「パンがない」の真実
翌朝、朝靄が立ち込める王都リュテス。
豪奢な天蓋付きベッドの上で、私は静かに目を覚ました。絹のシーツのスベスベとした肌触りが心地よい。だが、私の心は少しも安らいではいなかった。
(半年……。半年以内に、あの冷徹な国王リュシアンに成果を見せなければ、待っているのは冷たい牢獄と、二度目の断頭台よ)
首筋に手を当て、生ぬるい自分の体温を確かめる。前世の悲劇を絶対に繰り返してなるものか。
そのためには、まず何よりも「敵」を知らなければならない。この国を蝕む真の病巣——すなわち、崩壊寸前の経済と、民衆の絶望の正体を。
「マリアージュ様、お目覚めでございますか? 本日の朝食をお持ちいたしました」
入ってきたのは、専属侍女のロザリーだった。まだ十六歳ほどの小柄な少女で、私を見る目はいつも怯えに満ちている。これまでのマリアージュが、気分次第で侍女を責め立てるような我儘放題を尽くしてきたせいだ。
「ありがとう、ロザリー。そこに置いてちょうだい」
優しく声をかけると、ロザリーは目を丸くして身をすくめた。
シルバーのワゴンから手際よく並べられたのは、銀の食器に盛られた極上の朝食だった。焼きたての白いクロワッサン、芳醇なバターの香りが漂うブリオッシュ、濃厚なジャム、新鮮な牛乳とスープ。王族にふさわしい最高級の品々だ。
だが、私はその一口目を運ぶ手を止めた。
「ロザリー。……あなた、ご家族はどちらに?」
「えっ? あ、はい……王都の下町に、両親と幼い弟妹たちがおりますが……」
「その者たちは、今、何を食べているのかしら?」
「え……?」
ロザリーは顔を蒼白にし、ガタガタと震え出した。不敬な発言として怒られるとでも思ったのだろう。彼女は床に膝をつき、必死に頭を下げた。
「も、申し訳ございません! 王妃様! 弟たちには……黒パンすらまともに与えられず、大麦の殻を混ぜた粥でなんとか飢えを凌いでおります! ですが、決して王室のご贅沢に不満を抱いているわけでは……っ!」
「立ちなさい、ロザリー。責めているのではないわ」
私は溜め息をつき、彼女の細い肩を抱き起こした。
やっぱりそうだ。王宮の中では湯水のように白パンや肉が消費されている一方で、目と鼻の先の下町では、民が雑草や大麦の殻を混ぜた酷い粥で食いつないでいる。
「……パンがないなら、お菓子を食べればいい」
前世の私が言ったとでっち上げられ、民衆の怒りに火をつけた悪名高き蔑称。
だが、今の私なら分かる。問題は「食料が物理的に足りないこと」だけではない。食料を行き渡らせる仕組みそのものが、完全に壊れているのだ。
「ロザリー。着替えの準備をしなさい。今すぐ市井へ出かけます」
「えっ……!? し、市井ですか!? 王妃様がそのような危険な場所に……!?」
「変装をすれば分かりはしないわ。この目で確かめなければ、何も始まらないもの」
私はクローゼットへ向かうと、かつてマリアージュが「安っぽくて着られない」と投げ捨てていた、比較的シンプルな乗馬服とつばの広い帽子を選び出した。豪奢なドレスを脱ぎ捨て、髪をきつく束ねる。鏡に映ったのは、少し気品のある裕福な商人の娘といった装いだ。
「さあ、行くわよ。王都の『本当の姿』を見にね」
城の抜け道(前世の知識とこの城の構造の類似性から見つけ出した)を通り、私とロザリーは極秘裏に王都リュテスの市場へと繰り出した。
一歩城外へ出ると、そこは王宮の煌びやかさとはかけ離れた、殺伐とした世界だった。
立ち込めるドブの匂い。立ち並ぶ煤けた建物。そして何より、行き交う人々の目が死んでいる。活気ある市場のはずの通りには、生気のない顔をした人々が力なく佇んでいた。
「来てください、王妃様……あそこが一番大きいパン屋です」
ロザリーに導かれ、大きなパン屋の前にやってくると、そこには長蛇の列が出来上がっていた。
列に並ぶ人々は皆、痩せこけ、ボロ切れのような服を着ている。子供の手を引く母親の顔には、絶望の色が張り付いていた。
「おい! 頼むからあと一個、パンを売ってくれ! 子供が三日も何も食べてないんだ!」
「無理なものは無理だ! 今日の分は全部売り切れだ! 残っているのは小麦粉の袋の底に溜まったクズだけだよ!」
パン屋の店主が、怒号を上げながら店の扉を乱暴に閉めようとする。すがりつく男性を、店の用心棒が無造作に突き飛ばした。地面に倒れ込んだ男性の手から、数枚の銅貨が転がり落ちる。
「くそっ……! 銅貨十枚も出してるってのに、パン一個買えないなんて……! 先月までは五枚で買えたはずだぞ!?」
「文句は領主様と王様、それにあの大バカな王妃様に言いな! 俺たちだって小麦粉が手に入らねえんだ! 地方から入ってくる小麦の値段が、先月の三倍跳ね上がってんだよ!」
店主の吐き捨てるような言葉に、集まった群衆から怒りの唸り声が漏れた。
「そうだ! 全部あの贅沢王妃のせいだ!」
「俺たちが血汗流して払った税金で、金持ちどもと夜会でバカ騒ぎしてやがる!」
「パンがないなら首を括れってか!?」
群衆の憎悪が、波のように押し寄せてくる。
隣に立つロザリーが恐怖で私の袖を強く握りしめた。だが、私は逃げ出さなかった。首筋に冷や汗をかきながらも、じっとその光景を見つめ、思考を激しく回転させる。
(……待って。何かおかしいわ)
私は倒れた男性に歩み寄り、しゃがみ込んで声をかけた。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
「あ……? なんだい、あんた……お嬢さんか。関わらない方がいい、ここはもう地獄だ」
「おじさん、教えてください。今年、この地方は酷い凶作だったのですか? 天候不順で麦が枯れたとか……」
男性は力なく首を振った。
「いいや……天候は悪くなかった。村の兄弟からの手紙じゃ、今年の収穫量は例年並みだったはずだ。それなのに、王都に入ってくる麦の量がガクンと減った。途中の関所での税金が跳ね上がった上、大商人のヤツらが倉庫に麦を溜め込んで、意図的に値を吊り上げてるって噂だ……」
(やっぱり……! そういうことね!)
脳裏のパズルが音を立てて組みあがっていく。
食料不足の真の原因は「絶対的な供給不足」ではないのだ。
第一に、地方から王都へ至る街道沿いの「過剰な通行税と関所」。旧態依然とした関所勢力(保守派貴族)が、私腹を肥やすために物流を堰き止めている。
第二に、市場の混乱に乗じた「大商人による買い占めと価格吊り上げ(投機)」。
そして第三に……「流通の停滞による貨幣価値の下落」だ。
私が王宮で莫大な金(税金)を特定の輸入業者や高級品店だけに垂れ流した結果、特定の場所だけに金が偏り、市場全体の貨幣バランスが崩壊した。庶民が持つ銅貨の価値は暴落し、実質的な物価が跳ね上がっているのだ。
「パンがない」のではない。
「お金を払っても、庶民の手元にパンが届かない構造」を作り出してしまったのだ。
(天災じゃない……人災よ。そしてその引き金を引いた一人が、間違いなくマリアージュ自身……!)
恐ろしい事実の前に、私は身震いした。
もし前世と同じように、ただ王宮から「パンを配りなさい」と施し(小麦の放出)をしたところで、何の解決にもならない。配ったパンはすぐ尽き、途中の悪徳商人や貴族がそれを横取りして終わりだ。
必要なのは、施しではない。
「富の再分配」と「流通の正常化」。つまり、停滞した血液(お金と商品)を、再び国全体にスムーズに巡らせるための「経済改革」なのだ!
「おい、あんたら! そこでコソコソ何話してやがる!」
不意に、荒々しい声が響いた。
見上げると、槍を手にした数人の王都警備兵と、目つきの悪い男たちがこちらに近づいてきていた。男たちの服には、特定の商会の紋章が刻まれている。
「けっ、また貧乏人が集まって愚痴か? 邪魔だ邪魔だ! ここは『ガルニエ商会』様が買い取った土地だぞ! さっさと立ち去れ!」
警備兵が乱暴に槍の柄で男性を小突こうとする。
ガルニエ商会——確か、マリアージュに高級な絹や外来の宝石を納入していた、王都最大の政商だ。彼らが穀物市場まで買い占め、価格を操作している張本人か。
「待ちなさい!」
私は思わず前に踏み出し、警備兵の腕を掴んだ。
「な、なんだお前は! 引っ込んでろ!」
「民に対してその乱暴な働きは何ですか! 治安を守るべき警備兵が、一商会の私兵のような真似をして恥ずかしくないのですか!?」
毅然とした私の態度と凛とした声に、警備兵たちは一瞬気圧された。帽子から覗く私の眼光に、ただの町娘ではない威圧感を感じ取ったのかもしれない。
「ちっ……な、生意気な女だ。おい、連れて行け!」
「待って! 王妃様、逃げてください!」
ロザリーが叫び、私の前に立ちふさがろうとする。一触即発の事態——その時だった。
「そこまでだ」
鋭く地響きのような声が通りに響き渡った。
馬の蹄の音が近づき、漆黒の毛並みを持つ見事な軍馬に乗った一隊が現れる。その先頭にいたのは——黒銀の瞳を冷たく光らせた男性。
(リュシアン……!?)
国王リュシアン・ド・ルテティアだった。
護衛の騎士を引き連れ、変装もせずに視察に訪れていたらしい。突然の国王の降臨に、警備兵も、ガルニエ商会の男たちも、群衆も一斉にその場にひれ伏した。
「こ、国王陛下……! なぜこのようなおしおき……あ、いや、お越しに……!」
警備兵がガタガタと震え出す。
リュシアンは馬上から冷ややかな視線を浴びせると、ゆっくりと私の方へ視線を向けた。その瞳には「なぜお前がここにいる」という明確な驚きが浮かんでいた。
「……警備兵。民に乱暴を働くのがルテティア騎士団の仕事か? 身包み剥いで懲罰房へぶち込まれたいようだな」
「ひっ……! も、申し訳ございません! お許しを!」
警備兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
リュシアンは馬から下りると、ゆっくりと私に歩み寄ってきた。彼は周りの民衆に聞こえないほどの低い声で、私だけに囁いた。
「……何をしている、マリアージュ。変装までして、このような危険な場所でコソコソと」
「……この国の『本当の姿』を見に来たのです、陛下」
私は身を起こし、まっすぐに彼を見つめ返した。
「『パンがない』のではないのです。パンを運ぶ道が塞がれ、お金が正しく回っていないだけなのです。……陛下、先日の私の提案、本気で実行させていただきますわ」
リュシアンは一瞬息をのんだ。
私がただおそるおそる下町を覗きに来たのではなく、現状の経済構造の歪みを正しく理解していることに気づいたのだろう。
「……サロン、だったか。ただの貴族の遊び場で、この絶望をどうにかできると本気で思っているのか?」
「ええ、思っていますわ。貴族や大商人が抱え込んでいる『腐った金』を吐き出させ、それを新しい産業と物流の整備に流し込む……そのための『ポンプ』として、私のサロンを使います」
私はギュッと拳を握りしめた。
「見ていらして下さい。私は二度と……いいえ、絶対にこの国を滅ぼさせはいたしません!」
リュシアンは沈黙した。
彼の黒銀の瞳の奥で、冷酷な氷が少しだけ溶け、小さな好奇心と期待の火が灯ったのを、私は見逃さなかった。
「……フン。言うようになったな。……城へ戻るぞ。風邪でも引かれては困る」
リュシアンはそっけなく背を向けると、自分のマントを脱ぎ、私の肩に乱暴に羽織らせた。そこにはほんのりと、彼の温もりと煙草の香りが残っていた。
(見ていなさい、ガルニエ商会。そして保守派の腐れ貴族たち……! あなたたちが溜め込んだその金、私が全部素晴らしい形で回収してあげるわ!)
王都の荒涼とした景色の中、私の胸には燃えるような決意が宿っていた。
悲劇の王妃の第二の人生。
国を救うための「最高峰のサロン」開設に向けて、私はついに第一歩を踏み出したのだった。




