ドレスの売却、そして最初のサロン
王宮へ戻った私は、すぐさま行動を開始した。
猶予は半年。猶予期間の一日たりとも無駄にはできない。
私が最初に向かったのは、王妃宮の奥深くに存在する巨大な衣裳部屋だった。
重厚な扉を開くと、そこはまるで眩い光の海だった。
シルク、ベルベット、レース、そして金糸や銀糸で刺繍された絢爛豪華なドレスが数百着。宝石箱を開ければ、ダイヤモンド、エメラルド、ルビーが散りばめられた首飾りや冠が山のように積まれている。かつてマリアージュが「寂しさ」を紛らわせるためだけに買い漁った、国庫を傾かせた元凶たちだ。
「ロザリー、王宮専属の鑑定士と、王都で最も力を持つ競売人を呼びなさい」
「えっ……王妃様、本気でいらっしゃるのですか? これらは全て、マリアージュ様が大切にされていたお宝ばかりですのに……」
青ざめるロザリーに、私は優しく、しかし揺るぎない微笑みを向けた。
「ええ、本気よ。これらはただ飾っておくだけでは、国を滅ぼす毒にしかならないわ。だけど、正しく『換金』し、正しく『流転』させれば、国を救う薬になるの」
前世の私は、美しいものに囲まれることを至上の喜びとしていた。だが、首を跳ね飛ばされた瞬間に悟ったのだ。どれほど高価なドレスも、死んだら棺桶にすら持っていけないということを。
三日後、王妃宮の大広間で前代未聞の「特別競売会」が開催された。
集まったのは、王都の富裕な大商人や新興貴族たち、そして隣国の裕福な使節たちだ。保守派の旧貴族たちは「王室の恥晒し」「王妃の新たな狂気」と嘲笑し、参加をボイコットしていたが、私にとっては好都合だった。私の狙いは、まさにその「金は持っているが地位のない者たち」だったからだ。
私は壇上に立ち、集まった人々を見渡した。
「皆様、ようこそお越しくださいました。本日お集まりいただいたのは、単に私の不要品をお買い上げいただくためではありません。ここに並ぶ品々は、ルテティア最高峰の職人たちが手掛けた芸術の結晶です。これらを所有することは、皆様が『ルテティアの文化と産業の最先端に立つ』ことを意味します」
ざわめく会場。私は一着のドレスを手に取った。
それは、最高級の青い絹地に、精巧な銀糸で夜空の星々を刺繍した見事なドレスだった。
「この刺繍を手掛けたのは、下町の貧民街で病に伏せっている老職人です。一針一針に込められた技術は、まさにルテティアの宝。このドレスの落札金の一部は、彼の弟子たちの育成基金に充てられます。さあ、この『夜空の奇跡』に、いくらの値をつけられますか?」
ただの「王妃のお下がり」として売るのではない。
品物にストーリーと「社会的価値」を付加して売るのだ。
「十万ルテ!」
「十五万だ!」
「二十万ルテで落札しよう!」
競売熱は瞬く間に沸点へと達した。
金はあるが名誉を欲する豪商たちは、王妃の認めた「文化支援者」という肩書と最高級の美術品を手にしようと、競って札を上げた。
結果、たった一日で、王室費の半年分に相当する莫大な資金が叩き出されたのだ。
莫大な準備金を手に入れた私が次に行なったのは、「サロン」の開設だった。
従来の社交場のような、ただ豪華なだけの広間ではない。
私は王宮の離宮にあるガラス張りの大温室(温室庭園)を全面改修させた。陽の光が燦々と差し込み、年中色とりどりの花が咲き誇る、明るく開放的な空間だ。
そして、そこに招いた「ゲスト」こそが、私の真の狙いだった。
サロン開設の初日。
招待状を受け取った人々が、おずおずと離宮へと足を踏み入れる。
そこにいたのは、豪華な絹服を着た一部の富裕商人だけではない。煤けた作業着を着た若いガラス職人、手垢のついた帳簿を抱えた新進気鋭の貿易商、泥のついた草履を履いたハーブ農家の青年、そして文無しの天才画家……。
身分も職業もバラバラな人々が、同じ空間で呆然と立ち尽くしていた。
「な、なんだここは……? 王妃様のサロンだと聞いてきたが……」
「おい、あんな身分低そうな奴らが一緒にいるぞ……?」
戸惑う彼らの前に、私は軽やかな一歩を踏み出した。
本日の私の装いは、豪華なドレスではない。競売で残ったシンプルな白い綿のドレスに、細い革ベルトを締めただけの、動きやすく上品なスタイルだ。
「皆様、ようこそ『ルテティア未来サロン』へ」
私が微笑むと、職人や商人たちは慌ててひざまずこうとした。私はそれを手で制する。
「お立ちください。このサロンにおいて、身分や家柄は一切関係ありません。ここでは誰もが対等であり、求められるのはただ一つ……『優れた技術』と『新しいアイディア』、そして『情熱』だけです」
人々が顔を見合わせる。
「私の目的は一つ。皆様の力を掛け合わせ、このルテティアにまったく新しい価値と産業を生み出すことです。資金なら、先日の競売で腐るほど集まりましたわ。技術はあるが金がない方には、投資をいたします。アイデアはあるが売るルートがない方には、商人をご紹介します。……さあ、まずは温かいお茶でも飲みながら、語り合いましょう」
ロザリーたちが手際よく運んできたのは、銀のティーカップに入った琥珀色の液体だった。
ほのかな甘い香りと、すっきりとしたハーブの香りが温室内を満たす。
「こ、これは……? 紅茶ですか?」
一人の貿易商が一口含み、目を丸くした。
「ええ。地方の農村で雑草扱いされていたハーブと、安価な茶葉を独自の比率でブレンドした『フレーバーティー』です。名付けて『王妃の微笑み』。低コストで作れますが、この香り……貴族たちなら高く買い取ると思いませんか?」
「なっ……! 雑草と同然のハーブが、このような極上の味わいに!? これなら地方の貧しい農村でもすぐに栽培できます! 輸出の目玉になりますぞ!」
ハーブ農家の青年と貿易商の目が一瞬で輝き、自然と議論が始まった。
「ガラス職人のあなた。その透明度の高いガラスで、このお茶の色が透けて見える小さなカップを作れませんか?」
「作れます! 作れますとも! 耐熱の薄型ガラスなら、うちの窯の技術で一ヶ月で作ってみせます!」
あちこちで化学反応が起き始めた。
資金を持つ者が技術に投資し、技術を持つ者が商人と手を組み、新しい商品と雇用がその場で生み出されていく。
かつてただの「噂話と不倫の巣窟」だったサロンが、今や熱気に満ちた「経済の爆心地」へと変貌を遂げたのだ。
「——これが、お前の言っていた『サロン』か」
熱気に包まれる温室の入口に、いつの間にか一人の男性が立っていた。
漆黒の髪に、冷ややかな黒銀の瞳。国王リュシアンだった。
視察のために訪れた彼は、身分の垣根を越えて激論を交わす民たちの姿と、その中心で楽しそうに指示を出す私の姿を、信じられないものを見る目で見つめていた。
「陛下」
私は優雅にお辞儀をし、彼のもとへ歩み寄った。
「いかがですか? 私の最初のサロンは。ここで生まれた新しいハーブティーとガラス製品の事業だけで、すでに数十人の雇用が決まりましたのよ」
「……信じがたい。お前は本当にあのマリアージュなのか? ただ服を売った金で、これほどの場を作り上げるとは……」
リュシアンの声には、隠しきれない驚きと、かすかな動揺が混じっていた。
彼は温室の中を見渡し、静かに呟いた。
「貴族と平民、職人と商人を交ぜ合わせ、投資と開発を同時に行う……。これなら確かに、国庫の金を直接使わずに新たな税収を生み出せる。……だが、マリアージュ。甘く見るなよ」
リュシアンの瞳が鋭さを取り戻す。
「お前がやっていることは、既存の利権にしがみつく保守派貴族や、大商人の利益を脅かすことでもある。近いうちに、彼らは必ず妨害に出てくるぞ」
「ふふ、望むところでございますわ」
私は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「私からドレスも宝石も奪い取った保守派の皆様には、このサロンが生み出す莫大な利益を指をくわえて見ていていただきましょう。利権に固執する者よりも、未来に投資する者こそが勝利する……それを証明してみせます」
リュシアンは一瞬あっけに取られたように目を見開き、やがてふっと口元を緩めた。
それは、私がこの世界に来てから初めて見た、彼の本気の「笑み」だった。
「……いいだろう。せいぜい私を楽しませてくれ、我が王妃よ」
リュシアンはそう言い残すと、爽やかな足取りで立ち去っていった。その背中は、以前見た時よりもどこかすこし軽やかに見えた。
(首筋の寒気は、もう消えたわ)
胸に手を当て、深く息を吸い込む。
前世の私は、民衆の怒りに怯え、ただ流されるままに運命を受け入れた。
だが、今の私は違う。
この知識と、この意志と、このサロンがある。
「さあ、次はファッション革命よ。ルテティアの産業を、私が丸ごと変えてあげるわ!」
温室に満ちるハーブの香りと人々の熱気の中で、私の反撃の第二幕が静かに、しかし力強く切って落とされたのだった。




