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涙と膿 21

 部屋に大きな救急箱があったこと助かった。

 そうでなければ、北村にこの二週間の間にできた、この無数の噛み傷、引っ掻き傷を手当てすることはできなかっただろう。


 たいした力がないとはいえ、噛まれる場所によっては多量に出血することもあった。

 一度首を噛まれたときなどは、〝死〟の一文字が脳裏に浮かんだものだった。


 まさか医者に行くわけにもいくまい。

 行って、どう説明しろと言うのだ。


『同棲している恋人に、毎日のように噛まれるんです』


 ・・・それはそれで、言い訳にもなりそうだ。

 世の中には、様々な愛のカタチがあるという。


 香織はいつも放心したように座り込んでいるが、何かの拍子にスイッチが入ると、火のように襲い掛かって来た。一日に何度も襲い掛かって来ることもあれば、一切ない日もあった。


 つまり、一瞬たりとも気が抜けない。

 起きているときはいいが、寝込みを襲われたらたまったものじゃないので(そもそも、そんな状態で寝付けるほど度胸が据わっていないので)、北村は眠るときは玄関に布団を敷いて眠った。リビングと玄関の間にはドアがあり、香織はドアを開けられるほど知能がないようだったからだ。


 今、香織は白いワンピース姿で床に座っている。


 ワンピースは北村が近所の洋服店で見繕って買ってきたものだ。

 きっと香織に似合うだろうと思い買ってきたのだ。


 確かに、よく似合った。


 一つには、新田香織が白の似合う可憐な女性であったから。

 もう一つには、死に装束は白と決まっているから。


 しかし、北村はその色を選んだことを後悔していた。


 ワンピースには、ほんの数日で血が滲んだ。血はもはや赤とは呼べない色をしていた。

 最初のうちはワンピースと変わらないくらい白かった肌も、日を追うごとに黒ずんでいった。ホルマリンの入浴はほぼ毎日続けていたが、それだけでは足りないらしい。


 茶色の空瓶は、浴室の隅に六本並んでいる。


 ホルマリンの入手については、惧堂我磨に聞いていた薬局で手に入れることができた。悪魔市ではない、普通の薬局だ。

 山路商店街にある『田中薬局』という店で、店主が少し不愛想で客の入りが悪いことを除けば、普通の薬局だ。

 運転免許証を提示してサインするだけで、ホルマリンを売ってくれる。


 買い物に行った際、惧堂我磨について訊ねてみたが、店主は知らないようだった。あるいは知らないふりをしているのかもしれないが・・・。


 惧堂我磨の名刺は、香織の部屋の冷蔵庫にマグネットで貼ってある。


 訊きたいことは山ほどあったが、連絡しようにも電話番号も住所も載っていない。

 北村も教えていないから、向こうから連絡が来るとも思えない。

 だが北村は、いずれ何かしらのコンタクトが来ると信じて疑わなかった。


 何故なら、北村はまだ対価を支払っていない。

 惧堂我磨は商売人だ。ロザリアの涙を売ったからには、いつか必ず僕の〝魂〟とやらを、取り立てにやってくるはずだ。


 そして、その読みは正しかった。


 今朝、北村の携帯電話に非通知設定で連絡が入った。

 北村は出なかったが、留守番電話にメッセージが残った。


『お久しぶりです。北村章夫さん。彼女様と二人、充実した毎日を過ごされていることと思います。さて、お支払いの件についてお話がございますので、本日夕方五時に伺います。必ずご在宅ください。では・・・』


 教えていない電話番号にかけてきて、教えていない住所にやって来るというのだ。


 不思議ではない。

 奴は魔術師。死体を生き返らせることに比べれば、住所を調べるなんて造作もないことだろう。


 時計は今、四時四十分を指していた。

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