涙と膿 23
ネクタイの繊維が捩れて両目と口が開いている。
口と目が開いた姿は、見ようによっては(或いは慣れてしまえば)可愛くもあるが、はじめて見た者なら、まず悲鳴を上げるだろう。
閉じてしまえば普通のネクタイにしか見えない。
「まさか受けると思わなかったわ」
十塚は缶コーヒーを啜っていたので、答えなかった。
「この依頼のことよ。仕事してくれるのは、ホント有難いんだけどね。何せ、事務所の経営はいつも火の車なんだから」
中身の大半が残っている缶を地べたに置いて、十塚はフンと鼻を鳴らした。
「探偵なんてヤクザな職業が儲かるわけもないだろう?」
「せっかく来た依頼を、あんたが片っ端から断っちゃうからでしょうが!その気になれば、浮気調査でも探し人でもできるじゃないの」
「そんな、つまんねー仕事ができるかよ。俺を誰だと思ってんだ」
「プライドだけじゃ、ご飯を食べられないのよ?」
「お前は食う必要ないだろ」
「あんたは人一倍食うでしょうが!」
それ以上言い返さず、十塚は黙って窓の外に視線を向けた。
二〇三号室のドアは相変わらず閉じていた。
「でもさ。あんたが受けたってことは、アレが絡んでるってことよね?」
十塚は答える代わりにため息をついた。
アレ・・・。つまり悪魔市、デモンズ・マーケットのことだ。
「あの子、なんて言ったっけ?可愛らしい顔した子ね。ちょっと馬鹿だけど・・・。あの子の話、私には特別なところは見当たらなかったけど?」
「強いて言うなら・・・」。十塚は外を見たまま、何処か上の空で言った。「勘かな」
ベティはため息をついた。
「ま、いいけどさ」
「おい。刑事時代も含めれば、俺は四十年間こんなことやってるんだぜ?その勘を馬鹿にするなよな」
「だから、そのベテランさんの勘は何処に引っ掛かったって言うのよ?」
「フラれ方だよ」
「は?」
「俺はこれまで数々の女にフラれてきたが、あんなのは聞いたこともねぇ」
「四十年のキャリアは、スケベの話だったのかしら?」
「あとは、匂いかな」
「匂い?」
ふいに十塚の携帯電話が鳴りだした。ピンクパンサ―のテーマだ。
塗装のはげた、二つ折りの携帯電話。俗に言うガラケーというやつだ。
もう何度も故障したことがある。一度は原型がないほどグチャグチャに壊れてしまったが、知り合いに優秀なメカニックがいて、直してもらったのだ。
液晶画面には『日野江進之助』の名前があった。
「やれやれ。噂をすれば・・・、だ」
十塚は電話に出た。「なんだ?」
『十塚か?』
進之助の声だ。失礼な口調に、十塚は顔をしかめた。
「なんだ?と聞いたんだ」
『何処いんの?』
「張り込み中だ」
『だから、何処いんの?俺、差し入れ持って来たんだよね』
「は?」
まさかと思い、十塚は立ち上がって新田香織のマンションの、その玄関の辺りを見た。
茶髪の青年がスマートフォンを耳に当てている。反対側の手には大きなスーパーの袋をぶら下げていた。
「あのバカ・・・」。十塚はため息とともに呟いた。
『なんか言ったか?』
「帰れ。仕事の邪魔だ」
『おい。人がせっかく気を利かせてやってんのに・・・』
「それが邪魔だと言ってるんだ。張り込みってのは、相手に警戒させたら終わりなんだぞ。そんなところでウロウロしていて、北村に気付かれたらどうする?」
十塚は事前に北村について調べていた。
新田香織は泥間市に来てから日が浅く、交友関係も会社の人間に限られていたから、割り出すのに時間はかからなかった。
『北村?誰だよ、それ』
「いいから帰るんだ!」
進之助は『チェッ、愛想のない奴だぜ』と言って電話を切った。
マンションの下で茶髪の青年が、ポケットにスマートフォンをしまって歩き出すのが見えた。
「どうしたの?」
ベティが顔を覗き込んできた。
「依頼者殿だよ。差し入れだとさ。・・・何考えてんだか」
ベティは笑った。
「可愛いじゃない。もらってあげれば良かったのに」
「馬鹿の相手をしてるほど暇じゃないんでね。俺は・・・」
言い終わらないうちに、再びピンクパンサ―のテーマが流れた。
液晶画面を見て、十塚は
「またあいつだ」と言った。電話に出て
「今度はなんだ?」
『家に帰る前に、アイスクリームが融けちまうよ』
「アイスクリームだぁ?!」。十塚は悲鳴のように叫んで、頭を抱えた。




