首筋の寒気と、冷ややかな視線
首筋に、冷ややかな鉄の触感が残っていた。
刃が落ちる直前の、逃げ場のないあの静寂。群衆の罵声。耳を刺すような罵詈雑言の嵐。「浪費家」「贅沢病」「国を滅ぼした毒婦」——それらの声が頭の中で幾重にも反響し、視界が真っ赤に染まった瞬間、私の意識は絶たれたはずだった。
(ああ……私、死んだのね。やっぱり、ギロチンで……)
前世の記憶。いや、つい先刻まで私であった「フランス王妃マリー・アントワネット」としての記憶が、怒涛の濁流となって脳裏を駆け巡る。贅沢を貪り、民衆の苦しみに目を背け、最後は断頭台の上で命を散らした哀れな女。
首筋をさすろうと、ゆっくりと手を伸ばす。
指先に触れたのは、刃の冷たさではなく、滑らかな肌と、繊細なレースが施されたドレスの襟元だった。
「……え?」
目を開けると、そこは薄暗い地下牢でも、殺風景な断頭台でもなかった。
頭上には眩いばかりのクリスタルガラスのシャンデリア。足元には深く柔らかな高級絨毯。そして部屋のそこかしこには、金箔で飾られた豪華絢爛な家具が並んでいた。
鏡が目に入る。そこに映っていたのは、前世の私によく似た、しかしどこか幼さを残した十八歳ほどの少女だった。黄金に輝く美しい髪に、澄んだ青い瞳。だが、その瞳の周囲には隈が浮き、表情は酷く強張っている。
「……マリアージュ様? いかがなされましたか? お顔色がすぐれませんが……」
傍らに控えていた侍女が、怯えたような声で尋ねてきた。
その瞬間、私の頭の中に「別の記憶」が雪崩のように流れ込んできた。
ここは地球のフランスではない。歴史の巡り合わせが酷似した異世界——「ルテティア帝国」。
そして今の私は、マリー・アントワネットではなく、この国の若き王妃「マリアージュ・ド・ルテティア」。
今年十八歳。大国からの政略結婚で嫁いできたものの、言葉の違いや異国の習慣になじめず、寂しさを紛らわせるためにドレスや宝石を買い漁り、連日のように豪華な夜会を開いて国庫を傾かせた「贅沢王妃」。
(ちょっと待ちなさい……! これって、まったく同じじゃないの!?)
名前も、立場も、やっている愚行の数々も、前世の私と完璧に一致している。
そしてなにより危険なのは、現在のルテティア帝国の情勢だ。連年の不作、隣国との摩擦、そして王妃の度重なる浪費によって、財政は完全にパンク寸前。民衆の間には王室への不満が渦巻き、街角では暴動の気配すら漂っているという。
(嘘でしょう……!? せっかく生まれ変わったのに、またあの痛くて寒い思いをしてギロチンにかけられるの!? そんなの絶対に嫌よ!)
全身から嫌な汗が噴き出す。首筋に感じた寒気は、決して前世の幻覚などではなかった。このまま行けば、数年後には確実に前世と同じ「断頭台ルート」へ一直線だ。
逃げなければ。いや、高飛びしたところで王族の顔は割れている。逃げ切れるはずがない。
では、ひっそりと部屋に引きこもり、質素節約を徹底して存在感を消すか?
いいえ、甘い。すでに「贅沢王妃」としての悪名は国中に轟いているのだ。今さら急に大人しくなったところで、一度燃え上がった民衆の憎悪が消えるわけがない。何か不祥事が起きれば、真っ先に生贄として首を差し出されるのは私だ。
(どうすれば……どうすればいいの……!?)
パニックに陥りかけたその時、重厚な扉が音を立てて開いた。
「——相変わらず、能天気な顔をしているな。マリアージュ」
静かだが、氷のように冷徹な声が室内に響き渡る。
現れたのは、一人の若い男性だった。
深く艶やかな黒髪に、射抜くような鋭い切れ込みの黒銀の瞳。仕立ての良い王服を身に纏っているが、その身のこなしには無駄がなく、隙がない。
ルテティア帝国国王、リュシアン・ド・ルテティア。マリアージュの夫であり、若干二十一歳にしてこの傾きかけた国を背負う若き君主だ。
リュシアンは部屋に入ると、侍女たちを目配せ一つで退室させた。静まり返る室内に、彼の靴音が響く。
彼は私の目の前まで歩み寄ると、見下すような視線を投げかけてきた。その瞳には、親愛の情など微塵も存在しない。あるのは冷ややかな軽蔑と、抑えきれない怒りの色だけだ。
「……リュシアン様」
「気安く名を呼ぶな。……と言いたいところだが、時間がない。手短に済ませよう」
リュシアンは手にしていた厚い書類の束を、目の前のテーブルに叩きつけた。バサリ、と嫌な音が響く。
「これが何だか分かるか?」
「ええと……それは……」
「先月、お前が注文した衣装と装飾品、そして開催した夜会の請求書の一覧だ。……正気か? 今月の王室費の三倍に相当する金額だぞ。財務卿が泣きついてきた。これ以上、お前の道楽に付き合っていたら、国軍の給与すら払えなくなると」
リュシアンの声は静かだったが、それゆえに地獄の底から響くような迫力があった。
前世の夫だったルイ16世は、気弱で大人しく、私の浪費にもどこか諦め顔で付き合ってくれていた。だが、この男は違う。この男の目は、いつでも私を切り捨てる準備ができている人間の目だ。
「言っておくが、マリアージュ。お前が母国から持ち込んだ持参金など、とうの昔に底をついている。今お前が使っている金は、血汗を流して働いている我が国の民から吸い上げた税金だ。……外の街を見たことがあるか? 小麦の価格は高騰し、民は明日のパンにも困っている。それというのにお前は、一度しか着ないドレスのために城一つが買えるような金をドブに捨てている」
リュシアンの言葉が一刺しごとに胸に突き刺さる。
ぐうの音も出ない。事実だからだ。マリアージュという少女がやってきたことは、弁解の余地もない愚行の連続だった。
だが、ここで下手に「申し訳ありません」と謝り、引きこもるだけでは駄目だ。それではただの「役に立たない罪人」として隔離され、情勢が悪化した時に真っ先に処分される。
(生き残らなきゃ……! 前世と同じ過ちを繰り返してなるものですか!)
私はぎゅっと拳を握りしめ、冷や汗を拭うと、まっすぐにリュシアンの瞳を見つめ返した。
怯えて縮こまると思っていたのか、リュシアンがわずかに眉をひそめる。
「……何だ? 言い訳でもするつもりか?」
「いいえ、リュシアン様。言い訳などいたしません。この請求書にあるすべての浪費……私の浅はかさが招いた愚行であり、全責任は私にございます」
「……なんだと?」
リュシアンの顔に、明確な困惑が浮かんだ。
それもそうだろう。これまでのマリアージュなら、「王妃たるもの、豪華に飾るのが当然でしょう!」「文句があるなら母国に言えば!?」などと見苦しく逆ギレしていたはずなのだから。
「急に態度を変えて、何を企んでいる? 反省した振りをすれば赦されるとでも思っているのか?」
「いいえ。謝罪だけで許されるなどとは思っておりません。……ですが、一つだけ伺わせてください。国王陛下」
私は努めて冷静に、堂々とした態度で問いかけた。
「陛下は、私を処刑したいとお考えですか? それとも、この崩壊寸前の国家財政を立て直したいとお考えですか?」
「……なっ!?」
リュシアンの目が鋭く細められた。周囲の空気が一瞬で凍りつくような殺気が漂う。
「不敬だぞ、マリアージュ。私が本気になれば、今すぐお前を離宮に幽閉し、母国との国交断絶を覚悟で離縁することもできるのだぞ」
「ええ、おっしゃる通りです。ですが、私を排除したところで、失われた莫大な金は一銅貨たりとも戻ってまいりません。それに、私という『わかりやすい悪者』を追い払ったところで、民の飢えが収まるわけでもありませんわ」
私はテーブルの上の請求書に手を置いた。
「陛下。民が怒っているのは、私がドレスを買ったからだけではありません。根本的な原因は『国に金がないこと』、そして『民が買える安価なパンが市場に回っていないこと』です。違いますか?」
リュシアンは言葉を失ったように黙り込んだ。彼の黒銀の瞳に、あからさまな動揺が走る。
一国の王妃が、しかもただの浪費家だと思っていた女が、国家の経済構造の核心を突いてきたのだから無理もない。
(前世の私は知っている……! 民衆が本当に欲しいのは、王妃の首じゃない。明日の食べ物と、人間らしい暮らしなのよ!)
単に「パンがないならお菓子を食べればいい」などと揶揄された前世の記憶。だが、実際にはパンの価格が高騰したのは不作だけではなく、流通の不備や一部の悪徳商人による買い占め、そして何より国家の貨幣流通が滞っていたことが原因だった。
贅沢をただ禁止するだけでは経済は縮小する。金は回さなければ意味がないのだ。
「……お前に、何がわかるというのだ」
リュシアンは絞り出すような声で言った。だが、先ほどまでの「ただのゴミを見るような目」ではなくなっている。私の発言の意図を測りかね、警戒する目だ。
「私は知っております。お金とは、溜め込むものでも、ただ無駄に捨て散らかすものでもないということを。……陛下、私に猶予をください」
「猶予だと?」
「はい。これまで私が買い漁ったドレス、宝石、絵画、調度品の類……これらをすべて私が回収し、再利用いたします。私が使った金は、必ず私自身の手で、倍にして国庫に戻してみせます」
「馬鹿なことを言うな! 一度買った中古のドレスや宝石を売ったところで、買値の半額にもなりはしない! それが『倍になる』だと? 戯言も大概にしろ!」
「そのまま売れば、そうですわね。ですが……『使い方』を変えれば話は別です」
私は不敵に微笑んでみせた。前世でヨーロッパ最高の社交場を作り上げ、流行の最先端を走り続けた女としてのプライドが、胸の中でふつふつと湧き上がってくる。
「贅沢品とは、ただ飾るためのものではありません。『価値を生み出すためのツール』です。最高峰の品々、最高峰の空間、そして最高峰の人材を集め……そこに新たな『価値』と『信用』を生み出す場所を作ります」
「……何を作るつもりだ?」
「『サロン』です」
はっきりと、私はその言葉を口にした。
「ただの貴族の噂話の場ではありません。職人、商人、学者、そして資金を持つ富裕層が一堂に会し、新たな産業と投資を生み出す、最高峰のビジネスサロンを開設いたします。私が持っているドレスも宝石も、すべてそのサロンの準備資金、そして起業家たちへの投資の種銭といたしますわ!」
リュシアンは絶句した。
サロン。それは貴族たちが茶を飲みながら詩や音楽を嗜む社交場というのが、この世界の常識だ。そこに「経済」「投資」「産業育成」という概念を持ち込むなど、誰も考えたことがなかった。
「……正気か、マリアージュ? お前は王妃だぞ。商人のような真似をして、貴族たちが黙っていると思うか?」
「黙らせてみせますわ。文句を言う貴族には、そのサロンで得られる莫大な利益を見せつけてあげれば良いのですから」
私は胸を張り、まっすぐに彼を見つめた。
「もし……半年以内に成果が出ず、国庫に利益をもたらすことができなければ、その時はどうぞ私を断頭台へお送りください。首を洗って待っておりますわ」
「……!」
「断頭台」というあまりにもリアルで物騒な単語に、リュシアンが目を見開く。まさか王妃の口からそんな言葉飛び出すとは思ってもみなかったのだろう。
静寂が部屋を支配した。
シャンデリアの光が、二人の視線が交錯する中で怪しく揺れる。
リュシアンは長い沈黙の後、深く溜め息をついた。その手で額を押さえ、冷ややかな、しかしどこか呆れたような苦笑を浮かべる。
「……急に頭でも打ったのか? まるで人が変わったようだ」
「死線をくぐり抜けて、目が覚めましたの」
「ふん……まあいい。そこまで言うのなら、試してみるがいい」
リュシアンは冷酷な眼光を取り戻すと、指を一本立てた。
「期限は半年だ。半年以内に、お前が使った莫大な金の半額……いや、同等の価値を国にもたらしてみせろ。できなければ、お前の望み通り幽閉し、しかるべき処罰を与える。良いな?」
「もちろんでございます、陛下」
「……それと」
リュシアンは背を向け、部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた。そして、振り向かずに言った。
「これ以上、新しいドレスのツケを私に回すなよ。……次はないと思え」
「ふふ、承知いたしましたわ」
パタン、と重厚なドアが閉まり、リュシアンの気配が遠ざかっていく。
一人残された私は、どっと身体の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。豪華な椅子に深く腰掛け、大きく息を吐き出す。手心は震えていた。
(危なかった……! 間一髪で首がつながったわ……!)
だが、これは本当の戦いの始まりに過ぎない。
半年。たった半年で、この傾きかけた国の経済に風穴を開け、結果を出さなければならないのだ。失敗すれば、待っているのは間違いなく二度目の死だ。
私は机の上の鏡をもう一度見た。
そこには、怯えを捨て、野心と生存本能に瞳を燃やす一人の元王妃が映っていた。
「さあ……忙しくなるわよ。『贅沢病』と叩かれた私が、今度はこの国の経済を救ってみせるわ!」
首筋を指でそっと撫でる。
冷たい刃の感触は、もうしない。
パンがなければ、サロンを開けばいい。最高に華やかで、最高に欲張りな、私の反撃の幕が上がったのだ。




