもない。

ただの石に見える。

けれど、豆と菊はその前で止まった。

豆が、石の右側へ。

菊が、石の左側へ。

まるで、最初からそこに立つ役目があるかのように。


六樹の表情が変わった。

「……位置を取った」

三樹が小声で言う。

「狛犬みたいだな」

豆が、低く鼻を鳴らした。

菊も同じ方向を見る。

広場の奥。

木々が密になっている場所。

そこから、虫の声が聞こえていた。


り、り、り。


細い音。

夜の山に、当たり前にある音。


三樹は、荷物を下ろした。

「ここで見るか」

「テントは簡易でいい。長居しない」

「了解」

「豆と菊の水を先に」

「はいはい」

六樹は豆と菊の水皿を置く。

二匹は少しだけ水を飲んだあと、また同じ方向を見た。


三樹はランタンをつける。

暖かい光が、広場に小さな輪を作った。

その内側だけ、少し人の場所になる。

六樹はiPadを開き、記録を始めた。

「時刻、二十一時三十二分。虫の声あり。風、弱い。豆と菊、北東方向を警戒」

三樹は焚き火台を組み立てながら言う。

「火、使うぞ」

「最小限」

「分かってる」

六樹が見た。

三樹が即座に言う。

「未記録で」

「保留」

「また保留かよ」


小さな火がついた。

ぱち、と薪が鳴る。

その音に、少しだけ安心する。

三樹は小さな鍋で湯を沸かし、簡単なスープを作った。

肉は少なめ。

六樹に事前に釘を刺されていたからだ。

「三樹」

「分かってる。肉の匂いで獣を呼ばない程度」

「よし」

「俺だって考える時は考える」

「持続性に課題」

「一言多い」

六樹は豆と菊のご飯を出す。

「豆。菊。食べる?」

豆は少しだけ匂いを嗅ぎ、食べた。

菊も続く。

「食欲あり。過度な警戒ではない」

「犬の健康記録も完璧だな」

「当然」

三樹はスープを飲みながら、周囲を見た。

夜の山。

火の音。

虫の声。

豆と菊の小さな息遣い。

それだけなら、普通のキャンプだった。

三樹がソロキャンに来た時のような。

少し不便で、でも自由な夜。


「六樹」

「なに」

「キャンプ、思ったよりいけるだろ」

「準備が十分なら」

「それはキャンプの半分くらい損してる」

「損?」

「忘れ物して、どうにかするのもキャンプ」

「三樹の忘れ物を美化しないで」

「美化じゃない。対応力」

「事前準備不足」

「言い方」

六樹は、湯を沸かし直した。

「紅茶を淹れる」

三樹が少し驚く。

「ここで?」

「環境が変わっても、条件を整えれば味は保てる」

「お前、本当に紅茶好きだな」

「好き」

「二葉も、六樹の紅茶好きだよな」

六樹の手が一瞬だけ止まる。

「二葉は、香りをちゃんと分かる」

「嬉しいんだろ」

「……うん」

三樹は笑った。

「素直じゃん」

「三樹には言いやすい」

「なんで?」

「言っても深く追及しないから」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんかよ」


豆が火のそばで丸くなる。

菊は六樹の足元に座る。

六樹は、二匹の頭を撫でた。

「良い子。豆、良い子。菊、良い子」

その声だけは、いつもよりずっと分かりやすい。

三樹はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。

「二葉が見たら、六樹かわいいって言うな」

六樹はすぐに返す。

「言わない」

「言う」

「言わない」

「絶対言う」

「……言うかもしれない」

「認めた」

六樹は紅茶を注いだ。

「飲む?」

「飲む」

「熱い」

「分かってる」

「三樹の分かってるは」

「今は紅茶だから大丈夫」

「根拠がない」

それでも、六樹は三樹のカップにも紅茶を注いだ。

湯気が上がる。

夜の山で飲む紅茶は、少し不思議な味がした。

家で飲むより、香りがはっきりしている。

冷たい空気の中で、温かさだけが輪郭を持つ。

三樹は一口飲んで、少し目を丸くした。

「うまい」

六樹は、ほんの少しだけ満足そうにした。

「当然」

「二葉が褒めるの分かるわ」

六樹は黙った。

その沈黙は、嫌ではなさそうだった。


虫の声は、まだ続いている。


り、り、り。


細く。

重なり。

夜を満たしている。


三樹は、紅茶を飲みながら耳を澄ませた。

六樹はiPadを見ている。

豆と菊は、眠ってはいない。

目を細めているが、耳は動いている。


時間だけが過ぎる。

二十二時。

二十二時半。

二十三時。

虫の声は変わらない。


三樹が言う。

「何も起きないな」

六樹は画面から目を離さない。

「起きないなら、それも記録」

「帰る?」

「まだ」

「根拠は?」

「豆と菊が寝ていない」

三樹は二匹を見る。

確かに、豆と菊は眠っていなかった。

火のそばで丸くなっている。

でも、身体の向きは変わっていない。

ずっと、広場の奥を向いている。


三樹の背中に、少しだけ冷たいものが走る。

「……来るな」

六樹が顔を上げた。

「分かる?」

「空気が、薄くなった」

「薄い?」

「音が遠い」


その直後だった。

り、り、り。

鳴いていた虫の声が、ふっと消えた。

一匹ずつではない。

全部。

一瞬で。

火の音だけが残った。

ぱち。

薪が鳴る。

風がない。

葉も揺れない。


豆が立ち上がった。

菊も立ち上がる。

二匹は、同じ方向を向いた。

広場の奥。

木々の間。

夜が、そこだけ濃くなっている。

豆が、低く唸った。

菊も続く。

かわいい声ではない。

小さな身体の奥から出る、境を守る音。


六樹の顔から、完全に緩さが消えた。

「三樹」

「分かってる」

三樹はゆっくり立ち上がった。

「触らない。前に出すぎない。豆と菊の前には出ない」

六樹が一瞬だけ三樹を見る。

「……よし」

「褒められた?」

「確認」

「それでもいい」

六樹は、豆と菊の名を呼んだ。

「豆」

豆の耳が動く。

「菊」

菊の尻尾が、ぴんと立つ。

六樹の声が、低く落ちる。

「ここにいる」

空気が変わる。

名前が、夜に刺さる。

「豆。菊。森口の犬」

二匹の小さな身体の周りに、見えない輪郭が立つ。

三樹は、それを肌で感じた。

これは、ただの犬じゃない。

もちろん豆と菊は犬だ。

六樹が溺愛する豆柴で、SNOOPYのお菓子よりも優先される存在で、二葉に撫でられると六樹まで嬉しくなる、森口家のマスコット。

でも、それだけじゃない。

ここに立つ時、二匹は境を守る。

小さな狛犬になる。

六樹が続けた。

「ここは森口の火の内」

火が、ぱちりと鳴った。

「豆と菊の守る場所」

豆が一歩、前に出る。

菊も並ぶ。

「入るな」

その言葉に、奥の黒が揺れた。

木々の間に、何かがいた。

人ではない。

獣でもない。

黒い水が、立っているような形。

足元がない。

顔もない。

ただ、濡れた影のように、そこにある。


三樹の喉が鳴る。

「黒か」

六樹は答えない。

iPadも見ない。

記録も取らない。

ただ、豆と菊を見ている。

黒が、ゆっくり近づく。

地面を這わない。

歩かない。

音もない。

ただ、虫の声が消えた夜の中を、こちらへ滲んでくる。


三樹は身体が前へ出そうになるのを、足で止めた。

今は、豆と菊が前だ。

三樹の役目は、飛び込むことではない。

「右に来る」

三樹が言った。

六樹はすぐに声を出す。

「豆」

豆が右へ走る。

黒が、そこへ流れようとして止まる。

「左下」

三樹が続ける。

「菊」

菊が左へ回り込む。

黒が地面に沈みかけたところで、菊が吠えた。


一声。


夜が震える。


豆も吠えた。


二匹の声が重なった。


見えない線が、広場の奥に引かれる。

黒は、その線を越えられない。

三樹は思わず笑った。

「すげえな、お前ら」

六樹の声は、低い。

「油断しない」

「分かってる」

「今のは信じる」

「やっとかよ」

黒が膨らんだ。

虫の声のない空気が、さらに重くなる。

火が小さく揺れる。

黒の中から、音がした。


ぴちゃ。


水音。

けれど、大溜井の音でも、大屋敷跡の乾いた音でもない。

これは、もっと細い。

誰かが夜の中で、濡れた足で歩くような音。

三樹が眉を寄せる。

「人?」

六樹が小さく首を振る。

「声を借りようとしている」

「水守家?」

「分からない。でも、名がない」


黒がまた揺れる。

その奥から、かすかな声がした。


——みずを。


三樹の表情が変わる。

「またか」

——みずを。

六樹は、一歩だけ前に出た。

三樹が反射的に手を伸ばす。

「六樹」

「大丈夫」

「お前の大丈夫も信用できねえぞ」

六樹は、少しだけ振り返った。

「近づかない。声を置く」

「……分かった」

六樹は黒を見た。

「名を持たないもの」

黒が震える。

「水を求める声を借りるもの」

豆と菊が、低く唸る。

「ここは、お前の入口ではない」

黒が広がろうとする。

「ここは、森口の火の内」

六樹の声は大きくない。

けれど、はっきりしている。

「豆と菊が守る境」

豆が吠える。

菊が吠える。

黒が下がる。

三樹は、その瞬間を見逃さなかった。

「今、引いた」

「うん」

「名前が効いてる」

「名前と場所」

六樹は続ける。

「水を求めるなら、水の道へ行け」

黒が揺れる。

「楯無堰。宗貞堰。立石堰」

その名を呼んだ瞬間、広場の奥の空気が変わった。

虫の声はまだ戻らない。

でも、木々の間に細い流れができる。

見えない水路の気配。


三樹は肌で分かった。

「あっちだ」

六樹が頷く。

「道を示す」

三樹は地面の砂を蹴った。

黒の前に、細い乱れを作る。

触れない。

ただ、流れを横へ逸らす。


豆が右から吠える。

菊が左から吠える。

六樹が名を呼ぶ。

「豆。菊。守れ」

二匹が同時に前へ出る。

小さい。

あまりにも小さい。

それなのに、黒はその二匹を越えられない。

三樹の胸の奥が熱くなる。

「本当に狛犬だな」

六樹は短く言う。

「豆と菊は、森口の犬」

それだけで、十分だった。


黒が、少しずつ薄くなる。


ぴちゃ。


水音が一度、遠くで鳴った。

近づく音ではない。

離れる音。

黒は、木々の奥へ引いていく。

完全に消えたわけではない。

けれど、広場からは離れた。


豆が最後に一声吠える。

菊も続く。

その瞬間——


り。


虫が鳴いた。

一匹。

それから、別の虫が応える。

り、り。

少しずつ、夜に音が戻る。


三樹は、長く息を吐いた。

「戻った」

六樹は豆と菊のそばにしゃがむ。

「豆。菊」

二匹が振り返る。

「戻って」

豆と菊は、六樹の足元へ駆け戻った。

六樹は二匹を抱きしめるように撫でた。

「良い子。豆、良い子。菊、良い子」

声が、さっきまでとはまったく違う。

分かりやすく、柔らかい。

豆が尻尾を振る。

菊が六樹の手に鼻を押しつける。

三樹はその場に座り込んだ。

「……腹減った」

六樹が顔を上げる。

「今?」

「緊張した」

「動いてない」

「足で砂蹴った」

「消費量は少ない」

「精神的に腹減った」

六樹は少しだけため息をついた。

「スープ、残ってる」

「食う」

「豆と菊が先」

「分かってる」

六樹は一拍置いた。

「今のは信用できる」

「よし」

三樹は笑った。


火のそばに戻ると、広場の空気は少しだけ変わっていた。

さっきまでの重さは薄い。

虫の声も戻っている。

火も普通に鳴っている。

だが、完全に安全になったわけではない。

広場の奥には、まだ黒の気配が残っている。

薄く。

遠く。


六樹はiPadを開き直した。

「記録する」

「今から?」

「必要」

「さっき記録取ってなかったよな」

「取れなかった」

三樹は六樹を見る。

六樹は画面を見たまま言った。

「名前を呼ぶ方を優先した」

三樹は少しだけ笑う。

「いいじゃん」

六樹の指が止まる。

「そう?」

「おう。今日は記録より、豆と菊だった」

六樹は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「うん」

三樹はスープを温め直しながら言う。

「豆と菊、現場メンバーだな」

六樹はすぐに答えた。

「条件付き」

「条件多そう」

「安全確保。移動手段。水分。休憩。足元の確認。穢れとの距離。帰宅後の洗浄。ストレスチェック」

「多い」

「必要」

「でも、メンバー入りは否定しないんだな」

六樹は豆と菊を見た。

二匹は火のそばで丸くなっている。

けれど、顔はまだ広場の奥へ向いている。

「豆と菊が行くと言うなら」

三樹は笑った。

「お前、本当に犬には甘いな」

「事実を尊重しているだけ」

「はいはい」


虫の声が、また夜を満たしていく。

三樹はスープを食べ、六樹は紅茶を淹れ直した。

豆と菊には、犬用のご飯と水。


そのあと、六樹は森口家へ短い連絡を入れた。

一樹へ。

異変確認。黒の侵入を豆と菊が阻止。虫の声、回復。負傷なし。夜鳴きの境は、水の道の記憶へ反応。

すぐに返信が来た。

了解。無理せず戻れ。

続いて、二葉からメッセージが来た。

豆と菊、大丈夫? 六樹と三樹も大丈夫?

六樹は少しだけ画面を見つめた。

三樹が覗き込む。

「二葉?」

「うん」

「返せよ。心配してる」

六樹は短く打った。

豆と菊は良い子。三樹も無事。僕も大丈夫。

しばらくして、五樹からも来た。

「三樹も無事」がついでみたいで笑った。二葉が安心してる。早く帰ってきなよ。

三樹が笑う。

「俺、ついでかよ」

六樹は真顔で言った。

「事実順」

「豆菊が一番か」

「うん」

「まあ、いいけど」

四葉からは、一文だけ来た。

小さな狛犬、記録名これでいい。

三樹が吹き出した。

「四葉、もう記録名つけてる」

六樹は少しだけ画面を見て、呟いた。

「悪くない」

「気に入った?」

「豆と菊に合ってる」


その夜、二人と二匹は、長居せずに撤収した。

三樹は火を完全に消し、灰を確認する。

六樹は豆と菊の足元を確認し、バンダナに汚れがないかを見る。

豆と菊は、最後まで広場の奥を気にしていた。

車に乗る前、三樹は一度だけ振り返った。

虫の声は戻っている。


けれど、夜の奥で、水音がした。


ぴちゃ。


遠い。

呼ぶ音ではない。

入口を探る音でもない。

どこかへ流れていく前の、確認のような音。


六樹が言う。

「次は、水の道を整理する必要がある」

「楯無堰も関係あるか?」

「たぶん。でも、まだ直接じゃない」

三樹は運転席に乗った。

豆と菊は後部座席で丸くなる。

六樹は助手席で、二匹の様子を確認してからシートベルトを締めた。

帰り道、三樹は少しだけ静かだった。


六樹が聞く。

「眠い?」

「いや」

「疲れた?」

「腹は減った」

「それは知ってる」

三樹は夜の道を見ながら言った。

「豆と菊、小さいのにすげえな」

六樹は後ろを見る。

「うん」

「お前が名前呼んだから、立てたんだろ」

六樹は少し黙った。

「名前は、そこにいることを定める」

「難しいな」

「豆は豆。菊は菊。森口の犬。そう呼ぶと、役目が定まる」

三樹はゆっくり頷いた。

「じゃあ、俺らもそうか」

「何が」

「三樹は三樹。一樹は一樹。二葉は二葉。四葉は四葉。五樹は五樹。六樹は六樹。森口の六つ子」

六樹の手が止まった。

三樹は前を見たまま続ける。

「そう呼ばれるから、立てる場所があるんだろ」

六樹は、すぐには答えなかった。

夜道の先に、森口家の方角がある。

帰る場所。

名前を呼ぶ人たちがいる場所。

「……そうかもしれない」

六樹は小さく言った。

三樹が笑う。

「俺、たまにいいこと言うだろ」

「たまに」

「そこは普通に褒めろよ」

「今のは良かった」

三樹は満足そうに笑った。

「よし」


森口家に戻ると、玄関の明かりがついていた。

二葉が出てきた。

「おかえり」

三樹は、急に肩の力が抜けた。

「ただいま」

六樹も降りる。

「ただいま」

三樹が豆を抱えて地面へ下ろし、六樹が菊をゆっくり抱き下ろすと、二葉はすぐにしゃがんだ。

「豆、菊、おかえり。ちゃんと守ってくれたんだね。大活躍だったね」

豆が尻尾を振る。

菊が二葉の膝に前足をかける。

六樹が、ほんの少しだけ誇らしそうに言う。

「大活躍だった」

二葉は六樹を見る。

「六樹も」

六樹は固まった。

「……僕?」

「うん。おかえり。頑張ったね」

六樹は、少しだけ目を伏せた。

「……ただいま」

五樹が玄関の中から顔を出す。

「六樹、二葉に褒められて照れてる」

「照れてない」

三樹が言う。

「照れてる」

四葉も奥から出てきた。

「記録対象」

「しなくていい」

一樹が玄関の奥で腕を組んでいる。

「無事ならいい」

三樹がすぐに言う。

「腹減った」

一樹はため息をついた。

「無事だな」

二葉が笑う。

「おにぎりあるよ」

三樹の顔が明るくなる。

「二葉、神」

一樹が即座に言う。

「神社の家でその言い方やめろ」

五樹が笑った。

「じゃあ、総大将」

「五樹」

六樹は豆と菊の足を拭きながら、静かに言った。

「小さな狛犬」

二葉が振り返る。

「豆と菊?」

「うん」

四葉が頷いた。

「確定」

豆が、わふ、と鳴いた。

菊が、きゅ、と鳴く。

まるで、自分たちの役目を分かっているように。


夜はまだ深い。

黒は消えていない。

水守家の記憶も、楯無堰の道も、これからもっと深くなる。

でも、森口家には帰る場所がある。

名前を呼ぶ人がいる。

豆。

菊。

三樹。

六樹。

一樹。

二葉。

四葉。

五樹。

呼ばれたものは、ここに立てる。

六樹は、豆と菊の頭をもう一度撫でた。

「良い子」

その声に、玄関の空気が少しだけ柔らかくなった。


遠くで、かすかに水音がした。


ぴちゃ。


けれど、今夜はもう、家の中には入ってこなかった。

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