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涙と膿 18

 香織は寝ぼけたような顔で(無理もない。眠るどころか、死んでいたんだ)北村の顔を見た。

 その目は、瞬きをせず、ギョロリと動いて北村を見た。眼球には、無数の黒い血管が走っていた。


 記憶はないのだろうか?


 あったとしたら、北村の顔を見て、再びパニックに陥るはずだ。

 もし記憶がないとしたら、それは北村にとって好都合だ。記憶喪失の彼女となら、もしかしたら・・・。もしかしたら、夢にまでみた関係になれるかもしれない。


 あるいは、生き返ったばかりで、まだ頭が働いていないのだろうか。

 そうすると、ちゃんと意識が戻ったとき、困ったことになる。

 騒がれたりしたら、どうしよう。


 また殺すか?


 北村はブンブンと首を振って、その考えを打ち消した。


 まさか。ここまで苦労して(そしておそらくは自分の魂まで差し出して)生き返らせた人間を、また殺すことなんてあり得ない。


 今夜の一件で、自分の中の殺人に対するハードルが、ぐんと下がったような気がした。人の命は、その気になれば簡単に奪うことができるし、またその気になれば生き返らせることだってできる。

 そんな意識が自分の中にあることに気付いて恐ろしくなった。


 もしそうなったら、つまり記憶を取り戻したら、土下座して詫びよう。出ていけと言われたら出て行こう。少なくともそれで彼女は生き続けるし、僕は殺人犯にならなくて済む。


 香織が入っているのは水風呂だ。夏とはいえ、長時間浸かっているのは体に毒だ。


「香織ちゃん。出ようか」


 香織の手をとって促すと、彼女はバスタブの中で立ち上がり、ゆっくりとした危なっかしい足取りながら自分で歩くことができた。


 隠そうともしない彼女の体は、乳房も尻も丸出しで、腹には縫い合わせた十七か所の傷跡があった。


 北村はそれらを見ないようにしながら、彼女の体をバスタオルで拭いてやった。


 体は信じられないほど冷たかった。


 傷口からの血は、ほとんど止まっていたが、まだいくらか出ていた。

 バスタオルは一度使うとひどく汚れたので、捨てることにした。


 接着剤にすれば良かったんだ。


 そう思い当たったが、今はどうすることもできない。必要があれば、後日買ってくることにしようと考えた。


 香織の部屋には、見たこともないくらい本格的な救急箱があったので、腹部に包帯を巻きつけた。包帯など巻いたことがなかったが、どうにか形にはなった。


 クローゼットとタンスから、適当な下着と服を身繕い、苦労して香織に着させた。


 服を着ると、痛々しい傷跡が隠れ、なおさら生き返ったように見えた。


 いや、北村は彼女が生き返ったと信じた。精一杯信じようとした。たとえ縫い合わせて、形だけ整えた死体でも、北村にとって〝それ〟は、紛れもなく香織だった。


 むしろ、これまで遠くから眺めるだけで、ろくに話しかけることもできなかった女性よりも、ずっとリアルな〝香織〟だった。


 目覚めてから、まだ一度も瞬きせず、呼吸すらしていなかったとしても・・・。




 あれから二週間・・・。


 香織に変化は見られない。


 最初の頃、香織の様子がおかしかったのは、生き返るための段階だと思っていた。

 今は様子がおかしいが、やがては傷も癒え、元通り呼吸も瞬きもする、普通の人間に戻るだろうと。


 しかし、そうはならなかった。


 変化がないわけじゃない。青白かった顔色は、徐々に黒みを帯びてきている。肌や眼球の表面に血管が浮き出していく。


 腐敗が進んでいる。


 香織は一日のほとんどの時間、フローリングの上に、崩れた正座の姿勢で座り込んでいた。


 ときおり、身じろぎしたり、ウゥと呻いたりする。

 呻くと言っても、呼吸はしていないから、やはり何かの拍子に肺から空気が漏れるのだろう。


 香織は生きているのか?それとも死んでいるのか?


 北村がこれまで培ってきた常識では諮ることができない。

 どちらにせよ今の彼女には、通常の生きている人間に比べて何かが欠けている。

 それは何かと考えると、どうしても、あの言葉が頭に浮かんでしまう。


 魂・・・。


 惧堂我磨は、魂を取られた人間は死ぬと言った。

 ならば、やはり香織のこの状態は死んでいるということなんだろうか。

 しかし、今となっては、そんなことはどうでもよかった。


 彼女が生きていようが、死んでいようが、こうしてただ座っているだけなら、どんなに良いだろう・・・。




 香織が生き返った翌朝、北村はベッドの上で毛布に包まって目覚めた。


 暑い中では肉体の腐敗が進むため、部屋のエアコンはたえずフル稼働させていた。

 香織は少しも寒そうではなかったが、北村はまるで冷蔵庫の中で暮らす気分だ。毛布をかぶっていなければ凍えそうだった。


 前日、香織をベッドに寝かそうとしたが、上手くいかなかった。


 香織はテレビとベッドの間の、フローリングの床の上が気に入っているのか、何度ベッドの上に寝かそうとしても、すぐに立ち上がり、その場所に歩いて行って座り込むのだ。


 異変には、すぐに気が付いた。


 香織の来ている白いニットのセーターに、首元から胸の辺りにかけて、点々と血がついていたのだ。


 北村は最初、傷口が開いて血が出たのかと思った。

 だが、傷口はもっと下の方だ。

 血は鮮やかな色をしていたが、流れ出したというよりは、飛び散ったという感じだった。

 もちろん、傷口が開いて吹き出すこともあり得たが、そうすると、腹部に血がついていないことは不自然だ。


 もしかして、新たにどこかに傷をこしらえたのではないだろうか。


「あれ?これ、どうしたの?香織ちゃん」


 さらに、顎の辺りに血がついていた。


 北村はティッシュを数枚とって、香織の口の周りを拭ってやった。

 まだ乾いていなかった血は簡単に拭き取れたが、相変わらず傷は見当たらない。


「なんだ、これ?」


 血と一緒に、黒い毛のようなものがついていた。


 北村は胸に不吉なものを感じた。


「香織ちゃん、もしかして・・・。何・・・か・・・、食べたの?」


「ウゥ・・・」。返事をするように香織が呻いた。


 同時に、喉の奥で何かがゴボゴボと音を立てた。

 ゆっくりと胃から食堂を通り、香織の中を何かが逆流してくるのがわかった。


 香織が大きく口を開け、喉の奥がはっきりと見えた。

 口の粘膜は本来のピンクがかった赤より、かなり黒く変色していた。


 見たくない。


 そう思ったが、北村は目を逸らすことができなかった。


 大きく開かれた喉の奥から、何かが出てきた。

 北村には毛むくじゃらの醜い生き物が、這い出して来たように見えた。


 香織はほとんど声を立てることなく、それを口から出した。


 なんだ・・・、これは・・・!


 生き物ではなかった。

 グチャグチャに混ざり合った、血と肉と毛の塊。


 ネズミ・・・、ドブネズミだ!


 そう思い当たった瞬間、今度は北村の胃から、内容物が逆流してきた。

 とてもトイレへ行くまで耐えきれず、ゲェゲェと声を立てて床に吐いた。

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