『アルベルトが距離を詰めずに“待つ”ことを選ぶ回』
数日後。
王立学園の空気は、妙に静かだった。
嵐が来る前の静けさではない。
嵐が通り過ぎたあとの、慎重な静けさ。
レディアナは気づいていた。
(殿下が、追ってこない)
廊下ですれ違っても。
庭園で視線が合っても。
以前のように踏み込んでこない。
距離は、常に彼女が決められる位置に保たれている。
それは――
優しさだった。
だが同時に、
落ち着かない。
中庭。
アルベルトがリリエルと話している。
だが距離は一定。
必要以上に近づかない。
笑うが、触れない。
どこか意識的だ。
レディアナは遠くから見る。
胸は、少しだけ痛む。
だが以前のような暴走はない。
(……調整している)
彼が。
自分のために。
その事実が、静かに心を揺らす。
リリエルが小声で言う。
「殿下、最近ちょっと距離ありますよね」
アルベルトは苦笑する。
「そう見えるか?」
「はい」
「今は、それがいい」
リリエルは少し考えてから頷いた。
「待つんですね」
「ああ」
その言葉を、偶然レディアナは聞いてしまう。
足が止まる。
(待つ?)
誰を?
――わたくしを。
胸が、静かに波打つ。
放課後。
図書室。
レディアナは本を読んでいる。
ページは進まない。
足音。
だが今回は、隣に座らない。
アルベルトは向かいの席に腰を下ろす。
距離、机一つ分。
「……」
「……」
沈黙。
だが重くない。
圧迫もない。
ただ、静かな時間。
レディアナは本から視線を上げる。
「殿下」
「なんだ」
「なぜ……」
言葉を選ぶ。
「最近、踏み込みませんの?」
率直だった。
アルベルトは少しだけ笑う。
「踏み込むと、君が引くからな」
痛いほど正確。
レディアナは視線を落とす。
「引いてなど」
「いる」
即答。
否定できない。
沈黙。
アルベルトは続ける。
「君は今、感情を整理している最中だろう」
「……」
「だから、私は急がない」
その言葉に、胸が強く揺れる。
急がない。
責めない。
迫らない。
(なぜ)
「君が自分から来るまで、待つ」
静かな宣言。
重くない。
ただ、確かな意思。
レディアナの喉が少し詰まる。
(待たれる、という状況)
今までの物語では、
悪役令嬢は追い詰められる側だった。
だが今は違う。
選択権がある。
決めるのは、自分。
それが――怖い。
同時に、嬉しい。
「……もし」
声がかすれる。
「わたくしが、来なかったら?」
アルベルトは少しだけ考え、
正直に答える。
「その時は、その時だ」
「……」
「だが、私は来ると思っている」
根拠のない確信。
それが、温かい。
レディアナはページを閉じる。
指先が少し震えている。
(今、動く?)
(まだ早い?)
(最適解は?)
――違う。
最適解ではない。
これは。
自分で選ぶこと。
長い沈黙の後。
レディアナはゆっくりと席を立つ。
机を回り込む。
一歩。
また一歩。
アルベルトの隣へ。
距離は近い。
だが触れない。
自分で決めた距離。
「……読書は、静かなほうがよろしいですわ」
強がり混じりの台詞。
だが、逃げではない。
アルベルトは微笑まない。
茶化さない。
ただ言う。
「ああ」
それだけ。
だが十分だった。
レディアナの胸は、
もう暴れていない。
嫉妬は消えていない。
恐怖もある。
だが今は――
選んだ。
自分で。
物語は派手に動かない。
断罪も、涙もない。
けれど。
初めて、悪役令嬢が
“自分の意思で距離を詰めた”。
それだけで、
十分な前進だった。
レディアナは心の中で呟く。
(待たれるのは、悪くありませんわね)
ほんの少しだけ、
素直に近づけた日だった。




