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涙と膿 17

 北村は香織のマンションの、部屋の前まで戻ってきた。


 右手にあの小瓶(ロザリアの涙?惧堂は『魔術の産物』だと言う)を握りしめ、脇には別の薬品が入った1リットルの茶色の瓶を挟み、落とさないように気を付けながら、慎重にドアを開いた。


 わずかに開いたドアの隙間から濃密な血の匂いが溢れ出し、北村は吐き気を覚えた。

 玄関の明かりはつけたままだった。そうすることに、特に意味はなかったが、北村は夜出掛けるとき、そうする習慣があった。


 それなりに綺麗に掃除したつもりであったが、玄関は酷い状態だった。

 薄黄色の光に照らされた床は血を拭きとったというよりも、塗りたくったと言う方が正しい。あのときは気付かなかったが、壁にも幾筋か血潮が走っている。


 血はまったくと言ってよいほど乾いていなかった。

 時間の感覚はあやふやだったが、どうやら、そんなには経っていないらしい。


 バスルームの扉は閉じていた。

 その向こうの光景を思い出して、北村は背筋が寒くなった。


 もし、彼女がまだ生きていたら・・・。


 それが一番恐ろしいことのように思われた。だから扉を開けたとき、彼女の死体が前に見た通りの格好でバスタブに横たわっているのを見て、むしろ安心した。


 北村はまず、香織の両脇を後ろから持ち上げ、バスタブの中から彼女の死体を引っ張り出した。


 香織のカッターシャツの中に溜まっていた大量の血がバタバタと音を立てて床にこぼれた。


 北村は臓物が零れ落ちたのかと思って焦った。そんなことがあれば、もう一度詰めなおさなければならない。

 これからしなければならないことについては、惧堂我磨から指導を受けていた。

『ここでのあなたの頑張りが、今後の彼女の状態を決めることになります』


 玄関の明かりは暗く、作業には不向きだったので、リビングまで香織を引きずった。


 華奢な彼女が、こんなに・・・。

 そう思うほど彼女の死体は重かった。


 次に北村は部屋の中を物色し、タンスの一番上の引き出しに裁縫箱を見つけた。

 簡単なソーイングセットでも良かったのだが、思ったより良いものがあった。

 裁縫箱はプラスチック製で、蓋を開けると中に裁ち鋏、糸切狭、針のセット、針山、ミシンのボビンなどが入っていた。

 糸は白と黒の二つがあった。


 北村は迷わず、白の方を手に取った。

 香織の白い肌には、こちらの方が目立たないと思ったからだ。


 裁縫など子供の頃受けた学校の授業以来だ。

 しかしまさか、人間の体を縫うことになるとは・・・。


 北村は香織の衣服をすべて脱がし、床の真ん中に横たえた。若い女性の裸を生で見るのは初めてだったが、一切興奮することはなかった。

 白い肌についた十七か所の刺し傷からは、今も何かの拍子に血が溢れだした。


 部屋中からタオルを集めてきて血を拭ったが、なかなか血はおさまらなかった。床に広がっていく血を見て、北村は刺し傷の幾つかが背中まで貫通していることを知った。


 ある程度血を拭いきったところで、ようやく縫合に入った。

 せっかく白い糸を選んだのに、糸はすぐに赤黒く染まった。

 慣れない針仕事(というよりは、まるで外科手術だったが)は、予想以上に時間がかかった。


 こうしている間にも、死体の腐敗は進んでいく。

 そう思った北村はエアコンの温度設定を目いっぱい下げた。


 腹部の刺し傷を縫合し終え、死体をうつ伏せにして、背中の縫合を終えたときには、うっすらと空が白んでいた。


 ここからが本番だ。


 北村はバスタブに水を張り、リビングから香織の死体を担いできた。


 できれば、そっと横たえたかったのだが、死体は重く、北村の腕力では上手くいかなかった。

 北村は倒れこむようにバスルームの床に膝をつき、香織は頭からバスタブに突っ込んだ。

 裸の下半身が蟹股に、だらしなく投げ出されていた。

 北村はそれを掴んでバスタブの中に放り込んだ。


 水中で縫い合わせた傷口から血が煙のように立ち上り、バスタブの水はピンク色になった。


 そのままだと、死体が浮いて、一部が水面から出てしまうので、台所にあった2リットルのペットボトルを三本、中に水を満たして重しにした。


 ようやく準備が整った。


 北村はまず、大きな茶色の瓶の蓋を開け、中身をバスタブに注ぎ込んだ。


 ツンと鼻をつく匂いがバスルーム内に広がった。


 ホルマリンだ。


『これで死体の腐敗を遅らせることができます。今後も、定期的に入浴させてあげてください』

 惧堂我磨は、そう言った。


 最後に北村は悪魔市で手に入れた、あの気味の悪い液体の入った瓶を手に取った。


 ロザリアの涙。


 これで香織が生き返る・・・。


 そうなるような気もしたし、ならないような気もした。

 もちろん、完全に疑っていたのなら、何時間もかけて死体の傷口を縫い合わせるなどという、気がふれているとしか思えない作業をするわけがなかった。


 しかし、そうやって死体をいじくり回せば、するほど、こんなものが再び動き出すはずがないと思った。


 北村は瓶の中身を、残らずバスタブの中に空け、


『あとは待つだけです』


その横で膝を抱えて座り込んだ。




 どうやら、眠ってしまっていたらしい。


 無理もない。圧倒的な精神的ストレスを抱えて、徹夜で動き回っていたのだ。


 バスルームに時計はないので、正確な時間は分からなかったが、そう長く眠ったつもりはなかった。眠りの深いところまで一気に沈み込み、底を蹴って浮かび上がって来た。そんな感じだった。


 ハッとしてバスタブの縁に手をかけ、水中を覗き込んだ。


 そこに、香織はいた。

 北村が沈めた時のままの姿勢で、2リットルのペットボトルを三本のせたままバスタブの底に寝そべっていた。

 焦点の定まらない目は、虚ろに開いたまま、水面を見ていた。


 北村はホッとしたような、がっかりしたような気分になった。

 惧堂は、生き返るまでにどれくらいかかると言ったか?


『個人差はありますが、だいたい二時間から三時間くらいです』


 だったら、まだ効果が表れるには時間がかかるだろう。


 そうだ。まだ担がれたと判断するには早い。

 だけど、このまま生き返って、香織が溺れるなんてことはないんだろうか。


 今頃になって、そんな疑問が浮かんできた。

 そして、いくら考えても、惧堂がそれについて言ったことが思い出せなかった。


 大丈夫さ。赤ん坊だって、母体の中では羊水に漬かっているんだ。案外生き返るということは、新たに生まれ直すようなものかもしれない。


 そのときバスタブの底で、香織の両目がぎょろりと動いた気がした。


 北村の心臓がドクンと一つ大きく打った。


 生き返った?!


 だが、よくよく観察してみると、彼女に何の変化も見られなかった。


 気のせいか・・・。


 が、違った。

 次の瞬間、香織は鼻と口から勢いよく気泡を吐き出し、両手両足をバタバタさせた。


 そのあまりの異様さに北村は悲鳴を上げそうになったが、溺れてしまってはたいへんと、慌てて彼女の上からペットボトルをどかし、ホルマリンの中に上半身をほとんど突っ込むようにして、水中で彼女を抱き起こした。


「香織ちゃん!香織ちゃん!しっかりして!」


 香織の肌は弾力がなく、水を吸って妙に柔らかく、ホルマリンのせいかヌルヌルした。それは死体の感触だった。


 水面から上半身を出した香織は、鼻と口から多量の水を滴らせていたが、せき込むでもなく、少しも苦しそうにしていなかった。


 そして低い声で「うぅ・・・」と呻いた。

 声を発したというよりは、何かの拍子に肺から空気が漏れ、それがたまたま声帯を通ったという感じだった。


 何故なら香織はまるで生きているかのように動いてはいたが、呼吸をいっさいしていなかった。

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