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涙と膿 19

 香織に通常の思考力がないのは明らかだ。

 それは一時的なものかもしれないし、これからずっと続くのかもしれない。


 だが、まさかネズミを食うなんて!


 しかし・・・。と、吐いたままの姿勢で北村は考えた。

 この、何をするにも受動的で、床の上に座ったままでほとんど動かない香織が、どうやってネズミを捕まえたのか。

 ネズミなんて、簡単に捕まえられるものじゃない。健康な自分でも、素手で捕まえるのはまず不可能だろう。

 もしかしたら、動かないからこそ捕まえられたのかもしれない。

 そうだ。香織があまり動かないので、ネズミの方が安全だと思って、うっかり近づいてきたのかもしれない。

 それを、まだ意識のはっきりしない香織が食べ物だと思って・・・。


 少し無理のある考え方かもしれないけれど、良いように考えよう。

 香織は食欲が出てきたんだ。少しずつ回復しているということかもしれない。


 北村は口の周りについた吐しゃ物を拭った。


 ともかく、床の上のものを片づけなければならない。


「ごめんね、香織ちゃん。すぐに掃除するか・・・」


 肩越しに振り返った北村は、そのまま凍り付くように動きを止めた。


 両手の指を大きく広げ、大口を開けて掴みかかって来るものがあった。鼻筋に無数の皺を寄せたその顔は、ネコ科の猛獣を思わせた。

 口の粘膜はどす黒く変色し、痩せた歯茎に黄色い歯が並んでいた。


「うわあぁぁぁぁ!」


 北村は悲鳴をあげ、床にひっくり返った。


 左肩に激痛が走った。

 Tシャツごしに、歯が肉に食い込んでいく。肩がかじられている!


 そして、そこでようやく、自分に襲い掛かって来たのが香織だということに気が付いた。


 長い髪は乱れ、もつぼれ、顔中に貼りついていた。

 香織の左手は獲物を掴もうとして無茶苦茶に暴れまわり、北村の顔に幾筋もひっかき傷をつけた。


 バケモノ・・・。


 猛烈なホルマリンの匂いを放つ化け物。


 北村は半狂乱になって抵抗し、足と両手を使って自分から香織を引きはがした。


 いったん床に倒れた香織だったが、すぐに(何ものにも例えようのない奇妙な動きで)起き上がり、再度北村に襲い掛かった。


 北村は香織の腕を掴み、その凶器の口をできるだけ自分から引き離そうと努めた。


 そうして、五分くらい取っ組み合っていただろうか。


 突然香織は興味を失くしたように力を抜き、元の通り床の上に座って動かなくなった。


 北村は肩でハァハァと息をしながら、今起きた出来事を頭の中で整理しようとした。


 な、なんだったんだ・・・?


 過ぎてみれば、現実に起きたこととは思えなかった。ここ二日間に経験した強烈な出来事が自分に悪夢を見せたのだとしても不思議はなかった。この肩の傷さえなければ・・・。


 香織の襲い掛かる動きは驚くほど俊敏だったが、幸い、力はそれほどでもなかった。おそらくは、普通の大人の女性ほどもなかったように思う。


 それでも噛む力は強く、歯は北村が着ているTシャツを貫いて、肩に深い歯形を残していた。歯形の一部には血が滲んでいた。

 もう少し引きはがすのが遅かったら、肉を持っていかれたかもしれなかった。噛まれたのが指や耳ならば、それらを失っていたかもしれない。


 目下のところ香織は落ち着いていたが、いつまた襲い掛かってこないとも限らなかった。


 北村は香織から距離をとり、警戒を強めた。


 部屋の中はテレビもついておらず、電灯も消えたままだった。

 朝日はまだ低く、窓枠の一部に光を投げかけるのみだ。

 佐山町には雑木林が多く、蝉の声が遠くから聞こえていた。

 緊張感と静寂は一時間ばかり続いた。


 そんな中、


 ピンポーン


 玄関のチャイムが鳴った。


 北村は焦った。


 時刻は八時四十分。宅配便にしては、早過ぎる。


 友達か?家族だろうか?

 会社の同僚や上司かもしれない。香織は昨日、会社を無断欠勤している。真面目な彼女がそんなことをするのは初めてだろうから、たった一日で心配した誰かが様子を見に来たとしても、おかしくない。


 北村は立ち上がって、インターホンのモニターを見た。


 モニターには若い男が映っていた。茶色の短髪で耳にピアスを空けた、見るからに軽薄そうな男・・・。


 折れた前歯がズキンと痛んだ。


 この間僕を殴った男だ!

 香織の婚約者だという男!

 こいつ、こいつ、こいつのせいだ!


 北村は胃がムカムカするほどの怒りを覚えた。


 こいつがいるせいで、こいつが僕を殴ったせいで、僕は絶望に沈むことになったんだ。

 そうじゃなければ、この部屋に不法侵入することもなかったし、彼女が死ぬこともなかったんだ!

 見方を変えれば、こいつが香織を殺したようなもんじゃないか!


 怒り。そして、自分のしでかした事がバレるかもしれないという恐怖。

 二つの負の感情が北村の中で渦を巻いて混ざり合い、わずかに残っている正常な精神を侵しつつあった。


 しかし今は、どうにかしてこのピンチを乗り切らなければならない。


 自分の内側で急速に肥大するパニックを強引に抑え込んで、北村は立ち上がった。

 計画らしい計画は何一つなかった。


 ただ、自分より十は年下で、見るからに頭の悪そうなこの男なら、上手くすれば言い包められるかもしれないと思った。

 いや、そうしないわけにはいかないのだ。何とかして誤魔化さなければ!


 あの男は、僕が香織をストーカーしていたことを知っている。婚約者の部屋を訪れたとき、そんな男がいたら、奴は逆上するだろう。

 ことによったら、いきなり殴りかかって来るかもしれない。いや、あの男なら十分考えられることだ。

 そうじゃない。・・・そうじゃないぞ、北村章夫。本当に危惧すべきなのは殴られることじゃない。

 たとえもう一本(二本であろうと、三本であったとしても)歯を折られたとしても、たいした問題じゃない。

 最も避けるべきなのは、この殺人がバレることだ。

 彼女が通常ではなく、魔術で生き返らせた死体だとバレることだ。


 北村は玄関のドアを開けた。

 香織の婚約者だという男は、ワックスをつけた前髪を触っていたが、慌ててその手を引っ込めた。

 もちろん、出てくるのが自分だなどとは、夢にも思わなかっただろう。


 茶髪の青年は北村の顔を見て、凍り付くように動きを止めた。


 さぁ、芝居の開幕だ。

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