涙と膿 30
翌日の昼、北村は杉本に電話をかけた。
土曜日だ。もし杉本が以前と同じ会社に派遣されているのなら、休みのはずだった。が、そうでなくても構わない。出なければ、何度でもかけるまでだ。
どうせ一度では繋がらないと思ったが、予想に反して、3コール目で電話は繋がった。
『お久しぶりです!先輩!』
開口一番、相手のハイテンションに、北村は少したじろいだ。
そうだ。こういう奴なのだ。礼儀正しいを通り越して面倒くさい。
「あ、ああ。久しぶり。元気にしているかい?」
『どうしたんですか?急に突然!』
声を聞くと、うろ覚えだった顔が頭に浮かんだ。
「いや、別に用ってわけじゃないんだけど、何ていうか・・・、杉本のことを思い出してさ・・・」
『本当にマジっすか?俺のこと覚えててくれたなんて、嬉しくて感激です』
北村は電話が得意ではない(正確には会話そのものが得意ではない)。この電話のために、大学ノート(香織のものだ。部屋には封が切られていない十冊組のノートがあった)4ページにわたってビッシリと台本を書き込んであった。
電話する前に台本を作成するのは、以前やった仕事の経験によるものだった。経験とは、意外なところで役に立つものだ。
「ホントに突然なんだけどさ。よかったら今度、飲みに行かない?」
『え?先輩が誘ってくれるんですか?』
杉本の声が曇ったような気がした。訝しんでいる?
そりゃあ、そうだ。同じ職場で働いていたときでさえ、北村の方から誘ったことは一度もなかったのだ。
「その・・・。忙しいなら仕方な・・・」
『ぜひ喜んで!行きましょう!』
「い、いいの?」
北村は、指で大学ノートのページをなぞった。
飲みに行く誘いを取り付けたら、次は日取りを決める。
『もちろん、当たり前ですよ。いつにします?』
北村が話を進める前に、杉本から訊いてきた。
「は、早い方がいい・・・、な。来週、都合の良い日はある?」
『来週末は先約が・・・。でも、その次となると余計に・・・、ああ、どうしようかなぁ』
杉本は真剣に悩んでいる。
北村はフンと鼻で笑った。
馬鹿な奴だ。お前は今、自分が殺される日を選んでいるんだぞ?
『そうだ!いっそ今晩なんて、どうですか?』
「は?き、今日?!」
予想していなかった展開に、北村は間抜けな声をあげた。
『先輩。ひょっとして、なんか行かなきゃいけない用事でもあるんですか?』
まだ心の準備が・・・、なんて言っている場合じゃない。杉本は忙しいようだ。下手なことを言って先延ばしにすれば、もう二度とチャンスが回ってこないかもしれない。
「だ、大丈夫。大丈夫。あんまり急だから、ちょっと驚いただけ」
ノートのページには、いくつか適当な店をリストアップしてあった。
北村が店の名前を挙げると、それらの店全てを、杉本は当然のように知っていた。
幸い彼には特に拘りがないようで(『飲めればいい』は酒飲みの常だ)、店はあっさり決まった。
まるで杉本の方も一緒に北村の台本を読んでいるかのように、話はトントン拍子に進み、夕方店の前で待ち合わせということになった。
北村は拍子抜けして、電話を置いた。
何か抜かりがなかったか、もう一度頭の中で内容を整理し、計画の第一段階が完璧以上の形で終わり、次に進んだことを確かめた。
北村は立ち上がり、バスルームのドアを開けた。
電話の途中で活動期に入るとまずいので、香織には一時的に入ってもらったのだ。
狭いバスルームの中では、彼女の唸る声がやけに大きく聞こえた。
服のまま洗い場に座り込んでいた香織だったが、北村が促すと立ち上がり、バスルームを出た。
この数週間で、いくらか香織の扱いに慣れてきたように思う。
緩やかに腐敗していく彼女と自分との間に、決して一方通行ではない愛情を感じるようになっていた。
「僕、頑張るよ。君と二人で穏やかに暮らすためなら、な、何だってするからさ」
「うぅ・・・」
香織は唸った。
それは彼にとって、紛れもない返事だった。
北村は香織を抱きしめた。
濃密なホルマリンの匂いが北村の鼻を突いた。




