17
今日こそは、会えたらいいんだけどな。
引っ越してから一度も会えていない兄の姿を思い浮かべながら、私は買い物袋を手に白花の屋敷までの道を歩いていた。
夕方に吹く風は爽やかで、私の短くなった髪の毛をさらりと撫でていく。幼い頃から伸ばしていた髪の毛をばっさりと切ってしまって、リトは驚くだろうか。
リトのびっくりしたような表情を思い浮かべて、でも今日もまた会えないかもしれないと、嬉々とした感情と落胆の感情が入り混じる。
ユコおばさんの葬儀が終わり引っ越してから、私はリトの姿をひと目見ることすら叶っていない。ユコおばさんが居なくなってしまって、リトは後継として忙しい日々を送っているようだった。
余りにもリトに会えないから、私は一度白花織物の本社に顔を出したことがあった。
『リトなら、工場の方に行ってる。まだ俺が手伝っているけど、肩書きは社長だからな』
『……そう、だよね』
覚悟していた現実が、途轍もない速さで押し寄せる。とどまり続ける事象なんて、ひとつもないのだと思い知らされる。
「……リトに、会いたいなぁ……」
いつだってリトの隣に並んでいた日常は、いとも呆気なく終わりを迎えた。
夕焼けも落ちてしまった頃、私は数ヶ月前まで住んでいた屋敷を見上げた。大きな門に、広い庭。植えられている梅の木の花はもう、随分と前に散ってしまった。
しん、と静かなその屋敷に、私は溜息を吐くとそっと玄関の鍵を開けた。
「……はぁ」
リトと離れてから、随分と溜息を吐いている気がする。
溜息を吐くと幸せが逃げていく、という話は本当かもしれない。だって、今日もまた大好きな彼の姿は無いのだから。
私は、長い廊下の先にある台所へと向かった。ひとり暮らしをするようになって覚えたスープを、リトは食べてくれたらしい。数週間前に作った筈のスープを入れた鍋は綺麗に洗われていて、片付けられていた。
私は、がさり、と買ってきたものを置く。今日もまた、会えないかもしれないけれど、おばさんやリトみたいに上手じゃないかもしれないけれど、それでもリトの為に何かがしたかった。
ユコおばさんも居ない、リトも居ない。
がらんと、冷えた場所に私はひとりきり、ふたりに置いていかれてしまったような錯覚を覚える。
人知れず熱く滲み始めた視界を振り払って、袋から野菜を取り出そうとした時だった。
「……っ!」
がちゃり、と聞き慣れた音がして、私は玄関へと駆け出した。
「リト……!」
やっぱり、玄関に立っていたのはリトで、紺色のスーツを着た彼はもう、大人だった。そんな彼を見て、また視界が歪んだ。
私をひとり、置いていかないで。
「……レン?」
少し疲れた顔をしたリトは、私の顔を見ると驚いたように切れ長を瞳を見開かせた。
「……おかえ」
おかえり、そう言おうとした瞬間に、私はリトの胸の中に居た。思ってもみなかった温もりに、力強さに、私は顔が熱くなる。
「…リト?」
「……レン」
「……」
「会いたかった……」
リトの囁くような低い声に、私の心臓はきゅうと締め付けられる。その心地良い痛みを感じたまま、私はリトの広い胸に顔を寄せた。
「…私も、会いたかった」
リトの背中にそっと腕を回す。
「……リト、好き。ずっとずっと、リトのことだけを想ってた」
私を抱き締めるリトの香りに、体温に、グラスの縁ギリギリを保っていた想いが流れ出して止まらなかった。
「リトのことが好き」
「……レン?」
リトが体を離して私を覗き込む。濃茶の瞳には見るからに困惑が浮かんでいて、私は、はっとした。
「…あ、いや、その、なんでもない!いや、なんでもないことないけど、ただ、その、リトのことが心配だったの」
「……」
「だから、リト、早く中に入って、一緒にスープ作ろう?」
リトが何かを言う前に、「何を言ってるの」と笑われる前に、私はリトの手を引いた。
リトの少し冷たい大きな掌を握りながら、私はどうしてだろう、口から溢れ出した言葉にちっとも後悔なんてしていなかった。
それなのに、このぼやける視界の理由を、私は理解出来ない。したくなかった。




