隣国の冷酷なる通商使節
ルテティア王宮の大謁見の間は、氷のような緊張感に包まれていた。
大理石の床を踏み鳴らして進み出てきたのは、東方の大帝国「ガリア帝国」……ではなく、海を隔てて大陸西方の交易圏を牛耳る超大国「アルビオン王国」の通商使節団であった。
先立つ不穏な噂の通り、彼らはルテティアの急激な経済発展と独自の貿易網の構築を、自国の海洋権益に対する重大な脅威とみなしていた。
「——ルテティア国王リュシアン殿。ならびに、王妃マリアージュ殿」
使節団の先頭に立つ男——アルビオン王国の大公にして冷酷無比な外交官、ヴァンサン卿が、恭しくもどこか見下すような不遜な笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「我がアルビオン国王より賜りし書簡を、ここにお届けいたします。……率直に申し上げましょう。我が国は、貴国が最近進めておられる不当な関税障壁、および独自の通貨・金融システムの運用に対し、重大な懸念を抱いております」
ヴァンサン卿の手から差し出された羊皮紙を、側近が受け取り、玉座のリュシアンへと手渡す。
そこに記されていたのは、あまりにも一方的で理不尽な「不平等条約」の要求であった。
一、ルテティアはアルビオン製品に対する一切の関税を撤廃すること。
二、新素材ドレス『ルテティア・エアシルク』およびハーブティーの製法・独占販売権をアルビオン商会へ譲渡すること。
三、新設された『王立サロン銀行』の金庫および管理権を、アルビオンの金融ギルドに引き渡すこと。
「……ふざけた真似を」
国王リュシアンの低い声が、謁見の間に響き渡った。
彼の黒銀の瞳が、殺気を含んだ激しい怒りで細められる。
「これは我が国の主権を蹂躙し、経済をアルビオンの従属下に置くものだ。我がルテティアがこのような脅迫に屈するとでも思ったか?」
「お言葉ですが、国王陛下」
ヴァンサン卿は意に介さず、肩をすくめてみせた。
「貴国がここ半年ほどでどれほど景気を持ち直そうと、我がアルビオンの持つ圧倒的な『海軍力』と『貿易網』の前では、赤子も同然。もしこの提案をお断りになられるのであれば……我が国の無敵艦隊をもって貴国の主要港をすべて封鎖いたします。そうなれば、貴国自慢のハーブも織物も、一粒たりとも国外へ出荷できなくなりますぞ?」
武力を背景とした完璧な経済封鎖の脅迫。
居並ぶルテティアの重臣たちは青ざめ、声を失った。
港を封鎖されれば、サロン銀行の投資サイクルも、地方の輸出産業もすべて停止し、ルテティアは再び破滅へと転落してしまう。
「さあ、お選びくだされ。条約に調印し、アルビオンの保護下で大人しくされるか……あるいは、港を干上がらせて再び惨めな貧困国へと逆戻りされるか」
ヴァンサン卿の勝ち誇った笑みが深まった、その時だった。
「——ふふっ、まあ。大変可笑しな冗談をおっしゃいますのね、ヴァンサン卿」
鈴を転がすような、どこまでも清らかな笑い声が大広間に広かった。
驚いて視線を向けたアルビオン使節団の前に、ゆっくりと進み出てきたのは、ペールブルーの新素材ドレスを優雅に纏った王妃マリアージュであった。
「な……何が可笑しいのだ、王妃殿下! これは国家の存亡を賭けた外交交渉の場だぞ!」
ヴァンサン卿が不快そうに眉をひそめた。
「ええ、存亡を賭けた交渉だからこそ、可笑しいのですわ」
マリアージュは扇子を優雅にパチンと閉じ、青い瞳でヴァンサン卿をまっすぐに見つめた。
「アルビオン王国といえば、大陸一の『海洋国家』にして『羊毛・紡績の大国』……ですが、ここ数年の長引く異常気象により、本国の羊毛生産量が平年の3割にまで激減し、国内の紡績工場が次々と倒産に追い込まれている……違いますかしら?」
「っ……!? な、なぜそれを……!?」
ヴァンサン卿の顔から、余裕の笑みが消え去った。
前世の知識と、サロン銀行を通じて世界中の商人から集めた最新の『国際情勢データ』。
マリアージュの頭脳には、大陸全土のリアルタイムな経済動向が完璧に頭に入っていたのだ。
「さらに、貴国が誇る軍港の維持費は年々高騰し、本国の戦時国債は暴落寸前。……要するにあなた方は、喉から手が出るほど『安価で高品質な原材料』と『即金となる投資資金』を欲していらっしゃる。だからこそ、我が国の新素材エアシルクとサロン銀行の資金を、強盗のように分捕りに来たのでございましょう?」
「くっ……暴言を吐くな! 港を封鎖されれば困るのは貴国なのだぞ!」
「いいえ、困るのはあなた方ですわ」
マリアージュはクスリと悪魔的な笑みを浮かべた。
「我が国の『ルテティア・エアシルク』は、すでにアルビオンの本国社交界でも、貴族の婦人たちの間で『手に入らなければ恥』とまで言われるほどの空前の大ヒットとなっております。……もし今、我が国からの出荷が止まればどうなるかしら?」
マリアージュはゆっくりと歩みを進め、ヴァンサン卿の目の前に立った。
「本国の婦人たちは『使節団の無能のせいでドレスが入手できなくなった』と暴動を起こし、貴国の大貴族たちはあなた方を激しく糾弾するでしょう。さらに……我がサロン銀行は、貴国と対立している東方の『ガリア帝国』に対し、無制限の低金利融資を開始いたしますわ」
「ガ、ガリア帝国に……融資だと……!?」
「ええ。我が国の莫大な余剰資金がガリアの軍費に化け、さらに我が国の最新技術で作られた『軽やかで機能的な軍服』がガリア軍に支給されたら……アルビオンの無敵艦隊は、陸からの挟み撃ちに耐えられますかしら?」
ヴァンサン卿の額から、ダラリと冷や汗が吹き出出した。
武力(軍事力)の脅迫に対し、マリアージュが突きつけたのは『ブランド力』『世論の圧力』そして『金融の力』という、現代的なハイブリッド経済戦争の恐怖であった。
一国の王妃が、ここまで完璧に自国の弱みと国際金融のカードを握り潰してくるとは、ヴァンサン卿の計算に微塵も存在しなかったのだ。
「な……何という恐ろしい女だ……」
「あら、失礼ですわね。私はただの『欲張りな王妃』ですのよ」
マリアージュは可憐に首を傾げると、優雅に手を差し伸べた。
「ヴァンサン卿。脅迫による押し売り(不平等条約)は失敗いたしましたわ。……これからは、対等な『ビジネスパートナー』として、まともな通商交渉を始めましょう?」
小一時間後。
大謁見の間の円卓には、書き直されたまったく新しい『ルテティア・アルビオン相互通商条約』の草案が広げられていた。
マリアージュが提示した条件は、アルビオンにとっても拒みきれない、極めて計算された「双方に利益のある(ウィ win)提案」であった。
第一に、関税の撤廃ではなく「相互の適正関税の設定」。
第二に、新素材ドレスの製法譲渡ではなく、アルビオン国内での「独占販売代理店契約(ライセンス契約)」。ルテティアで生産したドレスをアルビオンの商会が高値で売りさばき、莫大な手数料(利益)を得ることを許可する。
第三に、サロン銀行による「アルビオンの造船事業への低金利融資」。ただし、その担保としてアルビオンの主要港におけるルテティア船の「永久優先停泊権」を獲得する。
「こ……これは……」
条約案に目を通したヴァンサン卿は、震える手で羊皮紙を握りしめた。
不平等条約で力づくで奪うよりも、はるかに安全で、かつ自国にとっても莫大な商業利益が転がり込んでくる完璧なディール(取引)。
しかも、ルテティアの港を封鎖するリスクを冒す必要など、どこにもなくなってしまうのだ。
「……負けましたな、マリアージュ王妃殿下」
ヴァンサン卿は深々と溜め息をつき、自らの非を認めるように頭を下げた。
「あなたは単なる一国の王妃ではない。全大陸の経済を支配しうる、恐るべき『交渉人』だ。……我がアルビオン王国は、貴国の提示したこの対等通商条約を全面的に受け入れ、国王陛下へ署名を言い渡します」
「賢明なご判断、感謝いたしますわ。ヴァンサン卿」
マリアージュが可憐に微笑むと、隣で一部始終を見守っていたリュシアンが、朗々と判決を下した。
「これより、ルテティア王国とアルビオン王国の間に、新たなる対等通商条約を締結する! 両国の永遠の繁栄を祈って!」
謁見の間は、つい先ほどまでの殺伐とした雰囲気が嘘のように、万雷の拍手と歓声に包まれた。
かつて列強の見下す「貧しい小国」だったルテティアが、軍事力ではなく「経済と外交の知恵」によって、大国アルビオンを完全に圧倒し、対等な同盟関係を結びつけた瞬間であった。
その夜。
王宮のサロンで、二人きりで勝利の祝杯を挙げるマリアージュとリュシアン。
月光に照らされたグラスの黄金色のハーブティーが、美しく煌めいている。
「……見事だったぞ、マリアージュ」
リュシアンは深く感服したように、グラスを掲げた。
「武力を振りかざす大国の使節を前に、一歩も引かず、むしろ相手の弱みを突いて対等な経済同盟に引きずり込むとは。……お前は本当に、我が国の『最強の盾』であり『最強の剣』だな」
「ふふ、リュシアン様」
マリアージュは夫の胸にそっと寄り添い、甘えるように見上げた。
「私の武器は、剣でも砲弾でもありませんわ。美しいドレスと、美味しいお茶、そして……人々を豊かにしたいという『情熱』ですの」
「ああ……その情熱に、アルビオンの百戦錬磨の外交官も屈したわけだ」
リュシアンは愛おしさに胸を熱くし、マリアージュの細い肩をしっかりと抱きしめた。
二人の唇が静かに重なり合い、甘いハーブの香りが夜風に溶けていく。
断頭台の陰謀から始まったマリアージュの改革は、ついに列強との外交戦すら制し、ルテティアを「大陸屈指のブランド・金融大国」へと押し上げた。
だが、アルビオンとの対等条約締結の報は、当然のことながら、大陸最大の超大国……「ガリア帝国」の皇帝を激怒させることとなる。
軍事力こそが世界のすべてと信じる帝国皇帝は、ついにルテティアを潰すべく、歴史上最大の「大遠征軍」の出撃を命じたのだった。
国威を賭けた、真の最終決戦。
マリアージュとリュシアンの「新しいルテティア」は、迫りくる十万の帝国軍に対し、どのような奇跡を起こすのか——!?




