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涙と膿 26

 ゆっくりゆっくりと、時間だけが過ぎていく。

 エアコンがやけに大きな音を立てて稼働している。

 白いワンピースを着た香織は呆然と床に座り込み、首を項垂れている。


 北村章夫は、ただ恐れている。


 一日の大半をそんな風に過ごしている彼女(彼女?今や人間かどうかも怪しい〝あれ〟)に突然スイッチが入って襲いかかって来ることを、ではない。


 既に何度も襲い掛かられた北村の左腕には包帯が巻いてあり、血が滲んでいる。その下には無数の歯形がついている。手元には、絶えずクッションを置いてある。それは自分を守るための盾であるが、なるべく香織を傷つけないための盾だ。


 硬いものを使って香織を押しのけ、もし彼女が傷ついたりしたら、また直さなければならない。少しくらいの傷なら、唾でもつけておけばいい。それは健康な人間だから言えることであって、香織の場合、たとえかすり傷であっても、永遠にそのまま残ってしまう。


 しかし、そんなことにはもう慣れてしまった。いや、慣れたとまではいかなくても、我慢できないほどではなかった。


 北村が抱えている恐怖は、もっと穏やかで、しかし体の芯を蝕むものだ。


 タンスの角にぶつけた足の小指に走る激痛ではなく、言わば癌のような、最初は些細な体の変調から始まり、やがて取り返しがつかなくなる。そういった危険を孕んだ恐怖だ。


 五時きっかりにチャイムが鳴り、惧堂我磨がやって来た。


「あ、お客さんだ」


 返事が来るはずもないのに、わざと明るくそう言って、北村は玄関に出迎えた。


 一応除き窓で、黒づくめの男を確認した。


 向こうからは、こちらの姿が確認できるはずもないのに、目が合った瞬間、惧堂は帽子の縁に手を当てて軽く会釈した。


 夏には似つかわしくない惧堂のコートは、この寒い部屋の中では役立つだろうと思った。


 異常に寒く薄暗い部屋の中へ、北村は客を招き入れた。


 短い廊下を通ってリビングに入った瞬間、惧堂は帽子をとって、香織に恭しく礼をした。

 帽子をとった頭に髪は一本も生えていない。眉もない彼には、一切の体毛がないのかもしれない。


「美しい」

 惧堂は言った。


「お召し物はあなたが?穢れのない彼女に、素晴らしく似合っておいでです」

 血の滲んだ白いワンピースを褒めた。


 北村は愛想笑いに微笑んだが、自分が上手く笑顔を作れている自信はなかった。


 もちろん香織が照れたり喜んだりするはずもない。


 認めたくはなかったが、彼女は紛れもなく死んでいるのだ。

 ただ生きているように動いているだけで、そこには意思や感情の欠片さえない。


「我磨さん・・・」

 北村は恐る恐る言葉を紡ぎ出した。

「あなたは彼女を生き返らせてくれると言ったじゃないですか!

 で、でも彼女は呼吸もしていない。心臓の鼓動もない。こ、これは、どう見ても・・・」


 惧堂我磨は目を閉じて、ゆっくりと肯いた。

「たしかに。生物学的に言うなら生きているとは言えないでしょう。

 しかし、あなたは彼女に綺麗な服を着せ、話しかけてもいる。彼女のために部屋の温度を下げ、襲いかかられることがあっても、逃げ出さずにともに生活を続けているではありませんか。

 たとえ誰が彼女はもう生きていないと言ったところで、あなたにとって彼女は生きている。違いますか?」


「し、しかし・・・。こ、これじゃあ、ぼ、僕は彼女と話をすることもできない」


「それは、これまでも同じだったのではありませんか?」


 痛い所を突かれて、北村は黙った。


 我磨は続けた。

「これからも彼女はあなたと話すことはないでしょう。あなたを愛することもないでしょう。しかし、それでもあなたは彼女を愛してきた。

 そうでしょう。

 愛とは・・・、真実の愛とは、完全に自発的なものであると私は考えています。

 こちらが愛すれば相手も愛してくれる。それは手前勝手な願望にしか過ぎない。相手の意思に関わらず、人は誰か(あるいは何か)を愛することができる。

 あの日、あの場所で私はあなたの中に真実の愛を見た。だからこそ、ロザリアの涙を勧めたのです。

 あなたなら、イザナギやオルペウスにもできなかったことを成し得るであろうと、そう思ったのです」


「僕は・・・、僕は・・・」

 涙がとめどなく溢れた。

「僕はダメな人間です。あなたが言うようにはできそうにない。本当のところ、こ、怖くて堪らないんです。何度逃げ出そうと思ったことか・・・」


「しかし逃げなかった。誰しも迷いはあります。あなたはご立派です」


 北村は溢れる涙を温かく感じた。

 これまでの人生で、こんなに優しい言葉をかけられたことがあっただろうか。

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