19
薄く、潮の香りがした。
新規工場立ち上げの為に訪れたこの街には、僕とレンが数ヶ月過ごした孤児院があるらしい。
『見に行ってきたらどうだ?』
そこでの記憶は無いけれど、鼻腔を掠める磯の匂いがどこか懐かしいような気がした。
少しだけ、行ってみようか。
ぼんやりと浮かんだその考えに、僕の足は知らずアルおじさんに聞いた地図を反芻しながら動き出していた。
しばらく歩いた先にあった大きな窓が並ぶ白亜色の建物は、思っていたよりも新しくて綺麗なものだった。まばらに生える芝を踏み締めて、僕はその建物を見上げた。
ここが、僕とレンが預けられた場所。
僕たちの産みの親は知らないし、今更知りたくも無かった。僕とレンの親はユコおばさんだけでいい。
それでも、もしもユコおばさんに引き取られていなかったら、どうなっていたんだろう。そう考えると少し、感慨深い気持ちになった。
「……」
不意に、ギイと軋む音を立てて玄関の扉が開けられる。
中から出てきたのは、数人の子供を引き連れた女性だった。
少し癖のある白が混ざった髪の毛をひとつに纏めた彼女が不思議そうな顔を僕に向ける。赤の混ざった大きな茶色の瞳と、しっかりと視線が重なった。
「……あら、」
彼女の声は予想していたよりも低くて、落ち着いた印象を受けた。
「…もしかして、リト、くん?」
「……え?」
どうして僕の名前を知っているんだろう。
彼女は子供たちに「遊んでいらっしゃい」と言って、その言葉を合図に彼らは嬉々として蜘蛛の子を散らすように駆け出していく。
「私は院長のハナです」
「……白花リトです」
「やっぱり!」
僕の目の前に立つ彼女はユコおばさんと同じくらいの年齢で、目元には皺が目立つ。おばさんとはまた雰囲気の違う彼女は、僕を見上げながら赤茶の瞳を細めた。
「白花家に引き取られたリトくんとレンちゃんのことはよく覚えているわ。私は、当時はただの職員だったんだけどね。懐かしいわ、レンちゃんはお元気?リトくんも随分と格好良いけど、レンちゃんも赤ちゃんの頃から可愛かったからさぞかし綺麗になられたんでしょうね」
「…ああ、まあ」
「ユコさんのことも聞いたわ、残念だったわね……。私、ユコさんと同年代なんだけど新聞とかで彼女を見かけるたびに、すごいわーって憧れてたのよ。それなのに、早くにこんなことになっちゃって……」
「……」
どうやら、ハナさんはお喋り好きらしい。どちらかというと口数の多くないユコおばさんと一緒にいたからか、彼女の饒舌に僕は圧倒されてしまう。
「リトくんがその歳で社長を引き継いだのよね。まだお若いのに感心だわー」
国内でも有名な織物メーカーの社長が海にのまれた知らせは、新聞でも大きく報じられた。そのあとを、僕が引き継いだことも。
「リトくんとレンちゃんが引き取られたときは、本当に驚いたわ。今でもはっきりと覚えてる」
ハナさんは懐かしそうに目線をどこかに彷徨わせて、ひとり続けた。
「初めはリトくんひとりを引き取る予定だったんだけどね、急遽レンちゃんもってユコさんが言い出したのよ」
「……え?」
「リトくんとレンちゃんは、たまたま隣り合わせに寝ていてね。まるで兄妹みたいに手を繋いでたの。こーんな小さな赤ちゃんだった、あなたたちがよ。ユコさんは、そんなふたりをじーっと見つめてた」
どこかからまた、仄かに、潮の香りが流れてくる。
「そのあと、ユコさんがレンちゃんも一緒に引き取るって言い出してね。他人同士なのに、自分たちの意志もはっきりしないうちから手を繋いでいたのが気に入ったんですって」
僕とレンが、他人?
そんなことが、あるのだろうか。望み続けた願いが、現実に、事実に?
「ふたりが引き取られたあと、大人になったらもしかしたら、リトくんとレンちゃんは結婚しちゃうかもー、なんて私たち話してたのよ。そこらへん、どうなの?婚約とかしたのかしら?」
そんな不躾な問いですら僕をただ、通り過ぎていく。
流れてくる潮の香りに、僕の思考はまるで海にのまれてしまうみたいに溶けていった。




