第十一話「お赤飯弁当と古い紋」
大屋敷跡から戻ったあと、森口家の居間には、しばらく誰も座らなかった。
理由は簡単だった。
三樹が、栗まんじゅうを探していたからだ。
「ない」
三樹が言った。
「ないんだけど」
「あるよ」
二葉が台所から答える。
「どこに」
「今出す」
「今すぐ?」
「手洗ってから」
「洗った」
「もう一回」
「なんでだよ」
「大屋敷跡行ったから」
三樹は少し考えたあと、素直に洗面所へ向かった。
五樹がそれを見て笑う。
「二葉の言うことは聞くんだよね」
一樹が甚平の袖をまくりながら言った。
「言うことを聞くまでの手順が長いけどな」
六樹はiPadを開いて、さっきの記録を整理している。
四葉はその横に座り、みどり豆の袋を開けかけて——止めた。
二葉が気づく。
「四葉、食べないの?」
「今は資料見る」
「珍しい」
「大屋敷跡、気になる」
四葉の声は静かだった。
二葉は少しだけ目を細める。
「水が届かなかった場所?」
「それも。でも、屋敷跡の石垣にあった」
「何が?」
「紋」
一樹の動きが止まった。
「紋?」
四葉は頷き、スマホを出した。
「写真撮った」
六樹がすぐに画面を見せる。
「共有済み」
五樹が覗き込む。
「仕事早」
「記録担当だから」
画面には、苔のついた石が映っていた。
大屋敷跡の奥、崩れた石垣の一部。
その中央に、薄く彫られた印がある。
丸い輪。
その中に、流れるような線が三つ。
水紋にも見える。
葉にも見える。
あるいは、古い文字のようにも見える。
一樹が画面に顔を近づける。
「これ……見たことあるな」
四葉が頷いた。
「私も。家の蔵の古い箱に似た意匠があった」
「蔵?」
二葉が聞く。
「刀剣乱舞関連で家紋とか古い意匠を調べてた時に見た」
五樹が小さく笑う。
「推し活が本筋に接続してる」
四葉は真顔で言った。
「推し活は知識基盤」
「強い」
一樹はスマホを見たまま、少し考え込んだ。
「じいちゃんに聞く」
「呼んでくる?」
二葉が言うと、一樹は首を横に振った。
「いや。こっちから行く」
三樹が洗面所から戻ってきた。
「栗まんじゅうは?」
二葉が小皿を出す。
「はい」
三樹の顔が明るくなる。
五樹がすかさず言う。
「二葉、俺の半分こは?」
「あるよ」
「やった」
一樹はその二人を見て、ため息をついた。
「緊張感があるのかないのか」
四葉が言う。
「森口家は、食べながら考える」
六樹が頷く。
「血糖値は判断に影響する」
「お前ら、こういう時だけ理屈をつけるな」
その時、奥から祖母の葉月の声がした。
「一樹」
「はい」
「おじいちゃんが、蔵へ行くなら先にご飯を食べてからにしなさいって」
一樹は少しだけ目を閉じた。
「聞こえてたか」
祖父の樹蔵の声が続く。
「聞こえるように話しておったろう」
五樹が笑う。
「じいちゃん、全部お見通し」
三樹が栗まんじゅうを頬張りながら言う。
「じゃあ飯?」
祖母が台所から顔を出す。
「今日は、お赤飯のお弁当にしましょうか」
三樹の目が輝いた。
「赤飯?」
「甘納豆赤飯ね」
「ばあちゃん、神」
一樹が即座に言う。
「神社の家でその言い方やめろ」
祖父の声が奥から返る。
「葉月は神みたいなものだ」
一樹は頭を抱えた。
「じいちゃんまで」
二葉が笑った。
その笑いを見て、五樹が少しだけ表情を緩める。
大屋敷跡の乾いた空気は、まだ少し身体に残っている。
水が届かなかった場所の記憶。
黒い糸。
乾いた水音。
けれど、台所から甘納豆赤飯の匂いがすると、それが少しずつ薄くなっていく。
森口家は、こうやって戻る。
怖い場所へ行っても。
黒を見ても。
流れ損ねた声を聞いても。
家に戻れば、飯がある。
お茶がある。
祖母の声がある。
二葉が弁当箱を並べる。
五樹が当然のように隣で箸を揃え、包み布を広げる。
三樹が赤飯を待ちきれず、台所を覗く。
四葉が写真を見ながら資料検索を始める。
六樹がiPadで古い地図を重ねる。
いつもの光景。
なのに、その中に黒は入ってこられない。
一樹は小さく息を吐いた。
「生活がある場所は強い、か」
二葉が振り返る。
「一樹?」
「いや」
一樹は少しだけ笑った。
「じいちゃんの言うこと、分かるなと思って」
二葉は頷いた。
「うん」
三樹が台所から言う。
「ばあちゃん、俺の大盛り?」
「もちろん」
「よし」
一樹はすぐに現実へ戻された。
「三樹、大盛り前提で話すな」
「前提だろ」
「違う」
祖母が笑う。
「一樹の分も少し多めにしておくわね」
一樹は黙った。
五樹がにやりとする。
「兄貴も大盛り組」
「俺は普通でいい」
二葉が言う。
「一樹、疲れてるから食べた方がいいよ」
「……じゃあ、少し」
五樹が笑った。
「二葉に言われると弱い」
「お前ほどじゃない」
「俺は二葉に弱い自覚あるから」
「堂々と言うな」
甘納豆赤飯は、小さな弁当箱に詰められた。
祖母が言うには、庭先の縁台で弁当を広げながら確認した方が、気が滞らないらしい。
三樹は大盛り。
一樹は少し多め。
二葉と五樹は同じくらい。
四葉は食べやすい量。
六樹は控えめだが、祖母が小さな甘い豆を少し多く入れていた。
六樹はそれを見て、少しだけ目を伏せた。
「ばあちゃん」
「なあに?」
「ありがとう」
祖母は柔らかく笑った。
「どういたしまして」
一樹は、その祖母の笑顔を見て、ふと思い出した。
昔、六つ子がまだ小学生だった頃のことだ。
近所の蔵の戸が壊れた。
庭の鉢が割れた。
誰かが用水路のそばで騒いでいた。
それだけで、六人は呼び止められた。
「森口さんちの子たちでしょう」
「六人でいたんだから、誰かがやったんじゃないの」
「正直に言えば怒らないから」
怒らないと言う大人の声ほど、子どもには怖いものがない。
一樹は、どう説明すればいいのか考えていた。
三樹は今にも前に出そうだった。
四葉は唇を結んでいた。
五樹は、誰が何を見て、何を見ていないのかを必死に読んでいた。
六樹は、一樹の袖を握っていた。
その前に、二葉が出た。
小さな背中だった。
けれど、その背中は六人分を隠そうとしていた。
「やってません」
声は大きくなかった。
でも、はっきりしていた。
「私たちは、やってません」
大人たちが、少し困ったような顔をした。
「でもね、二葉ちゃん」
「誰かを庇ってるんじゃないの」
二葉の手が、ぎゅっと握られた。
その時だった。
「では、どなたが見たんですか」
柔らかい声だった。
けれど、その場の空気が止まった。
祖母が立っていた。
いつものように穏やかな顔で、少しだけ首を傾げている。
「この子たちが壊したところを、どなたがご覧になったんですか」
誰も答えなかった。
祖母は一歩、前へ出た。
「見ていないのに、六人でいたからと決めつけたんですか」
声は荒くない。
怒鳴ってもいない。
けれど、誰も口を挟めなかった。
「この子たちは、悪さをしない子です、とは言いません」
「子どもですから、失敗もします。叱られることもあります」
祖母は、二葉の前に立った。
「けれど、やっていないことを背負わせてよい理由にはなりません」
一樹は、その時の祖母の声を今でも覚えている。
怒りを、怒鳴り声にしない人だった。
怒りを、筋に変える人だった。
たぶん二葉は、そこが祖母に似た。
「一樹?」
二葉の声で、一樹は我に返った。
祖母は、何もなかったように弁当箱の包みを整えている。
今でこそ穏やかに笑っているが、昔から祖母は強い。
そして、その強さはたぶん、二葉の中にもある。
一樹は小さく息を吐いた。
「いや。ばあちゃんは、やっぱり強いなと思って」
祖母は楽しそうに笑った。
「あら、今さら?」
三樹が赤飯を持ったまま言う。
「ばあちゃんは昔から最強だろ」
五樹が頷く。
「森口家女子の原点」
二葉が五樹を見る。
「何それ」
「褒めてる」
四葉が静かに言った。
「二葉、ばあちゃん似」
六樹も短く頷く。
「同意」
二葉は少しだけ困ったように祖母を見た。
祖母は、ただ柔らかく笑っていた。
五樹が小声で言う。
「六樹、甘やかされてる」
「事実」
「否定しないんだ」
「否定する理由がない」
二葉がそのやり取りを見て、少し笑う。
「六樹、甘納豆好きだもんね」
「好き」
「知ってる」
六樹は少しだけ黙った。
「二葉も、覚えてる」
「うん。覚えてるよ」
五樹が横で言う。
「二葉、六樹に甘い」
二葉が五樹を見る。
「五樹にも甘いでしょ」
五樹は一瞬で明るくなった。
「今の、もう一回」
「言わない」
「録音すればよかった」
六樹が淡々と言う。
「必要なら記録する」
「六樹、それは頼む」
「断る」
「なんで」
「二葉の私的発言」
「急にガード堅い」
四葉が赤飯を受け取りながら言った。
「六樹も二葉に甘い」
六樹は否定しなかった。
一樹はその光景を見て、また少しだけため息をつく。
「森口家、二葉中心に回りすぎだろ」
三樹が赤飯を持ったまま言う。
「総大将だからな」
二葉が即座に見る。
「三樹」
「元・影の特攻隊長」
「三樹」
四葉が静かに続ける。
「現・生活担当総大将」
「四葉まで」
五樹が笑う。
「俺は総大将補佐」
「勝手に役職つけないで」
六樹が短く言う。
「機能としては正しい」
「六樹」
一樹は諦めたように言った。
「もういい。総大将と補佐も来い。蔵へ行くぞ」
「一樹まで!」
その声に、祖母が楽しそうに笑った。
森口家の蔵は、古い家のさらに奥にあった。
今は頻繁に使うわけではない。
だが、手入れはされている。
白壁。
重い扉。
古い木の匂い。
湿気と紙と、少しだけ土の匂い。
一樹が鍵を開ける。
三樹が覗き込む。
「こういうとこ、ちょっとわくわくするな」
四葉が即座に言う。
「資料の宝庫」
五樹が肩をすくめる。
「四葉、目が本気」
「当然」
六樹が湿度計を確認する。
「湿度、やや高い」
一樹が言う。
「資料を出したら長居しない」
「了解」
二葉は蔵の入口で一度足を止めた。
蔵の中は、静かだった。
黒い気配はない。
けれど、古いものがたくさん眠っている場所の重さがある。
五樹が横に立つ。
「二葉?」
「大丈夫」
五樹が少し眉を上げる。
二葉は言い直した。
「怖くはない。けど、ちゃんと入る」
「よし」
五樹は頷いた。
「横にいる」
「うん」
樹蔵も杖をついて蔵の前まで来ていた。
「奥の棚、右から三番目」
一樹が振り返る。
「じいちゃんも来るのか?」
「案内だけだ」
「無理するなよ」
樹蔵は少しだけ笑う。
「わしを年寄り扱いするな」
「年寄りだろ」
三樹が言った瞬間、一樹が三樹の頭を軽く叩いた。
「言い方」
祖母が後ろで笑う。
「樹蔵さん、ほどほどにね」
樹蔵は素直に頷いた。
「分かっている」
五樹が小声で言う。
「じいちゃん、ばあちゃんには素直」
一樹も小声で返す。
「森口家男子の原点だな」
二葉が聞こえていたらしく、少しだけ笑った。
蔵の中から、一樹と四葉が古い木箱を運び出した。
箱には布がかけられている。
その布の端にも、同じような紋が入っていた。
丸い輪。
流れる線が三つ。
四葉が目を細める。
「これ」
一樹が頷く。
「大屋敷跡の石と同じか」
六樹が写真を重ねる。
「一致率、高い。ただし、こちらの方が線が整っている」
三樹が覗き込む。
「何の紋なんだ?」
樹蔵が縁台に腰を下ろした。
「水を受ける紋だ」
全員が樹蔵を見る。
「受ける?」
二葉が聞く。
樹蔵は頷いた。
「水はただ流せばいいものではない。受ける場所がなければ、暴れる。受けすぎれば、腐る。流しすぎれば、枯れる」
一樹が静かに言う。
「道と受け皿」
「そうだ」
樹蔵は木箱を見た。
「昔、この辺りの水は難しかった。届かぬ場所には届かず、集まる場所には集まりすぎる。人は道を作った。堰を作った。溜井を作った」
四葉が続ける。
「楯無堰」
「そうだ」
樹蔵の声が少し低くなる。
「だが、水の道を作るということは、水の恨みも動かすということだ」
風が、庭を抜けた。
三樹が赤飯を食べる手を止める。
「水の恨み?」
「水が来なかった者。水を奪われたと思った者。水を待って死んだ者。水に落ちた者。水を止めた者」
樹蔵はゆっくり言った。
「水は命だ。だから、記憶が濃い」
二葉は、赤飯の弁当を膝に置いたまま、木箱を見つめた。
大屋敷跡で感じた渇き。
大溜井で聞いた声。
——みずを。
あれは、ただの怪異ではない。
誰かが水を待っていた。
誰かが、水を求めていた。
五樹が二葉の表情に気づく。
「二葉」
「大丈夫」
五樹は黙った。
二葉はすぐに言い直した。
「引かれてない。考えてるだけ」
「ならいい」
樹蔵が二葉を見る。
「二葉。かわいそうだと思うなとは言わん」
二葉は顔を上げる。
「うん」
「だが、受けるな」
五樹の目が少し鋭くなる。
樹蔵は続ける。
「お前は受けようとする。自分で流せると思う。昔からそうだ」
三樹が小さく言う。
「影の特攻隊長だからな」
二葉が睨む。
「三樹」
樹蔵は少しだけ笑った。
「間違ってはおらん」
二葉は言葉に詰まる。
一樹が言う。
「じいちゃんまで認定するのか」
「二葉は、若い頃の葉月に似ておる」
祖母が台所の方から戻ってきて、少し困ったように笑う。
「樹蔵さん」
五樹が目を輝かせた。
「ばあちゃんも元・特攻隊長?」
祖母は微笑んだ。
「昔の話よ」
一樹が小声で言う。
「否定しないんだ」
四葉が真顔で言った。
「血筋」
六樹が頷く。
「遺伝的傾向」
二葉が小さく言う。
「そこまで分析しなくていい」
祖母は、二葉の隣に座った。
「二葉」
「おばあちゃん」
「前に出るのは、悪いことじゃないの。でも、戻る場所を持って出なさい」
二葉は黙った。
「一人で前に出ると、帰り道が見えなくなることがあるの」
祖母の声は柔らかい。
でも、芯があった。
「だから、誰かに袖を持っていてもらいなさい」
五樹が、ほんの少しだけ動きを止めた。
二葉も気づく。
祖母は笑った。
「五樹、できるでしょう?」
五樹は一瞬だけ黙って、それからいつもの軽さを少し戻した。
「俺、二葉の補佐なので」
二葉が小声で言う。
「まだその役職使うの?」
「ばあちゃん公認になったし」
「なってない」
祖母は楽しそうに笑う。
「いいんじゃない?」
「おばあちゃんまで」
一樹は額を押さえた。
「総大将と補佐が公式化していく」
三樹が赤飯を頬張りながら言う。
「俺は前衛」
四葉が言う。
「私は記録と分析」
六樹が訂正する。
「記録は僕」
「じゃあ私は分析と布教」
「布教は今いらない」
五樹が言う。
四葉は平然と返した。
「必要な時は来る」
一樹はため息をついた。
「俺は?」
六樹が即答する。
「回収係」
三樹が頷く。
「兄貴は回収係」
五樹も笑う。
「あと白髪管理」
「それは違う」
二葉が小さく笑った。
その笑いに、庭の空気が少し緩む。
樹蔵は木箱の蓋を開けた。
中には、古い紙が何枚も入っていた。
地図。
覚書。
水路の写し。
そして、布に包まれた小さな木札。
一樹が慎重に取り出す。
木札には、紋が刻まれていた。
水を受ける紋。
六樹が低く言う。
「同じ」
四葉が目を細める。
「大屋敷跡の紋は、これの崩れた形」
樹蔵が頷く。
「あの屋敷は、かつて水を受ける役目を持っていた」
三樹が眉を寄せる。
「でも、今は乾いてた」
「役目を失った場所は、乾く」
樹蔵の声が静かに落ちる。
「形だけ残り、意味が失われる。そこへ黒が入る」
一樹が木札を見る。
「じゃあ、大屋敷跡は、受ける役目を失って黒の中継点になった」
「そう考えてよい」
六樹が記録する。
「水を受ける紋。役目を失った受け皿。黒の中継点」
四葉が別の紙を手に取った。
「大溜井の先に、細い線がある」
一樹が覗く。
「用水路か」
「たぶん。大溜井から南へ分かれた、水の記憶」
六樹が地図を重ねる。
「大屋敷跡は、その下流側に近い。水を受ける役目があったなら、位置としては不自然ではない」
五樹が軽く指で線をなぞった。
「じゃあ、上から来た水が大溜井に溜まって、そこから暮らしの方へ流れる。その先で、受ける役目を失った場所に黒が引っかかったってこと?」
六樹が頷く。
「可能性が高い」
二葉は、木札の紋を見た。
丸い輪。
流れる三本の線。
水を受ける。
でも、受けすぎない。
流す。
でも、流しっぱなしにしない。
道と受け皿。
それは森口家がやろうとしていることに似ていた。
一樹が言う。
「じいちゃん。この紋は、森口家のものじゃないよな」
樹蔵は頷いた。
「違う。だが、森口家と関係がある」
「どういう関係?」
「森口家は道を作る。あの家は水を受ける。役目が違う」
四葉が静かに言う。
「対になる家」
「そうだ」
風が止まった。
五樹の表情から軽さが消える。
「その家は、もうないんだよね」
樹蔵は少し黙った。
「ない」
二葉の胸が、少しだけ重くなる。
大屋敷跡。
乾いた空気。
古い井戸跡。
水を待つ声。
役目を失った家。
「じゃあ、受ける場所がなくなったから、流れが乱れた?」
二葉が聞く。
樹蔵は頷く。
「それも一因だろう」
六樹が画面を操作する。
「森口家の記録だけでは足りない。対になる家の記録が必要」
四葉が言う。
「大屋敷跡の家名は?」
樹蔵は木箱の中から、一枚の紙を取り出した。
古い文字。
墨が薄くなっている。
一樹が読み上げる。
「水守……?」
四葉が続ける。
「みずもり?」
樹蔵が頷いた。
「水守家。かつて、この辺りの水を受け、分ける役を担った家だ」
三樹が低く言う。
「水を守る家か」
「そうだ」
二葉は、名前を胸の中で繰り返した。
水守。
水を守る家。
水を受ける家。
そして、もうない家。
五樹が小さく言う。
「黒がそこを使ってるなら、放っておけないね」
一樹が頷く。
「ああ」
四葉が古い紙を見ながら言う。
「でも、これだけじゃ足りない。水守家がどう途絶えたのか、何があったのか」
六樹が続ける。
「調査対象。水守家。大屋敷跡。竜地の大溜井。大溜井から南へ分かれた用水路との関係」
三樹が赤飯を食べ終えて言った。
「じゃあ、次は調査か」
一樹が頷く。
「むやみに現場へ行くより、まず記録を見る」
五樹が二葉を見る。
「二葉も休めるしね」
二葉は何か言いかけて、やめた。
「……うん」
五樹が少し嬉しそうにする。
「素直」
「毎回言わないで」
「成長記録」
六樹が反応する。
「記録する?」
「しなくていい」
二葉と五樹が同時に言った。
四葉がぽり、とみどり豆を噛んだ。
「息ぴったり」
一樹が呟く。
「お前ら、本当に外ではその距離感やめろよ」
三樹が言う。
「でも今、外じゃなくて庭だぞ」
「そういう問題じゃない」
祖母が楽しそうに笑っている。
樹蔵は、木札の紋を見つめていた。
その顔には、少しだけ影がある。
一樹が気づく。
「じいちゃん」
「水守家のことは、わしも全部は知らん」
「じいちゃんでも?」
「ああ」
樹蔵は静かに言った。
「だが、葉月の方が知っていることもある」
全員の視線が祖母へ向かう。
祖母は、少し困ったように笑った。
「私?」
樹蔵が頷く。
「葉月の里の話だ」
空気が、変わった。
二葉が祖母を見る。
「おばあちゃんの?」
祖母は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「そうねぇ。水守の名前は、聞いたことがあるわ」
四葉がみどり豆を持つ手を止めた。
六樹は、iPadに指を置いたまま祖母を見た。
一樹が言う。
「ばあちゃん、話せる範囲でいい」
祖母は微笑んだ。
「難しい話じゃないのよ。ただ、昔から言われていたの」
「何を?」
二葉が聞く。
祖母は、静かに答えた。
「水を受ける家が途絶える時、水は行き場をなくす」
風が、縁台を通り抜けた。
「そして、行き場をなくした水は——人の声を借りる」
誰も、すぐには話さなかった。
大溜井の声が、全員の耳に残っていた。
——みずを。
二葉の指が、小さく震える。
五樹がすぐに気づき、横からそっと手を添えた。
「二葉」
二葉は、今度はすぐに言った。
「怖い」
五樹が頷く。
「うん」
「でも、聞かなきゃいけない」
「一人で聞かない」
二葉は頷いた。
「うん」
祖母は、二葉と五樹を見て、柔らかく笑った。
「それでいいの」
一樹は木札の紋を見た。
水を受ける紋。
失われた役目。
水守家。
行き場をなくした水。
声を借りる黒。
彼らは大溜井に道の入口を作った。
大屋敷跡の中継点を逸らした。
けれど、それだけでは足りない。
流れの先には、役目を失った家の記憶がある。
一樹は静かに言った。
「次は、水守家を調べる」
四葉が頷く。
「蔵の資料、全部見る」
六樹が続ける。
「デジタル化する」
三樹が言う。
「俺は?」
一樹は少し考えた。
「重い箱を運べ」
「おう」
五樹が笑う。
「適材適所」
三樹は得意げに胸を張る。
「力仕事なら任せろ」
二葉が言う。
「資料破らないでね」
「そこまで雑じゃねえよ」
四葉が小さく言う。
「少し不安」
「四葉!」
祖母が、空になった弁当箱を見て言った。
「じゃあ、お茶を淹れましょうか」
六樹が顔を上げる。
「僕が淹れる」
「六樹が?」
「紅茶じゃなくて、今日は緑茶」
祖母は嬉しそうに笑った。
「お願いしようかしら」
六樹は立ち上がった。
その動きが、いつもより少しだけ丁寧だった。
三樹が小声で言う。
「六樹、ばあちゃんにいいとこ見せたいんだな」
五樹が笑う。
「言わないであげなよ」
六樹が振り返る。
「聞こえてる」
「聞こえるように言った」
「五樹」
二葉が笑った。
その笑いが、庭に落ちる。
怖さは消えない。
黒も消えない。
水守家の話は、これからもっと深くなる。
でも、今は。
祖母の甘納豆赤飯を食べた。
六樹が緑茶を淹れる。
三樹が重い箱を運ぶ気でいる。
四葉が資料を見る目をしている。
五樹が二葉の横にいる。
一樹が全体を見ている。
森口家は、まだ日常の中にいる。
だから、黒に飲まれない。
縁台の上で、古い木札の紋が淡い光を受けていた。
丸い輪。
流れる三本の線。
水を受ける紋。
それは静かに、次の道を示していた。




