涙と膿 28
日が暮れた。
惧堂我磨は十分ほど滞在しただけで、新田香織の部屋を後にした。
十塚が張り込みする部屋には、一切の明かりがない。
カーテンの隙間から街灯の光が入り込み、床に細い線を引いていた。
進之助は食べるだけ食べ、飲むだけ飲み(ジュースだが)、喋るだけ喋ると埃だらけの床に大の字に寝転んで、スース―と寝息を立て始めた。
「まるで子供ね」
ベティが愛おしそうに言った。
「まるでじゃない。まだまだ子供だ」
十塚がイライラして答えた。
「あんたも寝なさいよ。あたしが見ててあげるわ」
十塚はもう、四十時間以上眠っていない。
「これくらい、どうってことないさ」
「体には気をつけなさい。もう若くないんだから」
「年を取ると、眠れなくなるもんでね」
十塚はヘソを曲げたようにそっぽを向いて言った。
「眠れないのは年のせいかしら?」
十塚は黙った。
まるで古女房のようなこのネクタイは、自分の性格などお見通しなんだろう。
「見て。無邪気な寝顔。・・・胸が痛むわね」
「べつに・・・」と、十塚は嘘をついた。
「俺が胸を痛めたところで、何がどうなるわけでもない。こいつと新田香織の運が悪かったというだけの話。それ以上でも以下でもないね」
フゥとベティはため息をついた。
『素直じゃないわね』とでも言いたげだが、分かり切ったことだから、わざわざ言わないのだ。
十塚と惧堂我磨には、浅からぬ因縁がある。
十四年前。十塚が悪魔市の存在を知って以来、様々な事件を通して直接、あるいは間接的に関わってきた男だ。
自他ともに認める強い魔術師の一人で、言葉巧みに人の懐に入り込み、そそのかして魂をせしめる。
その手腕はまるで敏腕セールスマンのそれだ。
平気で嘘を並べ、手段を択ばず、客の都合など知ったことではない。
ただ違うのは、目的が金ではないということ。
奴にとって一般の人間は何も知らない幼児のようなもので、金などその幼児が遊ぶ玩具に過ぎない。
目的はその一般人たちが持つ、本当に価値のあるもの。即ち〝魂〟。
本人の魂だけで済めばまだ良い方で、ときにはサミュエルの短剣やシバのカンテラといった魔具を使って、他の人間の魂まで奪い取る。
おまけに幻術を使う。
幻術とは相手に幻覚を見せる技術のことだが、十塚が知る限り悪魔市にそんな商品はない。
よほど秘匿されているもの(噂では、悪魔市には一般の魔術師には売られない商品があるらしい)か、催眠術のような悪魔市とは無関係の技術かもしれない。
「あのカエル野郎がいるってことは、つまり・・・」
ベティが忌々しそうに言った。
「ロザリアの涙だ」
「何それ?」
「簡単に言うと、死体を生き返ったように見せかけるものだよ。悪魔市の大ヒット商品の一つさ。
子供を失った親や、妻を失った夫なんかが、その悲しみに耐えきれず使ったりするんだ。
だが死体は死体。腐敗は止められない。今はホルマリンなんかの防腐剤があるから幾分長持ちするけれど、昔はすぐに腐ってバケモノみたいになった。
いくら愛する者の死体であっても、まともな神経じゃあ、そんなものと一緒には暮らせない。
最初は喜ぶのかもしれないが、すぐにケツを割って、せっかく生き返らせた妻や子供を、また殺してくれと頼むようになる。
ロザリアの涙に関する逸話は、世界中に腐るほど転がってる。エジプトのミイラは死体を腐敗させないための技術だろ?古代エジプトの王族の間では、当然のように使われていた薬さ」
ベティは気持ち悪そうに舌を出した。
「何それ。サイアク」
「お前のよく知ってる中にも、いるんだぜ?ロザリアの涙で動いてるのが。まぁ、アレは完璧に防腐処理が施されているし、いくらか知能も植え付けてあるから、ちょっとそうは見えないけどな」
「ウソ・・・、全然分かんない。でも、そんなことができるのはアイツだけよね?」
十塚は肯定の意味で眉をあげた。
ベティは〝アイツ〟のことを心底嫌っている。
彼女を作ったのも〝アイツ〟なのに・・・、だ。
「俺の知る限り、ロザリアの涙を使って幸せになれた奴は一人しかいないね」
「誰よ、それ?」
「白雪姫の王子様さ」




