冷徹な国王の心変わり
漆黒の夜が、ルテティア王宮を深く覆い尽くしていた。
国王執務室の窓からは、かすかな月光と、眼下に広がる王都リュテスの灯りがうかがえる。かつて夜深くなると冷え切った静寂と、民衆の暴動に怯える不吉な暗闇に支配されていた街は、今や新しい産業の息吹とともに、どこか穏やかな熱気を帯びて静まり返っていた。
執務机に向かう国王リュシアン・ド・ルテティアは、重厚な革張りの椅子に深く背を預け、手元の書類を見つめていた。
彼の前に積み上げられているのは、財務省および各地の領主から上がってきた最新の『国家収支報告書』と『地方経済統計』である。
「……信じがたい」
リュシアンの口から、漏れ出たのは深々とした溜め息だった。
彼の黒銀の瞳が捉えているのは、端正な筆跡で隙なく記された『王妃宮歳出入帳簿』の写しだ。
一年前……いや、わずか数か月前までのマリアージュの帳簿といえば、惨惨たるものだった。
買い漁った宝石の目録、一度しか袖を通さない外国製ドレスの莫大なツケ、連日の豪華な夜会の費用。そこには国家の寄生虫と呼ぶにふさわしい数字の暴走しか存在せず、当時のリュシアンはただ軽蔑と冷ややかな怒りを込めてその帳簿を突き返していたのだった。
だが、現在の帳簿はまるで別物のようだった。
『未来サロン』の運営費、紡績機開発のための投資金、地方農村へのハーブ種苗の配給コスト——それらはすべて、かつてマリアージュが自身のドレスや装飾品を競売にかけた資金(サロン準備基金)から完璧に充当されていた。
国庫からの支出は『ゼロ』。
それどころか、サロンが生み出したフレーバーティー『王妃の微笑み』や新素材ドレス『ルテティア・エアシルク』の売上から生じる事業税、および関税収入として、膨大な額の純利益が毎週のように国庫へと納入されていた。
「複式簿記の導入……それに資産の減価償却まで計算に入れているだと?」
リュシアンの指先が、帳簿の端をなぞる。
数値の正確さだけではない。どの資金がどの地方の農村に流れ、どれほどの雇用を生み出し、結果としてどれだけの税収となって戻ってきたか……その「富の循環プロセス」が、一目で理解できるように恐ろしい精度で図式化されていた。
財務卿が「王妃様は神か悪魔か」と脱帽していたのも無理はない。この帳簿をつけた人物は、単なるアイデアマンではない。国家規模の巨額な資金フローを完璧にコントロールする、極めて優秀な「最高経済責任者」そのものであった。
「……あのアホらしいほど浪費に狂っていた女が、これほどまでの経済センスを隠し持っていたというのか?」
リュシアンの胸に、言葉にできない複雑な感情が渦巻いた。
政略結婚で嫁いできたマリアージュ。最初は言葉も通じず、異国の環境に馴染めずにヒステリーを起こしていた少女。自分は彼女を「国を滅ぼす毒婦」と決めつけ、向き合うことすら放棄し、冷酷な態度で遠ざけ続けてきた。
だが、彼女は変わった。
断頭台の噂が囁かれ始めたあの夜を境に、まるで魂が入れ替わったかのように——いや、本来持っていた底知れぬ才能と気高さを爆発させるかのように、自らの手で国を変えてみせたのだ。
「……陛下。王妃宮より、明日の『地方インフラ整備計画案』の書類が届きました」
側近の侍従長が、恭しく新たな羊皮紙の束を提示した。
リュシアンはそれを受け取り、目を通す。
そこには、ハーブティーの爆発的ヒットによって潤った東部山岳地帯と、王都を結ぶ物流街道の改修計画が詳細に記されていた。単に道を舗装するだけでなく、途中に宿場町を形成し、新たな雇用を生み出すことまで計算されている。
そして、その書類の最後には、彼女特有のどこか優美で奔放な署名とともに、追記が残されていた。
『追伸:国王陛下へ。夜遅くまでの執務、お疲れ様でございます。書類ばかり眺めておられると目が疲れますわ。たまにはサロンの温かいお茶でも召し上がって、ゆっくりお休みになってくださいな。——マリアージュ』
リュシアンは無意識のうちに、口元をほころばせていた。
冷酷無比と恐れられ、社交界でも滅多に笑わないと言われた若き国王の顔に、柔らかな苦笑が浮かぶ。
「……まったく。誰のせいで夜遅くまで書類を読んでいると思っているのだ」
リュシアンは立ち上がると、上着を羽織った。
「陛下? どちらへ?」
「少し、夜風に当たってくる」
王宮の離宮にあるガラス温室『未来サロン』。
昼間の熱狂が嘘のように静まり返ったその場所には、月光が柔らかく降り注いでいた。
ガラス越しに見える星空の下、咲き誇る花々に囲まれたテーブルで、一人の女性が灯りの下で書類に向かっていた。
マリアージュだった。
昼間の煌びやかな装いはなく、新素材の白い綿ドレスに身を包み、黄金の髪を後ろで緩く束ねている。時折、疲れを癒すように細い指で眉間を揉み、小さな溜め息をついていた。
「……まだ起きていたのか、マリアージュ」
低い声が静寂を破った。
驚いて顔を上げたマリアージュの瞳に、温室の扉を開けて入ってきたリュシアンの姿が映る。
「リュシアン様……? こんな夜更けに、一体どうされたのですか?」
「お前こそ。王妃がこのような夜遅くまで執務をしているなど、臣下に見られたら私がどんな拷問をしているかと疑われるぞ」
リュシアンは歩み寄り、テーブルの上に置かれた膨大な資料を目にした。そこには明日提出する予定の、地方ごとの税制改革案がびっしりと書き込まれていた。
「……また新しい計画か。お前という奴は、いつ休んでいるのだ?」
「ふふ、休んでいる暇なんてありませんわ」
マリアージュは可憐に微笑み、書類を軽く片付けた。
「半年の猶予……まだ終わっておりませんもの。私が少しでも手を抜けば、またあの悪徳貴族たちが隙を突いてやってきますわ」
彼女の言葉に、リュシアンの胸がちくりと痛んだ。
最初、彼女に「半年で成果を出せなければ処刑する」と冷酷に言い放ったのは、自分自身だったからだ。彼女を追い詰めていたのは、自分だったのだ。
リュシアンは静かに椅子を引き、マリアージュの向かいに腰掛けた。
「……マリアージュ」
「はい?」
「今までの非礼を、謝罪させてくれ」
唐突な国王の言葉に、マリアージュはポカンと口を開けた。青い瞳が丸く見開かれる。
「え……? り、リュシアン様……? 今、何とおっしゃいましたの?」
「聞こえたはずだ。言葉通りだ」
リュシアンは視線を逸らさず、まっすぐに彼女の目を見つめた。その黒銀の瞳には、いつもの冷酷さや警戒心は欠片もなく、溢れんばかりの誠実さと敬意が込められていた。
「私はお前を誤解していた。政治に興味がなく、己の欲望のままに国を蝕むだけの愚かな女だと思い込み、冷遇していた。……だが、私は間違っていた。お前は誰よりもこの国の民のことを見つめ、誰よりも深く経済の仕組みを理解し、命懸けでこの国を救おうとしてくれている」
リュシアンはテーブルの上に置かれたマリアージュの華奢な手を、そっと自分の大きな手で包み込んだ。
「お前のおかげで、ルテティアは息を吹き返した。民は飢えから救われ、国庫は潤い……そして何より、私自身が……お前の存在に救われている」
「リュシアン様……」
触れ合わされた手から、彼の温もりがじんわりと伝わってくる。
政略結婚以来、ずっと氷のように冷たかった夫。自分を見るたびに蔑みの視線を投げていた男が、今、自分をひとりの対等なパートナーとして、一人の女性として見つめている。
マリアージュの胸の奥が、カッと熱くなった。
前世の孤独。誰からも理解されず、贅沢という鎧を着込んで寂しさを紛らわせ、最後は民衆の憎悪の中でギロチンに倒れた哀れな王妃の記憶。
そのトラウマが、リュシアンの温かな手と温かな言葉によって、急速に溶かされていくようだった。
「……ずるいですわ、陛下」
マリアージュは少し照れたように視線を落とし、小さく微笑んだ。
「今さらそんな優しいことをおっしゃるなんて。……私を油断させて、また仕事を押し付けるおつもりではありませんの?」
「ハハ……まさか。本心だ」
リュシアンは低く笑うと、握りしめた彼女の手の甲に、静かに唇を寄せた。
誓いの接吻のように、温かく、優しい触感。
マリアージュの頬が一瞬で朱に染まる。
「っ……!? り、リュシアン様!?」
「嫌だったか?」
「い、嫌ではありませんけれど……! 急にそのような……っ」
動揺して手を引き抜こうとするマリアージュを見て、リュシアンは楽しそうに目を細めた。
完璧な経済改革を推し進め、悪徳貴族を堂々と返り討ちにする強い王妃が、このように可愛らしく狼狽える姿を見せるのは、自分だけの特権なのだと思うと、胸の奥に愛おしさがこみ上げてくる。
「マリアージュ。……半年の猶予などという下らない約束は、今すぐ破棄しよう」
「え……?」
「お前を断頭台へ送るなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。お前は私の王妃だ。これからも、永遠に……私の隣で、この国を導いてほしい」
リュシアンの瞳に宿る真摯な光に、マリアージュは吸い込まれそうになった。
(ああ……私、本当に生き直すことができたのね)
首筋の冷たさは、もう完全に消えていた。
そこにあるのは、冷徹だった夫との間に芽生えた、新しく、確かな絆の温もりだった。
「……仕方ありませんわね」
マリアージュは胸を張り、照れくささを隠すように不敵な微笑みを浮かべた。
「そこまでおっしゃるなら、付き合って差し上げますわ。ただし……私の立て直すルテティアは、世界一豊かな国になりますわよ? 国王陛下、ついて来られますかしら?」
「フッ……望むところだ。我が最高の王妃よ」
月光が照らすガラス温室の中で、二人は静かに微笑み合った。
冷め切っていた夫婦の距離は消え去り、二人は国を救う真の「最高のビジネスパートナー」であり、互いを深く想い合う「真の夫婦」へと、第一歩を踏み出したのだった。
しかし、王宮の平和の裏で、暗雲は着実に近づいていた。
国内での利権を失った悪徳貴族グループが、ついに「国外の巨大な悪」と手を組み、サロンの破壊を狙う画策を始めていたのだった。




