中央銀行の構想
「王立……サロン銀行、ですと……!?」
財務卿の老眼鏡が、鼻筋からズリ落ちた。
王宮の会議室。重臣たちが一堂に会する中央円卓の最奥で、マリアージュは優雅に紅茶のカップを傾け、当然のことのように首を傾げてみせた。
「あら、そんなに驚かれることかしら? アルマン子爵らから回収した莫大な隠し資産、そしてサロンが生み出す日々の巨額な利益……これらを単に城の地下金庫に積み上げておくだけなんて、お金に対する最大の冒涜ですわ」
彼女が提示した羊皮紙の束には、精密な図表と数字の羅列が並んでいた。
『ルテティア王立サロン中央銀行 設立基本計画書』。
そこに書かれていた仕組みは、この時代の大陸の誰もが耳にしたことのない、あまりにも革命的な「金の循環システム」であった。
これまでルテティアにおける資金の貸借といえば、悪徳金貸しや一部の保守派貴族が暴利を貪るツールでしかなかった。年利数十分という苛烈な高利貸しは、新しい事業を興そうとする若者や職人たちの芽を摘み、地方の農民を借金の泥沼へと引きずり込んでいたのだ。
マリアージュの構想は、その旧態依然とした金融構造を根本から塗り替えるものだった。
「仕組みはいたってシンプルですの」
マリアージュは美しく装飾された指先で、図表の一点を示した。
「第一に、サロンに集まる富裕層や貴族たちから、安全かつ確実に増える『投資信託』として余剰資金を集めます。ただ金庫に眠らせている金を『サロン銀行』に預ければ、年3パーセントの確実な利息(配当)をお約束するのです」
「な……年3パーセント!? サロンの信用があるとはいえ、それほどの利息を貴族たちに払って、銀行が成り立つというのですか!?」
「ええ、成り立ちますわ。なぜなら、集めた莫大な資金を、新産業——つまり新式紡績機の導入、ハーブ大農園の拡大、さらには道路や港湾といった『インフラ開発』へ、年5〜6パーセントという『低金利』で長期貸し出しするからです」
会議室に、激しいどよめきが駆け抜けた。
「利息の差額である2〜3パーセントが、銀行の純利益となりますわ。そして借り手となった職人や事業主は、暴利に脅かされることなく安心して事業を拡大できる。事業が成功すれば税収が増え、労働者の給与が増え、彼らがまたサロンの製品を買う……。富裕層の金が、国全体の成長エンジンとして回り始めるのです!」
前世の近代経済学が誇る金融インフラ——「中央銀行」と「間接金融」の概念。
単に税金を集めて使うだけの「国家財政」から、民間の富を吸い上げて未来の産業へ投資する「金融国家」への脱皮。
財務卿は震える手で羊皮紙を握りしめた。
「こ、これは……上手くいけば、国庫の資金だけに頼らず、数倍の規模で地方開発が進む……! ですが王妃様! 一番の課題は『信用』です! 貴族たちが本当に、自分たちの金を預けるでしょうか!?」
「それについての心配は無用だ」
重厚な声とともに、円卓の首座から国王リュシアンが立ち上がった。
彼の黒銀の瞳には、妻の恐るべき先見性に対する絶対の確信と、溢れんばかりの誇りが宿っていた。
「この『王立サロン銀行』の筆頭出資者であり、筆頭保証人は……私とマリアージュだ。王家の全財産と、サロンの全ブランド価値を担保とする。そして、頭取にはマリアージュ自身が就任する」
「国王陛下自らが保証人に……!?」
「文句はあるまい」
リュシアンは不敵に口元を歪めた。
「過剰な装飾のドレスを捨てさせ、美味い茶を流行らせ、反乱貴族の隠し資産を完璧にあぶり出した王妃だ。今や社交界において、マリアージュの『眼力』以上に信用できるブランドなど存在しないのだからな」
『王立サロン銀行』の設立が発表されると、王都の社交界は再び激震に見舞われた。
当初、古い考えを持つ一部の老貴族たちは「貴族の金を下賤な商売人や職人に貸し出すなど正気か」と冷ややかな視線を送っていた。
だが、マリアージュの手腕は極めて鮮やかだった。
彼女は離宮のサロンで、富裕層向けに「限定投資出資パーティー」を開催。
新素材ドレスを着たサロンの乙女たちが、優雅にハーブティーを振る舞う中、マリアージュはプロジェクター代わりに巨大な油絵の図解を用いて、各事業の「将来性と期待利回り」を分かりやすくプレゼンテーションしてみせたのだ。
「皆様のタンスの奥で眠っている金貨は、そのままではただの『冷たい金属』ですわ。ですが、この銀行にお預けいただければ、それは地方の子供たちの学校となり、美しい道路となり、新しい紡績機となって……何倍もの温かな富となって戻ってまいりますの」
マリアージュの情熱的かつ完璧な数値データに基づいた説明に、貴族の婦人たちが真っ先に動いた。
「まあ……! 私の預けたお金で、あの美しいエアシルクの工場が増えるの?」
「年3パーセントの利息が王家から保証されるなんて、ヘタな土地投資よりずっと安全じゃないかしら!」
一度流れができれば、あとは雪崩のようだった。
「マリアージュ王妃の銀行に金を出資することが、最高のステータスでありトレンド」という価値観が定着。かつてタンスに溜め込まれていた貴族たちの隠し財産が、怒涛の勢いでサロン銀行の金庫へと流れ込み始めたのだ。
募集開始からわずか一ヶ月。
集まった資金は、王家の初期出資金を遥かに上回る「金貨五割(国家予算の半分)」に達した。
集まった莫大な資金は、すぐさま全国の「若き起業家」や「職人ギルド」へと低金利で融資された。
王都郊外の小さな町工場。
かつては高利貸しに追われ、廃業寸前だった若きガラス職人の青年は、サロン銀行からの低金利融資を受け、最新の大型溶解炉を購入することができた。
「ありがとうございます……! 王妃様! これで、外国製に負けない薄くて丈夫な『ルテティア・クリスタル』を大量生産できます!」
また、貧しい東部山岳地帯の農村では、サロン銀行の資金によって大規模な「段々畑の開墾と用水路の建設」がスタート。数千人の失業者が工事の作業員として雇われ、村には一朝一夕で活気と笑顔が戻った。
富裕層の金が、銀行を通じて血液のように国中に巡り、産業を興し、雇用を生み出す。
その返済金と利息が、再び銀行を通じて富裕層と国庫へと戻ってくる。
完璧な「資本主義の良循環」が、マリアージュの手によってこの異世界に誕生した瞬間だった。
満月が美しく夜空を彩る夜。
王宮のバルコニーで、マリアージュとリュシアンは二人並んでワイングラスを傾けていた。
眼下に広がる王都リュテスの街並みからは、夜遅くまで工場や工事現場を照らすランタンの灯りが、まるで地上に降りた星々のように煌めいている。
「……信じられない光景だ」
リュシアンが、しみじみとした声で呟いた。
「ほんの半年前まで、この国は財政破綻と民衆の暴動の恐怖に震えていた。……それが今や、大陸で最も活力に満ち、富が巡る国になりつつある。……すべて、お前が連れてきてくれた奇跡だ」
「奇跡などではありませんわ、リュシアン様」
マリアージュはグラスの赤い液体を揺らし、愛おしそうに夫を見つめた。
「お金とは、人々の『信用』と『情熱』を数値化したものに過ぎません。皆様がこの国の未来を信じ、前を向いて歩み始めたからこそ、お金が動き出したのです」
「フッ……それを引き出したのは、お前の知恵と魅力だ」
リュシアンはグラスを置くと、後ろからマリアージュの細い腰を抱き寄せ、その首筋に優しく顔をうずめた。
「王立サロン銀行の頭取殿。……国を豊かにするのは良いが、あまり忙しくしすぎないでくれ。私の『妻』としての時間も、しっかり残しておいてもらわねば困る」
「あら……」
マリアージュは耳元に触れる彼の温かな吐息に、胸をキュッと甘く締め付けられた。
冷酷無比だったはずの国王は、今や自分を誰よりも深く愛し、甘えてくる「極上の夫」となっていた。
「ふふ、仕方ありませんわね。……銀行の金利は厳格ですが、夫への『時間』の融資なら、無制限・無金利で貸し出して差し上げますわ」
「それはありがたい。……今すぐ全額受領(返済)させてもらおう」
リュシアンは低く笑うと、マリアージュを横抱き(お姫様抱っこ)にし、寝室へと向かって歩き出した。
マリアージュは驚きながらも、彼の首に腕を回し、幸せそうに微笑みを浮かべた。
ギロチンの恐怖は完全に去り、二人は国を豊かにする最高のパートナーとして、そして愛し合う夫婦として、確かな絆を結んでいた。
……だが、ルテティアのこの「奇跡の経済発展」と「巨大な金融システムの誕生」は、ついに海の向こうの巨大な獣を本格的に覚醒させることとなる。
翌朝。
速達の密書を携えた外交使節が、王宮へと駆け込んできた。
『大陸の覇者・ガリア帝国皇帝より、ルテティア王国へ通告。……貴国の急激な経済拡大および独自の関税措置は、我が帝国の経済権益を侵害するものである。直ちにサロンを閉鎖し、新素材の製法と金融システムを我が帝国へ譲渡せよ。さもなくば——十万の帝国軍をもって、ルテティアを焦土と化す』
巨大帝国からの、理不尽極まりない「宣戦布告」にも等しい脅迫。
報告を受けたマリアージュは、怒るどころか、その美しく気高い瞳に燃え上がるような挑戦の光を宿させた。
「十万の軍勢……? ふふ、結構ですわ」
マリアージュは扇子を優雅にパチンと閉じた。
「武力しか誇れない時代遅れの帝国に……『金の力』と『ブランドの力』が、どれほど残酷で強力な兵器になるか、思い知ら出せて差し上げますわ!」
いよいよ決戦の時。
ルテティアの存亡を賭けた、対ガリア帝国との「世界ブランド経済戦争」が、幕を開けようとしていた。




