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涙と膿 27

 顔中を涙と鼻水でグシャグシャにして北村は泣き崩れた。


 香織はいつものように床で項垂れ、あの声を漏らした。

「うぅ・・・」


 そうかもしれない・・・。

 僕のこれまでの人生。誰にも認められることのなかった人生。

 これといった取柄もなく、その他大勢に埋もれてしまっていた自分。

 いや、埋もれてしまうだけなら良かったかもしれない。


 家族にさえ疎まれる毎日。


 そんな自分がいつか一人の女性に愛される。誰かの唯一人になる。そんな夢を見続けてきた。

 やがて理想の女性が見つかり、その欲求はずっと強くなった。


 こんな僕は、果たして何を武器に香織に近づこうとしたのだろう。


 思えば、ずっと分かっていたのだ。僕だけが持つ、誰にも負けない取柄。

 君への純粋な愛。純粋で強大な愛の力。

 僕は、どんなときでも、何があろうと君を愛することができる。


 たとえ君に嫌われていても。

 たとえ君に婚約者がいようと。

 たとえ君が年老いても。

 たとえ君が死んでいようとも。そして肉体が日に日に腐っていったとしても!


「ああ、我磨さん。僕は今悟りました!本当に大切なものが何かということが、今分かったんです。三十数年生きてきて、今ほど幸せなことはありません。そして、この幸せがいつまでも続くことを心から願っている!」」


 北村は床に膝をつき、惧堂我磨は立ったままだ。


 見上げる青白いスキンヘッドの男は、この薄暗い部屋の中にあって、神々しく見えた。


 我磨は胸に手を当て、恭しく礼をしてみせた。

「分かっていただいて、幸いです。

 さて、私が今日こちらに伺ったのは、まさしくそのためなのです。

 私もあなたには幸せになっていただきたい。

 とはいえ、こちらも商売ですので、貸したものは返していただかなくてはならない。

 覚えておいででしょうか?ロザリアの涙の代金はあなたの魂だと申し上げたことを」


 北村はゴクリと唾を飲んだ。

「ええ。そして魂を取られた人間は死んでしまうんですよね?」


 答える代わりに、我磨は目を閉じた。


 だとしたら、この男は今日、取り立てに来たのだろうか。

 僕の魂を奪って(具体的にどうするのかは知らないが)、僕を殺すために・・・!


「こちらをお持ちしました」

 と我磨は、コートのポケットから布に包まれた棒状のものを取り出した。30センチに少し満たない。

 布には黒いシミがついていた。それは血だと、北村は直観的に思った。


「サミュエルの短剣と言います」

 我磨はシュルシュルと布をほどき、中の物を取り出した。


 サミュエルの・・・?


 我磨の言う通り、それは青銅製の、両刃の短剣だった。切るというよりは突くことに重きを置いた武器だ。

 ただ刃の部分は短く、全体の四分の一ほど。残りの部分は柄であるが、そこにはごてごてと装飾が施されている。柄の先端には直径1センチほどの宝石(そうじゃないとしたらガラス玉)が埋め込まれている。


「これを使って誰かの魂を手に入れば、それで代金を支払っていただけます。そうすれば、あなたは、この女性と末永く一緒にいることができる」


 その後我磨は使い方を詳しく説明したが、既に北村は使い方が分かっていた。


 短剣の見た目。

 魂を奪う道具。

 魂を奪われた者は死亡する。


 それだけの情報があれば、あまり勘が良いとはいえない北村にも、使い方は明らかだ。


「必ずしも、この短剣でトドメを刺す必要はありません。死亡したそのときーーー正確には肉体の生命活動が停止したとき、あるいはそれに近い状態を迎えたとき、魂と肉体の接続が弱くなったときに、この刃が体に触れていることが肝要です。

 首尾よく事が運べば、柄の先端に灯がともります。何色に光るかは、その魂の質によります。一般に善良な魂ほど青く、邪悪な魂ほど赤く光ると言われています。

 私に言わせれば、魂に善も悪もありませんがね。

 色だけでなく大きさにも個人差がありまして、大きな魂ほど強く光ります。

 色による価値の違いはありませんが、大きさはその価値に大きな影響を与えます。

 ですが安心してください。ロザリアの涙はそこまで高価な代物ではありませんから、大抵の魂では価値が不足することはないでしょう」


 つまり自分が生きたければ、他の誰かを殺せということか?

 カルネアデスの板?

 緊急避難?


 いやいや、そこまで自分に都合よくは考えられない。


 僕は罪を犯した。

 香織を殺したことが罪なら、生き返らせたこともまた、罪だ。


 その代償を命で払わなければならないところを、別の人間を殺すことで免れようとしているのだ。

 これは法律で認められた免罪の一つなんかではない。


 死刑の身代わりだ!


 我磨はその青銅の短剣を手渡さず、あえて床の上に置いた。

 ゴトリと重い音がした。


 北村の手は吸い寄せられるように、短剣の方へと動いた。


 たとえ・・・、たとえそうであっても、僕はこの愛する女性と共にいたい。もっと、ずっと多くの時間を過ごしたい。そう、そのためなら僕は、僕は文字通り・・・。


 悪魔にだって魂を売ろう。

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