涙と膿 29
テレビの光が連続的に、無数の色で室内を照らす。
音はミュートにしてあるため、それはただの発光器に過ぎない。
北村は一人ベッドに座ってテレビに向かっているが、観てはいない。
この部屋で住み始めてから数週間、いつの間にかメディアへの興味は失せていた。
ほとんどすべての時間を喋らない恋人と過ごす毎日。時間はそれこそ無限に近いほどあった。
しかし、テレビも、ネット動画も、スマホに表示される偏ったニュースの数々にも、何一つ惹かれるところがない。
香織の部屋にあった数冊の小説(本はたくさんあったが、ほとんどが専門書の類で、小説は少なかった)を読んでみようと試みたこともあった。
北村は昔、本をよく読む少年だった。
友達は多くなく、ゲーム機も買ってもらえなかった少年時代、本を読むことだけが楽しみだった。
中には、世間で高く評価されている有名な小説があった。
生まれつき頭の悪い男が医学によって天才的な頭脳を手に入れるが、やがてまた、元に戻ってしまうという内容だった。
タイトルだけは聞いたことがあり、いつかは読んでみたいと思っていた作品だった。
十ページもいかない内に、文章を読み進めるのが苦痛になった。宿題でも終わらせるつもりで最後まで読んだが、結局何の感慨も湧かなかった。
何故、いつの間に、自分がこんな風に無感動になってしまったのか。
あまりに刺激の強い出来事がいくつも起きたため、神経が麻痺してしまったのだろうか。
たとえば辛い物を食べ過ぎて舌が馬鹿になるように。
バスルームでドンドンと音が鳴った。
香織が中で暴れているのだ。
北村が眠っているときに香織が活動期に入ると危険なため、午前一時になると彼女をバスルームに閉じ込めることにしていた。
このドンドンという音にも、すっかり慣れてしまった。
活動期の香織の暴れぶりは凄まじく、朝になると歯が折れていたり、爪が剥がれていたりする。
朝になると、北村はそれを手当してやる。
絆創膏を貼り、包帯を巻いてやる。
香織だけではない。一日に何度となく襲い掛かられ、食いつかれる北村は、自分の傷口も手当しなければならない。
潤沢にあった、あの大きな救急箱の中身も、残り少なくなっていた。
テレビの光が室内を照らす。
重力の存在が曖昧になり、上も下も分からなくなるような気がする。異次元に落ちていくような感覚を得る。
考えているのは、サミュエルの短剣のことだ。
迷っているわけではない。使うことは決めた。
問題は、それを使って誰を殺すかということだ。
北村の交友関係は広くはない。
恋人などいた試しがないし、友人と呼べる存在もいるのか、いないのか。
家族だけは(この関係だけは)、人並みにいる。
まるで会社という機械の一部でもあるように、家と会社を往復するだけの毎日を送る父親。
年中愚痴ばかり言っている母親。
北村のことを毛嫌いしていて、もう長い間口をきいたことのない妹。
なるほど。この三人ならば、誰を的にかけても簡単に終わらせることができそうだ。
自宅なのだから、入り込む(『帰る』と言うべきか?二週間以上家にいなくても連絡一つ寄こさない家族の下に?)ことは容易だし、二人きりになるのも難しくない。いや、数日家で暮らせば、いくらでもチャンスに恵まれるだろう。
体力的にも、どう考えても自分の方が勝っている。短剣を持っていきなり襲いかかれば、なお盤石だろう。
こう考えると、世の中でよく起きている親族殺人など、全て悪魔市の支払いのために起きているんじゃないかと思われてくる。
いてもいなくてもいい家族。使わなくなった家財道具はリサイクルショップに売り払って、生活費に変えようというわけだ。
しかし・・・。
と北村は考えた。
やはり家族を手にかけることは憚られた。
今は必要のない家族。しかし、昔からそうだったわけではない。
北村にも子供時代はあった。
他所のことはよく知らないから、特別に仲の良い家族だったかどうかは分からない。しかし、自分も人並みに両親を慕っていたし、両親も人並みに自分を可愛がってくれたように思う。妹も(あの妹でさえ)かつては申し分のない〝いもうと〟であった。
おそらく多くはない、いくつかの思い出が北村を思い止まらせた。
だとしたら、誰を殺す?
最愛の人を殺したのだから、もう誰だって殺せるだろう。
いっそ夜道で(めったに人の通らない、寂しい道で)待ち伏せて、たまたま通りかかった運の悪い奴を襲うとしようか。自慢じゃないが、夜道で待ち伏せるのは慣れたものだ。
そういうわけにもいかない。
もし誰かに見られたりしたら、今度こそ殺人犯、犯罪者だ。
捕まってしまったら、元も子もない。
刑務所に収監されてしまうだろう。
当然、香織とは引き離されてしまう。それだけは避けなければならない。いつまで続けられるか分からない生活でも、どんなにおぞましい毎日でも、二人だからやっていけるのだ。彼女と別れるくらいなら死んだ方がましだ。
北村はスマートフォンの電話アプリを開き、連絡先をくってみた。
誰かいないか、誰か。僕のために死んでくれそうな人間が・・・。
派遣会社に長く勤めたおかげで、スマートフォンにはそれなりの件数が登録されていたが、親しいと呼べる人間はない。
長い間連絡すら取っていない者ばかりだ。電話するだけで怪しまれるだろう。
「スギモト・・・」
その名を見つけて、北村の手が止まった。
杉本英世。
以前派遣先で一緒になった男だ。
北村よりも少し年下だった。
仕事ができるタイプではなかったが社交的で、北村と違っていつも人の輪の中にいた。
とはいえ、可愛がられていたというのとは、少し違う。
人は自分より〝下〟の者を傍に置きたがる。自尊心を満足させるためにそうするのだろう。卑劣極まりないが、ある種の本能に基づく行動とも言える。
うっかり者で、自堕落で、誰よりも仕事ができず、頭は悪く、背は低く、顔は、年齢より若く見られるが良いというわけではない。やたらと腰が低く、いつも誰かにへこへこ頭を下げている印象があった。
誰よりも下の存在である杉本は、だからこそ誰からも好かれた。
そんな杉本を北村は軽蔑していた。
人に媚びてまで好かれたいのか?プライドを捨ててまで。
北村は行く先々で浮いた存在であったが、杉本は分け隔てなく接してきた。
『いい天気ですね、先輩』
わざわざ話題を作らなくていい。
『昨日は、ついつい飲みすぎちゃいましたよ』
お前は毎晩じゃないか。
『たまには、一緒に行きましょうよ。美味い店見つけたんですよ』
まっぴらゴメンだ。
『先輩、彼女いるんですか?』
余計なお世話だ!
そんな杉本は酒だけは強かった。
神様がこの男に何か取柄を与えたとすれば、それは鋼の肝臓に他ならなかった。
「そうだ。杉本なら・・・」
北村は杉本の名前をタップし、電話番号が表示された。
杉本なら呼べば出て来るかもしれない。頭が足りなくて、人を疑うことを知らない奴だ。
投資話にだって乗るし、幸福になる壺だって買うだろう。
飲みに行こうと言えばいい。どうせ今も金なんてないだろうから、奢ってやると言えば、のこのこ出てくるだろう。




