涙と膿 20
北村は精一杯の演技力を発揮して、大きなため息をついて見せた。
「また君か。・・・今度はいったい何の用だい?」
相手の男は逆上した。
「てめぇ!こんなところで何してやがる!香織さんは何処だ!香織さんを出せ!」
「なんだい。聞いてないのかい?僕たちは一緒に暮らすことになったんだ」
自分でも呆れるくらい白々しい嘘だったが、あながち間違っているとも言い切れない。少なくとも、今の香織は否定しないだろう。
「ふざけんな!そんなわけないだろ。このストーカー野郎!」
ストーカーという言葉が、異常なくらい尖って聞こえた。
北村自身、自分がストーカーだ(だった?)とは思っていないからだ。或いは、自分でも分かっていて、認めたくないからだろうか。
一度嘘をつくと、後はスラスラと言葉が出てきた。
「困ったもんだな。本当に何も知らないんだな。僕はもう、ずいぶん前から香織と付き合ってるんだ。この同棲を機に、君との婚約も解消したいと彼女は言っている」
自分に演技の才能があるだなんて、思ってもみなかった。
茶髪の顔に明らかなショックの色が浮かんだ。
意外にも、自分の言った嘘をいくらかは真に受けているようだ。
婚約者・・・。婚約者と言ったが、その割には彼女のことを深くは知らないようだ。
あれはハッタリだったのか?それとも、世の中の婚約者というのはその程度の関係なんだろうか。
「信じられないって言ってるだろ!彼女を出せ!香織さんに会わせろ!」
茶髪は目に見えて気が動転していた。
北村は心の中でほくそ笑んだ。もしかしたら、実際に笑っていたかもしれない。
いかにも頭の悪そうな男だと思ったが、やはり・・・か。
騙すのはそう難しいことではなさそうだ。
もう一押し決定的な何かを見せつけてやれば、諦めて引き下がるかもしれない。
北村には考えがあった。
「そうまで言うんなら、仕方がない。待ってろよ」
玄関の明かりはつけていなかった。
今の彼女をこいつの前に連れ出すのは危険だが、この暗さ、そして半ばパニックに陥ったこの男の目なら、誤魔化せるかもしれない。
香織が立って歩いているところを見れば、まさか彼女が一度死んだなどとは思わないだろう。
北村は茶髪の男を玄関に残したまま、奥の部屋へ戻った。
香織はいつもの体勢で床の上に座っていた。
まず先日使った裁縫箱を開け、その中から裁ちばさみを取り出し、刃からプラスチックのカバーを取り外すと、Tシャツを捲ってステテコの前に差し込んだ。
もしあの男が香織の異常さに気付くことがあったら、これが必要になるだろう。
それから香織の手をとり、立たせた。
「香織ちゃん。ちょっと玄関まで来てくれる?」
手は妙に水分を含んでブヨブヨと気持ち悪い感触がした。
香織は億劫そうに立ち上がると、北村が促すままに玄関まで歩いた。
歩いてくる香織の姿を見た茶髪は、呆然とした顔から血の気が失せ、真っ青になった。
北村はその様子を見て快感を覚えた。
自分を殴った相手を酷い目に合わせてやってスカッとしたということ以上に、ある種の気持ち良さを感じた。
この茶髪の男。顔も悪くないし、人に好かれそうな愛嬌がある。
年下に慕われる方ではないかもしれないが、上からは可愛がられるだろう。もちろん女性にもモテるに違いない。
頭は悪そうだが、運動神経は良さそうだし、いきなり僕を殴ったことから、きっと喧嘩慣れしているんだろう。
北村はこれまでの人生で、そういったタイプの人間を何度も見てきたことを思い出した。
学生の頃、同じクラスに・・・。会社の同僚に・・・。
北村は目立たないタイプだから、あいつらはもう自分の事など覚えていないだろうと思った。
そうだ。こういった手合いの周りには、いつも人が集まる。
天性のルックスと明るい性格で、何の苦労もなく、面白おかしく世の中を渡っていける人間だ。
劣等感なんてないんだろう。悩み事なんてないんだろう。
お前たちが脚光を浴びているその裏で、僕のような日陰者がどんな思いをしているかなんて、きっと想像したこともないんだろう。
そんな男が、嘘とはいえ、自分の言った言葉に動揺し、青ざめている。
茶髪は、ついに涙まで流し始めた。
「説明してくれよ、香織さん!」。男は香織に近づくと、その手を取ろうした。
まずい!
北村は慌てて二人の間に割って入った。
手を握られると、その冷たさと感触で、彼女の異常さに勘づかれるかもしれない。
「やめろよ。彼女が困っているじゃないか。この際だから言っておくが、僕は何度も彼女から相談を受けていたんだ。しつこい男に付きまとわれて困っているってね。君も彼女のことが好きなら、潔く身を引いたらどうだ?」
「嘘だ!香織さんがお前なんかと!なぁ、そんなはずないだろ?嘘なんだろ?こいつに脅されているか、さもなきゃ弱みを握られてんだろ?嘘だと言ってくれよ、香織さん!」
尚も強引に香織に近づこうとする男を、北村は突き飛ばした。
「もうやめろ!」
数日前自分を殴って歯を折った男が、こんなに軽いとは。
茶髪はその場に尻もちをついた。そして泣きながら、喚くように言った。
「どういうことだよ、香織さん。こいつと暮らすだなんて、嘘だよね?ねぇ、何とか言ってくれよ、香織さん!」
北村はますます嬉しくなった。
なんて気持ちいいんだ。
この男をもっと貶めてやりたい!
もっともっと虐めて、絶望の底に突き落としてやりたい!
北村は香織の方を向くと、右手でその顎を掴み、自分の方を向かせた。
香織は相変わらず虚ろな眼差しで、小さくウゥッと呻いた。
口からあふれ出す、濃密なホルマリンの匂い。そしてその奥にある、もっと不快な匂い。おそらく死臭と呼ばれるもの。
北村は顔をしかめてゴクリと唾を飲みこんだが、ここまで来たなら、やるしかない。
目を閉じ、息を止め、自分の唇を彼女の口に押し付けた。
茶髪は何も言わなかったが、さらなるショックを受けたことは、その表情から明らかだった。
黙ったまま、ヨタヨタと立ち上がると、放心状態のまま玄関のドアを開け、部屋から出て行った。
ドアクローザーが雰囲気を読んで、そっとドアを閉じた。
カチャン。
それを横目で見ていた北村は、ようやく唇を彼女から離し、ケラケラと笑い始めた。
「ハ・・・ハハハ!今の見たかよ。ねぇ、香織ちゃん。まるであいつの方が死人みたいな顔してたぞ。ハ・・・ハハ!ハ・・・」
そこまで言ったところで北村は喋るのをやめ、その場に吐いた。




