涙と膿 16
広くはない。
八畳、せいぜい十畳といった店内はほぼ正方形をしていて、左右の壁は天井まで、すべて棚になっている。棚には、ずらりと瓶が並び、得体のしれない液体やもので満たされている。
傘つきの裸電球が二つぶら下がっているだけで、あとは外から差し込む赤い光だけだから、店内は暗い。
店の中央に不釣り合いなほど大きな薪ストーブがあり、煙突が天井に続いていたが、もちろん火は入っていない。
奥にカウンターがあり、ここの店主らしい男が一人、ろくに客も来ていないこの店で、背筋を伸ばしてきちんと立っている。
ミイラのように瘦せこけた男だ。
破れて汚れたワイシャツと、サイズの大きすぎるスラックスを身に着けている。
まるで無人島に漂着して半年ほど暮らした後、救助されたばかりの人みたいだと北村は思った。
店主の顔には鼻がなかった。
鼻の骨が、頬の高さからまったく隆起していない。鼻の孔だけが、八の字をかいた溝になっていた。
惧堂はこの店主のことを『小人に似ている』と言ったが、少しも小さくない。体重はともかく、背は北村より高いくらいだ。
「や、我磨の旦那。お久しぶりで」。店主が笑顔で声をかけてきた。
見た目に反して、気さくそうだ。
鼻がなくても笑えるんだなと、北村はどうでもいいことを知った。
どうやら『陽気』の方は本当らしい。
店主は北村の顔に目をとめ「ありゃ?新顔さんだ。お弟子さんで?」
惧堂は意味ありげに苦笑して「弟子はもう、とらないと決めたんです。この方は、そこで会ったばかりです。なんでも、偶然迷い込んだそうですよ」
店主は笑った。「またまたぁ。ここは悪魔市ですよ?偶然迷い込むだなんて・・・」。言いながら惧堂の顔を見、北村の顔を見た。二人がまったく笑っていないところを見て、店主は鼻のない顔から笑顔を引っ込め「本当なんですかい?」と感心した。
どうやら、ここに迷い込むというのは、相当に珍しいことのようだ。
魔術・・・、まさか。
そんなもの、あるわけがない。さっきは、限界の精神状態にあって優しい言葉をかけられ、思わず泣いてしまったけれど・・・。その後流されるように、こんな店までついて来てしまったけれど・・・。
魔術なんて非科学的なものが、この世に存在するはずがない。
こいつらは二人で組んで、僕を嵌めようとしているに違いない。
見てろよ。じきに金銭を要求してくるぞ。
「ロザリアの涙を」。惧堂はカウンターの70センチ手前で足を止め、微動だにせず立ったままそう言い放った。
鼻のない店主は「あいよ」と返事して、カウンターの後ろの棚の、一番上から背伸びして、液体の入った小さな瓶をとった。
高さ5センチ、直径2センチほどの円筒形の瓶で、中ほどが少しくぼんでいる。
カウンターの上に置かれた瓶の中身を見て、北村はギョッとした。
瓶の中身は黄色の液体だったが、その中で黒い(いや、濃い茶色だ)何かが蠢いていたのだ。
一粒一粒は小さく、単体なら分からなかったかもしれない。
しかしそれは、まるでミクロのイワシの群れのように、一定の規律に従い、組織だって動いていた。
惧堂はゆっくりと北村の方を向いた。
黒コートの男が立っていたのは裸電球の真下だったので、彼はスポットライトの光の中にいた。
もう一つの裸電球はカウンターの上にあり、ナントカの涙が入った瓶が照らされていた。
鼻のない店主は影の中にいた。
「さて」と惧堂は言った。「これを使えば、あなたの愛する人は再び目覚めるでしょう」
「こ・・・、これは・・・」
『いったい、何なんですか?』と訊こうとしたが、言葉が出てこなかった。
何故だか北村は恐ろしくて溜まらなかった。
惧堂は続けた。「しかし当然、タダというわけにはいきません。あなたには、お代を払っていただく必要があります」
きたぞ。と北村は思った。
十万円か?二十万円か?・・・百万円なんて言わないだろう。そんな金を持っていないのは、僕を見ればわかるはずだ。いや案外、親の財布をあてにしているなんてこともあり得る。
「あなたの魂です」
「・・・は?・・・た、・・・たましい?」
「魂については、説明が必要でしょうね」
惧堂の後ろで、店主がやれやれとため息をついた。これだから素人は・・・と言わんばかりだ。
たましい?魂か。
悪魔が魂と引き換えに願いを叶える。そんなおとぎ話なら、聞いたことがある。
「魂とは、簡単に言えば人間が人間である証のようなものです。あなたの肉体よりも・・・心臓や脳や、記憶や人格・・・、そんなものよりも、もっと本質的なあなた、それが魂です。
この世界で、あなたがあなたとして存在する証。車を運転するのに免許証が必要なのと同じようなものです」
「はぁ・・・」。わかったような、わからないような答えだ。だが、北村が知りたいのは、そういうことじゃない。「あの、でも・・・。それを取られると、僕はいったい、ど、どうなっちゃうんです?」
「当然、死にます」
「え?!」。つまり、命と引き換えに、この気味の悪い薬を売りつけようというのか?!「し、死んじゃったら意味がないじゃないですか!」
惧堂は大きく肯いた。「もちろん、そんな取引が成立するはずがない。
実は私、融資の仕事もしておりましてね。あなたが支払う魂、私が立て替えさせて頂こうと思っております。もちろん一時的に、ですけれど。
返済方法は、追ってお教えさせていただきます」
魂?お金じゃない?
魂なんてもらって、こいつら、何の得があるんだ?いや、そもそもそんなものが存在しているなんて、本気で考えているのか?
こいつら、二人そろって頭がおかしいんだ。
そう考えた北村だったが、その呼吸は浅く、心臓は早鐘を打っていた。
恐怖と希望が入り混じった複雑な、そして強烈な感覚。
或いは・・・。或いは、すべてが真実ということか・・・?
だとしたら香織は生き返り、僕が今夜犯した過ちは無かったことになる?
そして僕は魂を抜かれ・・・、死ぬ。
「さぁ、北村章夫さん」。惧堂我磨が裸電球の光の中で言った。中折れ帽の作る影が、真っ白な顔を覆い隠し、その表情は読み取れない。「重大な決断です。おそらくは、あなたの人生の中で最も重大な・・・。
ゆっくりお考えになってください。私はいくらでも待ちましょう」
北村はゴクリと唾を飲んだ。
惧堂も店主も、少しも有無を言わせぬ雰囲気ではなかった。
「今回はやめておきます」と、洗濯機の買い替えに家電量販店を訪れたときのように断っても、問題なさそうだった。
実際のところ、理由はわからなかったが、それが最善の策のように思われた。
こんな訳の分からないところにある、訳の分からない店で、訳の分からない男たちと訳の分からない契約を交わすのは、懸命ではない。
彼らが詐欺師であるならもちろん、狂人であったとしても。
魔術なんてものが本当に存在していて、この店がそれらを扱っているというのなら、尚更だ。
何より、頭の奥では『こいつらはヤバい。やめておけ』とサイレンが鳴り響いていた。
長い時間、北村は迷っていたように思う。
十分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。
「ぼ、僕は・・・」
やがて北村は、口を開いた。
どこかで(あるいは頭の中で)、ガランガランと鐘の鳴る音がした。
入口のドアベルの音かと思ったが、もっとずっと重い音だった。




